楽山の空想神概念
 
  神と神概念
  2022年01月08日 楽山日記(LD)
 
 
神を、概念として論理的に不在を証明しようとするのは、オモチャ箱を探るようなものです。神の必要性をまるで感じることのない空想には、神が不在なのは当然なのです。神は、希望の必要性も感受性もない者には、恐らく死ぬまで不在です。楽山の無神論はサイコパス的人格の怒鳴り声に過ぎません。
 
概念で神を扱えると思い込んでいる者たちは、信仰の敵、そして、人類の敵となるしかない血の池の住人であります。楽山など空想無神論者たちは、一生を神の不在証明に当てて、空しく世界の良心を吸いつくそうとするバンパイアと言ってよいでしょう。真実の追求において、最悪の妨害者であります。
 
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23:34)・・楽山は、共感がなく、理路が分からないために、実感のない論理の空しさを理解できないのです。いつまでも、ヘラヘラ笑いながら、他者をあざ笑って生きてゆくのでしょう。
 
*幸運
中村圭志氏のツイッターを見たら、最近、自分が考えていたテーマに関連したことがツイートされていた。感想を書いてみたい。
何かについて考えていると、よそからその考えを補完・前進させるヒントが得られるものだが、どうやら今回もそうなったようだ。感謝。
 
名もない自己顕示欲の楽山という悪は、分からなくなると、他の名のある悪を頼みとして、スピーカーと化して働きます。そのことが、楽山の無知蒙昧と、成長不全を表すことになります。「よそからその考えを補完・前進させるヒント」ではなく、全くの人頼みです。楽山には理路が成り立たないからです。
 
楽山の人格が、谷底へ滑り落ちています。こちらの批判に何も答えられない非人間が、神を信じないのは勝手ですが、神聖を感じない楽山が、神聖を否定するなど、入り口で成り立つはずはないのです。何度も言いますが、神の存在証明も不在証明も、人知では不可能です。だから信仰なのです。
 
*超越者
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock【神のパズル④】いわゆる「神の存在証明」がうまく機能しないのは、《時空の外にいて宇宙の原因や設計者として働くとされる神もまた、時空の中の存在者のようにしか語れない》からです。あるいは《概念を超えて実在するとされる神もまた、概念として語られたものとしか言いようがない》からです。
 」
「概念を超えて実在するとされる神もまた、概念として語られたものとしか言いようがない」というのは、まさにその通りだ。
 
いいえ、詭弁です。「概念を超えて実在するとされる神」は、人の概念を超えて、存在も不在も証明されないということです。ここが分かっていない人が無神論者ならば、とても幼稚な集団ということになります。恐らく悪意による何らかの企みがあるのでしょう。楽山は、そのパシリなのでしょう。
 
神は、概念としては語れません。概念として "神" と呼称しますが、概念ではなく、聖書を通して、心に救いとして癒しとして作用した御方を、神と呼ぶのです。それは個人の体験によるものなので、信仰は個人と神との関係です。だから信じない自由があります。しかし不在を主張しても無意味です。
 
執拗に最も無意味な主張をしている楽山は、学習と成長を放棄した病的人格です。誰も関わってはいけません。楽山に関わることは人生の貴重な時間をゴミ箱に捨てるようなものです。楽山は、人間性を捨てて、代わりに、嘘と詭弁という凶器と狂気に快楽を見い出す世捨て人です。だから罪悪感がありません。
 
楽山は、これからも、無駄口を言い、無駄な毎日を過ごすのでしょう。考えることと感じることを放棄したサイコパスの宿命です。神がいないと思うと気持ちがいい楽山の執着は理解不能であるばかりでなく、だまして根拠のない無神論を刷り込んでゆく悪魔性です。
 
漠然とながら、神は人知を超えているなら、人には神のことは分からないだろうし、人には神のことは分からないなら、「人には神のことは分からない」ということさえ分からないだろうと考えてはいたのだが、これよりよほど端的で分かりやすい。
 
