良心3
  
 過去記事「良心」+加筆
   に一部、加筆修正して再録します。
 
 
キリスト者は、人間の良心を捨てて神に従うのではありません。良心とは、神から人が恵みとして与えられた良い心のことです。信仰へ向かう心も含まれています。また、人間としての知性と感性を捨てるのでもありません。人知を捨てて神に従うのでもありません。
 
キリスト信仰は、人の心の良きところ、すなわち、良心を育てます。信仰者にとって、信仰と良心は区別できないものとして存在することになります。良心によって信仰を受け容れ、信仰によって良心は成長します。どちらにも神の導きはあるけれど、人は、それを確定できる能力を持ちません。
 
良心を捨てた者は、心を無視して、超常を信条とするカルトに走ります。神は、私たちが物事を、良心によって判断し行動することを喜ばれます。これが信仰の理想で、ときに悪意で行動することもあるのは罪の性質によります。人に理解できない魔法のような奇跡は、信仰ではありません。
 
 ここでは、本来のあり方として考えて、書いてゆきます。
 
キリストを信じる信仰者においては、神様のほうを向いて、信仰によって、聖霊によって、ということが、よく言われますが、神様のほうを向くことを自覚するのは祈りにおいてであります。すなわち、独りで祈ること自体が神のほうを向くことです。
 
信仰の本来の、欠くべからざる在り方として、そして、信仰者は、正直な祈りを捧げます。飾りや偽りや豪語は神への冒涜です。
 
信仰によって、また、聖霊によって、与えられたものを、これは信仰にいるから良いことで、それは欲望によっているから良くない、という判断が、人間によって、しっかり出来ているでしょうか。否です。神聖についての決めつけは、神への冒涜であり、人に対して弊害を招くものです。
 
神は完全ですが、人は罪の性質によって不完全です。人間は、神の望んでおられることを、そんなに、逐一、分かるわけではないのです。さらに、人は、自分の言動の影響を最後まで末端まで追うことは出来ません。ゆえにその善悪を、人は判断しますが、確定できません。
 
人は、判断し、行動し、結果を反省し祈るのみです。キリスト信仰者は、判断し、行動し、反省し、その結果と裁きを、神に委ねます。ゆえに、究極的には、総てをご存知の神の裁きにお任せするしかないことを知っています。
 
一部の悪魔的なサイコパスを除きますが、どうしているか、どうするべきかというと、他でもない、私たちは、良心に従って、物を言い、行ない、生きようとしているのです。
 
その良心の信仰に、信仰の良心に、神様が、どのように導きや恵みを与え、どのように言い、どのように行えばよいか、いちいち厳密に正しく見定めることは、できないのが人間です。人間が不完全だからです。私たち人間は、確定した真理に生きることは不可能です。
 
また、神様、そして聖霊、またキリストの同伴によって、私たちの良心が、何か、導かれることはあるのでしょう。しかし、それを、確定することは出来ません。人間の思慮は、神には及ばないからです。私たち人間は、確定した正義に生きることは不可能なのです。
 
聖書由来の、聖句由来の、聖なる言葉で表されたものによって、活動しなければならない、という観念があるようですが、そのように言っても、実際は、自分の自由意志です。
 
神意が分かるかのように神聖の言葉を多用することは信仰でしょうか。正しいでしょうか。下手をすると、自分が、神の意志を代行するかのように、振る舞ってはいないでしょうか。この疑問に、一般的な解答はありません。疑問をいだいて、個人が、折々に反省し、祈ることが信仰だからです。
 
神様は、その全能によって、私たちが足らざることを既にご存知です。であるのに、私たちは、強迫神経症のように、神様の御心に沿っているかどうかを検証しながら生きているかのように、振る舞っているつもりになるのは、ある意味、危険でさえあるのです。
 
