楽山の反省芝居
 
 『知的生活の方法』渡部昇一著
 2021年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
楽山は、反省文らしきものを書いてきました。とても浅い、おふざけに過ぎません。既に、3年が過ぎ、無反省と無責任では済まないところに来ています。それでも、呆れるほど、全ての非を無視したまま、書くことで済ませようとしてきます。楽山が書けば、批判記事が付いてくる、という成り行きが続きます。
 
*内容
『知的生活の方法』を読み返してみた。前半は知的生活の基本(自分に正直であること、繰り返して読める愛読書を持つべきことなど)が説かれており、後半は知的生活を継続する上での注意点、教訓などがいくつも紹介されている。
 
知情意の全てが不足~欠損している楽山が、「知的生活」などと言っています。気取りを隠さなくなったようです。正しい教訓を真摯に受け止めているなら、現在のような嘘と詭弁のお気楽山にはならなかったはずです。また、嘘を吐きました。信頼度ゼロらしい日々を過ごしているようです。
 
*反省
前は本書を読んで、わくわくして前向きな気持になったものだったが、今回はそれよりも自分の未熟さを思い知らされた気分である。
 
「わくわく」しなくなったのは、高等感情鈍麻が進行したからでしょう。「未熟さを思い知らされ」ているなら、今回の記事は書かなかったはずです。楽山の言葉が、楽山の嘘を知らせています。
 
まず一つは、自分は克己心が弱まり、背伸びした読書をしなくなっているということである。著者は楽しみとしての読書だけでなく、意志を用いた読書もしているらしい。でも最近の自分は、後者の読書はさぼっているので、ここは直したい。
 
「背伸びした読書」とは何でしょう。楽山が、これ以上背伸びしたら、恐怖です。「意志を用いた読書」とは何でしょう。楽山は、誇大妄想的に、いい言葉を拾っては自分に当てはめてきただけでしょう。実に、お気楽に、「ここは直したい」と言って、忘れてゆく楽山です。
 
もう一つは、未読本を追いかけてばかりで、同じ本を繰り返し読むことを怠っているということである。本を十冊読むとしたら、そのうち二、三冊は過去に面白いと思った本の再読にしてみようかと思う。三つめは空間確保である。こればかりは良い案は浮かばず、今後も改善できそうにないのが残念。とほほ
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の精神病理から言葉を選んでいるので、「とほほ」が読者に対して失礼だということが分からないのです。ならば、反省して、自らの書いてきたことを否定するしかありません。この3年間は、「とほほ」で済む話ではありません。
 
病質のために無反省だから、おかしな文章を書いてくるのです。言い換えれば、「とほほ」と言えば反省したことになると思う心性が、病質なのです。真剣味が、そこで、打ち消されるということです。「とほほ」と書くくらいなら、「改善できそうにない」なら、書いて公開するべきではないということです。
 
この他にも反省点は多くあるのだが、とにかく今回は自分のふがいなさを痛感した次第である。でも落ち込んでいても仕方がないので、自分なりに状況を改善する努力をすることにしよう。
 
「反省点」「ふがいなさ」「痛感」「改善する努力」・・今までのことがなかったら、うっかり真に受けてしまいそうな、優等生の真似をする楽山です。しかし、無反省で、言葉だけで、努力というものをした跡が、この3年間、表れたことはないのです。楽山が、否応もなく、楽山の失格を表しています。
 
「状況を改善する努力」という当たり前のことを、全然、してこなかった楽山が、今さら、何をするつもりなのでしょう。楽山には、何を言っても信じてもらえず、相手にされなくなって、独り言だけの日々が待っているとしか思えません。人間で在り続けることから、どんどん、遠くなるでしょう。
 
(ネットより)
イソップ童話のひとつ「オオカミ少年」。「嘘をつく子供」というタイトルでも知られています。ではまずあらすじを簡単に紹介していきましょう。
ある村に、羊飼いの少年が住んでいました。退屈しのぎに「オオカミが来たぞ!」と叫んでみると、大切な羊が襲われたら大変と、大人たちが武器を持って大慌てで飛び出してきます。しかしオオカミはどこいもいません。
大人たちは少年を叱りますが、少年はその後も懲りることなく嘘をついては、慌てる大人たちの姿を見て面白がっていました。
ところがある日、本当にオオカミが現れます。少年は慌てて「オオカミが来たぞ!」と叫びましたが、もう大人たちは誰も彼の言うことを信じてくれません。
結局助けは来ないまま、大切な羊たちは皆オオカミに食べられてしまったのでした。
このあらすじから転じて、「オオカミ少年」という言葉は、嘘をくり返して信用されなくなった人という意味をもつようになりました。
 
まさに、楽山は、ひどい目に遭うまで恐れを知らぬ、嘘吐きの、オオカミ少年の、成れの果てに向かっています。本当に危ない時に、崖っぷちの大事な時に、誰にも助けてもらえない人生です。
 
 
自滅の刃

自滅の刃
 
 
(2021年12月29日)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の嘘と詭弁と罪と偽善が「人間の性」であるなら、とうに人類は滅びています。楽山の被害者は、おとなしく退いてゆく人ばかりではないと思います。楽山が良心のある人ではないように、この地上には、良心のない人が、いっぱい、います。心からの反省は、そういうこの世を生きるためです。
 
人間でなくなるばかりではなく、人体ですらなくなるような危うい道を、楽山はさまよっているのです。オオカミ少年みたいな楽山が、嘘吐きが嘘吐きに出会うと、サディストがサディストに出会うと、いつか、路地裏に転がり、がけの下に潰れ、海面に膨らんで浮かぶような惨事もあり得るでしょう。
 
 
 
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