詭弁に乗る楽山
 
 
 これからの宗教と無神論(中村圭志氏のツイッター)
 2022年01月02日 楽山日記(LD)を批判。
 
 
楽山は、他者の詭弁を利用するしかなくなっています。元々頭のまとまらない人です。理路は散乱し、恐らく、多くの人格に成りすましているので、脳も精神も、マルチなHNと同様、分裂しているのかもしれません。統合失調症は、昔、精神分裂病と呼ばれていました。しかし、楽山は、精神病ではないと思います。
 
楽山は、体質的な精神障害であるところの精神病質(サイコパス、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害、NPD)だと思います。ゆえに、半端な言論をもって、何より自己顕示欲が原動力であるため、その虚言と自己愛と罪悪感の欠如は、関わる人を悩ませ、病ませる可能性があるのです。
 
 
*偶然
 今年は、無神論についてもっと積極的に書いてみようと思っていたら、タイムラインに次のツイートが流れてきた。こういう偶然はちょっとうれしい。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ドーキンスの無神論関連の本に関しては、アマゾンなどでは宗教信者からの否定的なコメントが書かれることがありますが、書き手に読解力がないことは明らかです。信者が相手にしないのに無神論を説くことに何の意義があるのか?との意見もありますが、やはり未来の世代を見据えての展開だと思います。
午後1:43 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論が通ったら、未来はよくなるのでしょうか。はっきり分かるもの、例えば、物体や、その運動のようなものでないと信じない者たちは、恐れもなく物体のように神を考えるのでしょう。何故なら、宗教的感性がないからです。宗教的感性とは、謙虚な良心であります。分からないと言える心であります。
 
 
*無神論と向き合う信仰
これには同感だ。本当の信仰というものは、無神論から目を背けることではなくて、それを学び、理解し、乗り越えてこそ成立するものではないかと思う。
 
すごい詭弁です。否定しているのに、「理解し乗り越え」るなどと言っています。「本当の信仰」と言いながら、信仰を否定するのです。神の論も、神がいない論も、成立することはありません。神は、人の論で成り立ってなどいないからです。ましてや、楽山は、人の論も成り立ってもいないのです。
 
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
現代における無神論の台頭には論理的な必然性があるので、信者がどのような心情をもとうとも、これに向き合わなければどうにもならないと思います。無神論に顔をそむけてどうにかなると思うのは、30年間何もしないでひたすら没落してきた平成の日本のようなもの、あるいは日本の保守のようなもの。
午後1:46 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
無神論は台頭しているのでしょうか。理屈が理屈を自画自賛しているように見えます。誰も褒めてくれないものだから、説得力のない「論理的な必然性」という言葉が浮いてきます。そして、神に「顔を背けてどうにか」しようという輩は、没落する保守の干物のようなもので、強張って硬くなるのでしょう。
 
 
*宗教と論理
これは自分には理解が難しい言葉だ。とはいえ、宗教においても論理は無視できないということはわかる。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
宗教は第一に情念の問題ですが、情念だけじゃどうにもならないというのは論理の問題です。そして情念がころころ変わってきたというのは歴史の問題。これからの宗教学は、教団の調査などより、知性の歴史の勉強と、論理的思考にかかっていると思います。宗教信者にとっても、これからは論理の時代です。
午後1:48 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
 
「理解が難しい」のに「とはいえ」でつないで、逆の「宗教においても論理は無視できないということはわかる」のだそうです。こういうことで「理解が難しい」が、嘘だと分かるわけです。楽山は、いたるところで理路が破たんしてきますが、元々、国語の勉強が成っていないのだと思います。
 
 
論理は、前提がなく積み重ねのない欲望からの結論を防ぐために、宗教でも必要です。宗教と信仰は、情熱ではあっても、「情念」という言葉で済ませられるものではありません。こういう言葉で、無神論の輩は、心の問題を、殆ど理解できないことを表し、やたら、論理、論理と、振り回すことになります。
 
この世のすべてを、論理で理解することは困難ではあろう。宗教は特にそうだろう。
ただそれでも明らかに論理に反する宗教の未来は明るくはないだろう。
 
良心の正論と直観がないために、詭弁屋楽山の「未来は明るくはない」のです。「論理で理解することは困難」なのに、「論理に反する宗教の未来は明るくはない」などという詭弁で、理路を恣意的に捻じ曲げています。混乱させるために、大事なところでも、曖昧な筆致を使うしかないのが、楽山です。
 
論理によって結論が出せないものであれば信じることは可能かもしれないが、論理によって明確に否定されるものを信じることは無理だからだ。少なくとも私の場合はそうである。論理で判定できない論理を超えるものは信じられもしようが、論理的矛盾まみれの宗教を信じるのは無理だ。
 
信仰は、論理によって結論は出せません。また、信仰は、論理によって否定することも出来ません。これは、基本的な理解の前提です。楽山には、それがないということです。酷いですね。また、楽山の言う論理的矛盾は、空想の超常話の否定でしかありません。
 
つまり、楽山には、まさに、信仰を受け取る器がないのです。そういう、ならず者たちが、超常より、さらに思い上がった超常気取りの屁理屈をもって、"無神論" という成り立たない傲慢の産物を掲げているわけです。信仰は、人を救うことがありますが、無神論は、誰も救えません。
 