神様は全能だから、私たちが足らざることを既にご存知です。
 
私たちは、日ごろから聖書に親しみ、祈りを専らとしているなら、正直に祈るように真剣に努めているなら、むしろ、何でもかんでも、神の御心であろうかどうか、ということを、自分で確認できないことも知っているはずなのです。
 
つまり、私たちは、信仰生活の不可欠なこと、聖書に親しみ、聖書について考えているなら、私たちが判断し実行していることについて、むしろ、精いっぱいの良心に従って判断していること、それ以上ではないことを弁えるべきなのです。
 
信仰者には、信仰者の良心があります。詳しいことは知りえなくても、気づかない導きもあるでしょう。私たちは、聖書を読み、正直に祈り、あとは、そこで導かれ培われたであろう良心に従って、行動するべきであろうと思いますし、そうするしかない、そういうありかたしかないのです。
 
信仰と良心は、別ではありません。神秘の神聖の言葉ばかりを使いたがるのは、カルトの特徴です。
例えば、カルトは、心を汚れたものとして見て、霊と言うと安心するようです。
 
心、霊、魂、精神、気持ち、これらの言葉は、目的によって使い分けられています。それらの違いを、人が分かっているわけではないのです。
 
信仰を受ける "土の器" も同様で、比喩表現でありますが、心以外のところにあるとは思えません。聖書由来の神聖の言葉を並べれば神聖を語ったと満悦するのもカルトの特徴です。信条によって合理化して、良心を、ゴミくずのように捨ててゆくのも、カルトの特徴なのです。
 
私たちは、神によって、キリストの同伴によって、良心が成長することを知っているはずです。そこに、人間離れした何かの魔法を結び付けたがるのも、カルトの特徴です。そういう者は、人間性を大事にすることを、人間信仰といって嘲ります。人間離れが信仰だと思っているからです。
 
しかし、人間が、全能の神の意志と行為を代行する自覚の、霊を振り回す信仰?こそ、人間を、自らを、全能者に結び付けて、真の全能者である神を冒涜する "人間信仰" つまり、自分信仰に他なりません。
 
私たちは、カルトと同じような、うわべの言葉だけ神聖なる言い方をして、神聖によって自らを正当化するような冒涜の愚を避けなければいけません。
 
私たちは、神の御心によって行なう、というのではなく、祈り願う信仰の、精いっぱいの良心によって、考え、判断し、行うのだ、という自覚を持つことのほうが、より敬虔に近づくと思います。カルトが装うところの、丁寧語だけの偽の敬虔?と同じであってはいけません。
 
私たちは、総てをご存知の神に養われているのだから、私たちの良心にも御心が働きかけていることを知っています。ならば、自分の良心という成長可能なものを、信仰によって使い、育ててゆく自覚のほうが、人間であるキリスト者らしいと言えるのです。
 
その生き方を支えるのは、キリスト信仰者においては、飾らない正直な祈りです。
 
神が与える信仰の義は、神に対して故意に偽ることをしない人に、即ち、精いっぱい正直な祈りを捧げる人に、惜しみなく与えられます。
 
与えられるのは、信仰の義であって、神の義ではありません。超常の義でもありません。信仰は、魔法ではなく、人間に共感できて、人間が大切に出来る恵みであります。それ以上のことは、神に任せられることです。
 
 
信仰の義は、不変の境地の完成ではなく、キリスト信仰者が成長しつつあることの証しであります。
 
 
 
成長というものが、全く見られないのが楽山とシャロームであります。
 
深い情緒が理解できない鈍麻したパーソナリティ。代わりに、わざとらしく感動したようなオーバーな褒め言葉を書いてくるが、その前後関係に表れていない、どう感動したか全く書かない、説得力の内実がなく説明しない、何も変わっていない、そして、言ったこと自体に、批評家気取りで満悦しているだけです。
 
理路もバラバラで、マイナスを書いて、あとでプラスを書いたら、プラマイゼロだから、責任は負わなくていいと思っているようです。そういうのは、いい加減な奴と思われて信頼してはいけない人だと見なされる、ということが分からないのです。良識・反省・責任感・学習意欲が、一切、見られない人です。
 
