悪口と批判は違う
アドラー心理学サロン(アドサロ) @AdlerSalon
ツイッターより
https://twitter.com/AdlerSalon?cn=ZmxleGlibGVfcmVjc18y&refsrc=email
学問の生かし方は、人次第です。
学問なら、命題を提供しても、命令はしないはずです。
命令や指示をする学問は、既に宗教であります。
アドラー心理学から、熱心に自己中心を勧めている者がいて、
不都合健忘症の確信犯になって話が通じなくなっています。
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【悪口を止める7つの考え方】
1. ただ状況が悪化するだけ
2. ネガティブな人が集まってしまう
3. 信頼されなくなる
4. 他人に左右された人生になる
5. 良い人から嫌われる
6. 前向きに考えられなくなる
7. 他人の欠点を見つけても何にもならない
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批判をやめると
1.カルトに都合の良い状況になるだけ。
2.議論の出来る人が減ってしまう。
3.信頼できない人がのさばる。
4.他人の言うことに耳を貸さなくなる。
5.良い人がいなくなる。
6.間違った方向を修正することが出来なくなる。
7.他人の思想の欠点を野放しにする
ということが広まると、誰も成長しなくなり、
誰の思想も幼稚になるでしょう。
学習と成長がなくなるからです。
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陰口を言われても、自分を変える必要はありません。
他人に合わせて、自分を変えようとしなくていい。
マナーを守り、後ろめたい思いが自分に無いのなら、自分を責めたり、否定してはいけません。
陰口を叩かれる原因は、多くの場合妬みや僻みです。
他人の嫉妬に、あなたが付き合わなくてもいい。
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後ろめたい気持ちが麻痺している者がいます。
面と向かって、あるいは、ネットの遣り取りで、
堂々と言われたことには
堂々と返すか、返せないと答えるか、保留するか、
これらを、はっきり示さないと、無視したことになります。
無視すれば、自己中の世界が待っています。
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嫌われているということは、あなたはその人達の脅威です。
本当にあなたを見下しているのなら、嫌ってくることなんてありえない。
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あると思います。存在を否定されることになりかねない。
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嫌われるということは、あなたは同等以上だと認識されている証拠。
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徹底的にさげすまれることも、場合によっては、あります。
あら探しと批判は違います。
それを混同することは、悪や間違いを放置することで、カルトに近くなります。
誰からも愛されることはないとしても、
嫌われていることから、何も学ばなくなってゆくでしょう。
嫌われるだけでなく嫌われ続けることになり、
自分以外が、どんどん、敵になってゆくでしょう。
それが、嫌われることを加速して、防衛として
より完全に近い自己中になってゆくのです。
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そんな人のあら探しをして、自分には価値があると錯覚しているような人間、気にかける価値は無い。
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批判に自分の価値など含まれていません。
人間に対する決めつけが酷いようです。
>誰かに嫌われても、自分を嫌う人達と関わらなければ済むことです。<
嫌なことを無視していれば、自己中心を促進します。
誰もが自己中心になれば、社会が成り立たなくなるでしょう。
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他人が自分を嫌おうがどう思おうが、そんなことはどうだっていい。
他人が自分をどう思うのかは、自分の課題ではなく他人の課題なのです。
自分も他人の課題には介入せず、他人にも自分の課題に介入させてはいけません。
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嫌われるかどうかではなく、人間として受け入れていいことかどうかが問題です。
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自分らしくすることを、恐れることはありません。
他人に合わせていれば「自分が無い人」。
自分都合で生きていれば「自分勝手な人」。
どんな振る舞いにも批判は付き物なのです。
どうせ批判されるのなら、自分らしく振舞ってしまおう。
人は、他人には言いたい放題言う身勝手な生き物なのです。
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自分都合で生きることと
自分らしく振る舞うことは違います。
自分を出しっぱなしにして
身勝手を指摘すると無視する人がいます。
身勝手は、迷惑なのですから
身勝手な生き物と認めてしまったら
人間は、迷惑をかけ合い、学習せず成長しないので、
人間同士が相互に害悪になってしまいます。
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あなたを苦しめているのは、上司でも友人でも親でもなく、あなた自身です。
あなたを苦しめることが出来るのは、あなた一人だけ、あなたを幸せに出来るのはあなた一人だけ。
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他者への関心が薄くなり、自分の気持ちだけが残って、
思考も感情も自己中心になってゆくでしょう。
さらに、そのことに気づくことさえなくなってゆくでしょう。
自己中心から利己主義になってゆくでしょう。
利己主義は、誰にとっても迷惑なことです。
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悲しい出来事なんて存在しない、起きた出来事に対してあなたが悲しいと意味付けしているだけ。
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悲しみは感情だから、意味付けで生まれるものではありません。
悲しみは、無いと思ってなくなることではありません。
悲しみを否定することは、悲しみから立ち直ることも否定する。
悲しみは陰に深まり、心の固まりになり、
どうしようもなく悲しいときに取り返しがつかなくなるでしょう。
悲しみについての治め方が必要なのであって、
悲しみをなくすことは感情を不自然に捻じ曲げ、
浅薄または鈍感または冷淡な人間をつくることになります。
悲しみを気にしなくなって悲しまなくなることは
無神経になり感情が乏しくなって鈍感になることです。
悲しみを克服することは全く違います。
悲しみを麻痺させることの影響は大きく
深い情緒を持てなくなるだけでなく
さらには深い思考が出来なくなるでしょう。
悲しみを、楽しみの上塗りで、ごまかしていると、
本当に深い悲しみを避けようもなく受けるときに
自己破壊的になる恐れがあります。
そのとき思慮も洞察も鈍くなっているのです。
悲しみを忘れた心は
笑いと怒りに短絡しやすく
深い思慮と情緒を失い
嘲りと恨みを増して
沈滞し鈍麻して薄笑みのうちに
何よりも本当の喜びを忘れます。
アドラー心理学の責任は重大です。
でも、アドラーの群れは、今は気にしないでしょう。
悲しみなんて存在しないと思い込むわけですから。
アドラー教と化した名前だけの心理学は
きわめて次元の低いところに人をいざなう宗教であり
これは人間破壊と言ってもよいものです。
(2019年08月03日)
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