無神論者が、快感を得る遊び道具に過ぎないのです。彼らには、独特の、勝ち誇ったような、平安からは程遠い笑い顔があります。とても醜いです。まるで、悪魔のように見えることもあります。正直言って、信じないだけでなく、否定して悦ぶ無神論者は、サディストのサイコパスだと思います。
 
論理によって明確に肯定できないものを、論理によって明確に否定だけできるという楽山の惨めな非論理的詭弁です。論理的にも心情的にも、嘘まみれ詭弁まみれの楽山を「信じるのは無理」です。論理、論理、などと振り回す者ほど、本当の論理を知らず、さらに、知らないという共感さえないのです。
 
心貧しい、即ち、虚心の信仰者は、理屈では知らない神に、人生の縁(よすが)にするほどに大切に想うほどの、温もりと潤いを与えられています。不完全で頼りない、この情緒は、理屈屋が干からびるほど唾を飛ばしても得られないような、まるで別のところから、信仰という命の賜物を与えられているのです。
 
*ドーキンス
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
というわけで、私は必ずしもドーキンスらの宗教観に全面賛成ではないのですが、ドーキンス抜きで宗教は語れないと思うので、しばらくは、(図像学だの死生学だの映画や小説の話だのと並んで)無神論の話を投稿していきますので、おつきあいくださいましな。
午後1:50 · 2022年1月1日·Twitter Web App
 」
さて、この後どんな話が続くのか楽しみだ。
ちなみに自分の場合は、ドーキンスの宗教批判は若干遠く感じることがちょくちょくある。たぶん自分は日本的な宗教観を持っているのに対して、ドーキンスはキリスト教を念頭に置いて話すことが多いせいだろう。これは宗教的文化的背景が異なるのだから、致し方のないことであり、自然なことでもあるのだろうと思う。
 
「おつきあいくださいましな」という軟派言葉にだまされないでください。そして、楽山は、日本的な宗教観も、外国的な宗教観も、霊的な宗教観も、持っていません。また、楽山は、キリスト教を念頭にも前提にも置くことが出来ません。楽山は、大事なことを何もかも腐らせてゆく変質した粘性人格なのです。
 
この楽山という、みじめな荒らし人格は、宗教もなく、文化もなく、背景もなく、どこにも至ることもなく、自然な何ものでもなく、嫌いなものをロンリー的に否定したつもりの孤独な固陋(ころう)のナルシストで、自分の世界でだけ一人前を気取って慰めとしている独り芝居の大根役者に過ぎません。
 
楽山みたいな、心の芯にカビが生えて腐った人格にならないように、どうか、楽山に関わらないでください。近づかないでください。楽山を正常な人間だと思わないでください。いちゃもん屋、雑言屋、夜店のインチキ、見世物小屋のペテン・・程度の、永遠に埒(らち)の開かない論理ーピエロなのです。
 
モジリですが、楽山は、"ウソッピ" 物語の、オオカミ少年です。
 
 
オオカミ少年

オオカミ少年
 
 
(2022年01月04日)
 
 
 
  陰・陽
 
木陰から
雲雀が飛ぶ
雲雀と気付かれぬまま何も告げずに
脇侍(きょうじ)を務めるのは
寂寞を捏(こ)ねる四十年(よそとせ)の落魄
 
白紙の涅槃(ねはん)を装丁する
風の産土(うぶすな)をたずねるように
 
ゆえに折れる木は燃える前から
当然として折れるであろう
 
表裏一体の巡る日の下で
遠く雷は感電して
細い折れ線を自らに向けるに過ぎず
砂塵よりも大量に散乱する光に打たれ
爬虫は狼狽(ろうばい)となって類を呼び
蠢(うごめ)くものは既に顕れており
 
たとえ雲が山陰に隠れても
木陰が木陰である間
惜しみなく
陰にも陽は射している
 
 
  失楽園
 
緑児(みどりご)は自ら進んで
血糊(ちのり)を見せることはない
 
大人はときに血糊を
見せざるを得なかったり
見て欲しくなったりする
失楽園
善かれ悪しかれ
知恵をつけた結果である
 
生きて楽園へ戻る道は
もはや何処にもないが
心有る人々には
姿なき幼児(おさなご)が
ときおり問いかけてくる
 
あなたはだれ?
なにしているの?
 
楽園の住人に問われても
楽園を追われ
忘れてしまった大人たちは
それゆえそのとき
むしろ悩んだり悔いたりする
 
血糊が減ることはないのである
一方で人々はしばしば
血糊に因縁話を付け加えながら
地上の楽園を探し求めて
赤児(あかご)を自慢の腕に抱き
善かれ悪しかれ
やがて知恵を吹き込んでゆく
 
いずれにせよ
血糊が減ることはないのである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の病質の大方はバレています。批判を書いても、感情的に、この野郎などとは思わず、批判するにあたっては、それこそ人間性の深みを持たない有害動物くらいに、文章に表れた筆致や文脈を観察することが必要です。病質者を、人間と思ってはいけません。いちばん大事なことが備わっていない人です。
 
 
 
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