また、楽山の屁理屈遊びです。分からないから、証明できないから、信じてはいけないなどということはありません。分かって信じるのではなく、人生の成り行きで心に響いたことを信じているのです。何も心に響くことのない楽山は、何も信じることがないのです。また、自らを証明している楽山です。
 
*滑稽
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
【神のパズル⑤】同様のジレンマは他にもあります。たとえば《信者は自分を超えた絶対者を語る。しかし語っている当人は絶対じゃないので傍目には滑稽だ》。あるいは《信者は神を持ち出すことで自分が謙虚であるとアピールする。しかしそんな神を知っていると吹聴するのは傲慢以外の何ものでもない》
午前9:39 · 2022年1月7日·Twitter Web App
 」
 
聖書によって、生きるために信じている御方に敬虔を学ぶわけですが、その学びの必要性を何も感じないで傲慢になり、笑い、貪って、悦に入っている楽山などが、ただ、人を指して笑いたいがために、無神論を吹聴しているのです。ゆえに、その悪魔性は、まさに、人類の敵なのです。
 
先日、人には神のことは分からないと言いながら、さも自分は神のことを分かっているかのように振る舞い、他者の神認識は間違いだと断じることのおかしさについて考えたばかりなので、こういうツイートを読めたのは愉快である。こういう滑稽と傲慢はそれほど珍しいことではなく、よくあることなのだろう。
 
楽山は、何かを正しく受け取る、ということが、全く出来ない人だと分かります。書けば書くほど、自らを証明する結果が続いても、まだ、愉快なのだそうです。暴言者、そして、反キリストの非人間としての正体が、次々に表れるのは、宿命でしょうか、いや、自業自得であります。
 
あらゆる真実の追求において、楽山のようなものは、真実を「滑稽と傲慢」に変えてゆきます。独り笑い、独り曲解し、自己満悦して有頂天となり、机上の評論家として、オオカミ少年として、ペテン師として、いずれ捨て去られるであろうことにも気づかないのです。
 
でもどうしてこんな滑稽や傲慢が生じるのだろう? 神そのものと、自己の心に描いた神概念との違いに無自覚で、その境界が曖昧だから、神のことは分からないと言いつつ、神について他者に説教することに矛盾を感じず平気でいられるのだろうか。よく分からぬ。
 
「滑稽や傲慢」を生じているのは楽山のほうです。だから、信じてもいないで、神概念などと語れるのでしょう。机上で、いくら神を考えても、空しい理屈にしかなりません。楽山の言論は、神を信じる人々への悪質な嫌がらせなのです。楽山は、百害あって一利ない悪意の、無責任な口です。
 
神は、認識できる対象ではありません。いちばん、神について、おかしなことを言っているのは、楽山です。だから、楽山の言は、既に、終わっているのです。亡霊のように、同じことを繰り返せば、相手は黙るだろうという狙いが見え見えです。楽山は、いつも、疲労だけを与えてきます。
 
「神そのものと、自己の心に描いた神概念との違い」を、人が詳細に知りえないのは、神が人知を超えているためです。しかし、全知全能絶対完全永遠不変という属性は否定しようもなく、ゆえに、人が、全知でも全能でも絶対でも完全でも永遠でも不変でもないことは、弁えることが出来ます。
 
楽山は、その理路が分からないために、反キリストに徹することが出来るのです。楽山は、人間性が分からないために、神に対する人間の態度が分かりません。いつまでも、神の概念遊びを続けている楽山は、ゆえに、理路と感性を持たない、やっかい者としての時間を経過するだけなのでしょう。
 
私が楽山を批判するのは、楽山を変えるためではありません。楽山に、誰も近づかないように、その非人間性、高等感情鈍麻、罪悪感と羞恥心の欠如、嘘と詭弁と三文芝居、無反省と無責任・・などを書いています。楽山は、実に、毎度毎度、その証拠を表すようになりました。
 