人間の知性と感性の及ぶのは、せいぜい、身の周り、情報として知っている範囲、言葉・画像・映像で、感じたり考えたりする範囲に過ぎません。そういう人間が、総てご存知の全能と言われる神を、評価して、その存在と不在、その善悪、などを云々するなど、決してできません。
 
自らの不完全に気づくことが信仰の入り口なのに、神への評価を無理にしようとして、神を、人間の乏しい脳みそで安易に決めつけて気づかないのが病的自己中の入り口にいる楽山とシャロームという傲慢の悪意であります。無神論者ではなく、無神教徒と呼んでいます。
 
そういう人が、真面目なふりをして、真実の追求をしてますって感じで書いてきて人を惑わしているのは、どう見ても、不正だと思うので、こちらも批判を続けています。いかなる妨害にも屈しない時間だけ、命があれば、何かすることはあるでしょう。
 
 

人間としての正しさ

人間としての正しさ
 
 
(2020年01月12日、同日一部修正)
(2021年01月16日、再録+、さらに同日一部修正)
(2022年01月19日、再録+加筆修正)
 
 
 
  宿業と運命
 
性(さが)は人にあり
業(ごう)は我にあり
命(めい)は天にあり
 
運命は天にあり
宿業は我にあり
 
我が道を語らんとするに
「運命」よりは「宿業」と言ふべきならんか
我と我が身のたどりたる道を
我のほかとは思はれ難し
 
あはれ罪人なり
かの日もこの日も
罪は我にあり
 
運命という言葉は、立ち向かうべき障害という意味で使われることと、予め決まっているどうしようもない定め即ち運命論の運命という意味で使われる場合とがあるように思われる。キリスト教で運命というときには前者の方が多いと思う。
 
後者の場合、自分の人生の責任をいわれもない第三者に帰するようだし、キリスト教では人知で計りがたい神の計画や神の導きということは言われるが、運命論を説いてはいない。信仰は、祈りを通して、神と人との双方向である。
 
しかし「目一杯生きてきたけど、こうなるしかなかったよな」というような気持ちをもって自分の人生を振り返ってみるとき、運命という言葉は使いたくない。まことに勝手ではあるが、今のところ宿業という言葉が少し好きだ。他に適当な言葉が見つかるといいのだが。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
書けば書くほど、底が知れてしまう楽山ですが、自己愛性人格障害だからでしょうか、偏向だけの、視野狭窄の、いちゃもんだけの文章を、平気で、しつこく書いて、恥をさらし続けています。不完全を自覚せず、不都合を忘却し、自己顕示だけの執着から、実験動物のように、繰り返しています。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
「すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしかなれません。思った通りにならないからこそ、時々思いがけない試練がやって来るからこそ、自分の想像をはるかに越えて成長することができるのです。」
『こころの深呼吸~気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)
 
楽山は、自分が思った通りになったことはないと思います。自分が、うまく騙(だま)したときに快感を感じるかもしれませんが、それを、楽山は、自分が正しい証拠として、勘違いして悦んでいただけなのです。そのような、自分に都合のよい妄想的な勘違いが、楽山の生き甲斐なのでしょう。
 
結局、勘違いや妄想は、生きる上で、必ず、現実や真実との不整合によって、不快な現象を結果してゆきます。楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、どう慰めるのでしょう。独りで、ニヤニヤ笑い続けて、口を開けたまま、人生を終わりを迎えるのでしょうか。
 
楽山は、今は試練の時とでも思っているのでしょうか。自業自得は、乗り越えるべき試練でしょうか。否、反省して改めるべき罪なのです。しかし、楽山の病質は、無視しておれば解決して楽になる、と教えるのでしょう。自業自得を自覚しないならば、結局、自分の想像を超える崩壊が待っているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
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