楽山が、なぜ、書いたものも、書かれたものも、全く、理解できないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、自己の矛盾を感じないためだろうと思います。俗な言葉で言えば、恥知らずということです。本当に、楽山のような生き方は、恥知らずにしか出来ません。
 
毎度毎度、似たようなことしか書いて来ない楽山です。否定されたまま、弁明もできず、繰り返すだけの楽山に、決して関わらないでください、近づかないでください。自覚も病識もない男です。インテリ気取りで、人真似で、いつも臭い文章しか書けないのは、不都合忘却の権化だからでしょう。
 
楽山は、相手の理路を、すり替えによって乱すことで、相手を混乱させてゆきます。そして、いかにも理屈に強そうな作文をしてきますが、大方、煙に巻くような、どうでもいいことしか言いません。惑わされ疲れ果てることのないようにするには、相手にしないことしかないと思います。
 
人間は、場違いなことについては遠慮するものです。そういう弁えが、楽山には、一切ありません。分かっている妄想だけで生きています。宗教を、楽山は、くみやすしと思っているようです。宗教に必要な、謙虚、敬虔、心の貧しさ、罪の自覚を、全く持っていない楽山は、宗教に巣食う害虫です。
 
楽山は、恐らく、いろんなところで病質がバレて、否定されてきたと思います。そのたびに、悪意と嘘と芝居を強化してきたのでしょう。それは、病質を強化するになり、あらゆる真実を無視できるようになってきたのだと思います。同情の余地のないピュアな悪意によって、獲物を求めているのです。
 
楽山には、説諭は効かないと思います。強制的に捕らえられ拘束され、解放され、復讐されるでしょう。そのあとは、神の裁きが待っている、そういう、斟酌の余地のない異常人格だと思います。この三年間、見れば見るほど、いいことは、何も書けない愚劣な批判対象です。
 
楽山は、自分が言われそうなことを、また言われたことを、そのまま、こちらに向けてきます。いかにも楽山がやりそうな返しです。冷静に見せかける楽山の丁寧語にだまされないでください。私は高齢なので、楽山より先に死にます。生きて書けるあいだは批判を続けます。
 
 
邪悪の執念

邪悪の執念
 
 
(2022年01月09日)
 
 
 
  句読点
 
このようにだけはなりたくない
という人間に
なってしまった今でも
このようにだけはなりたくない
というものがあるのは
まだ人間だから
 
欲とか業とか罪とか
希望とかへの執着が
夢見る頃をとっくに過ぎても
まだ夢も現実も見ている読点
 
このようにだけはなるな
と誰にも言わず
このようにだけはなりたくないもの
に向かっているのに
まだ夢も現実も
いつかどこかで醒めて
自分の声でひとこと言って
それで終わっても
そこから始める気でいる句点
 
 
  迷える信徒
 
隙間のない信仰を
我が魂をして
誠の愛を知らしめたまえ
 
手紙を書きながら
信徒は不意に顔を上げて
はたと筆を止めた
主よ、私が泣いたときから
主は復活の主になられたのです
私は残された生涯を信仰に捧げ
焼かれるためにこの身を渡したとしても
 それが私にできるでしょうか・・・
主よ、あなたは幾度十字架につかれるのでしょう
 
つまずきそうな頭を振って
湧いてくる涙を振って
彼は再び筆を執った
迷える仲間たちのために
 
隙間のない信仰を
育てるためには
隙間だらけの信仰を
何で満たせばよいのか
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人間としての弁えが大嫌いな楽山は、自分は優秀なインテリだという根拠のない妄想によって、反省もせず、好きなように書いて責任を負わない無反省と無責任の体質となり、他者を低く見なすことが、楽山の快感の笑いと満悦をもたらすのでしょう。楽山は、精神障害の中で、最も同情できない病気です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
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