悪口と批判は違う
 
   アドラー心理学サロン(アドサロ)‏ @AdlerSalon
   ツイッターより
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学問の生かし方は、人次第です。
学問なら、命題を提供しても、命令はしないはずです。
命令や指示をする学問は、既に宗教であります。
 
アドラー心理学から、熱心に自己中心を勧めている者がいて、
不都合健忘症の確信犯になって話が通じなくなっています。
 
 

【悪口を止める7つの考え方】
1. ただ状況が悪化するだけ
2. ネガティブな人が集まってしまう
3. 信頼されなくなる
4. 他人に左右された人生になる
5. 良い人から嫌われる
6. 前向きに考えられなくなる
7. 他人の欠点を見つけても何にもならない

 
批判をやめると
1.カルトに都合の良い状況になるだけ。
2.議論の出来る人が減ってしまう。
3.信頼できない人がのさばる。
4.他人の言うことに耳を貸さなくなる。
5.良い人がいなくなる。
6.間違った方向を修正することが出来なくなる。
7.他人の思想の欠点を野放しにする
 ということが広まると、誰も成長しなくなり、
 誰の思想も幼稚になるでしょう。
 学習と成長がなくなるからです。
 
 

陰口を言われても、自分を変える必要はありません。
他人に合わせて、自分を変えようとしなくていい。
マナーを守り、後ろめたい思いが自分に無いのなら、自分を責めたり、否定してはいけません。
陰口を叩かれる原因は、多くの場合妬みや僻みです。
他人の嫉妬に、あなたが付き合わなくてもいい。

 
後ろめたい気持ちが麻痺している者がいます。
面と向かって、あるいは、ネットの遣り取りで、
堂々と言われたことには
堂々と返すか、返せないと答えるか、保留するか、
これらを、はっきり示さないと、無視したことになります。
無視すれば、自己中の世界が待っています。
 
 

嫌われているということは、あなたはその人達の脅威です。
本当にあなたを見下しているのなら、嫌ってくることなんてありえない。

 
あると思います。存在を否定されることになりかねない。
 

嫌われるということは、あなたは同等以上だと認識されている証拠。

 
徹底的にさげすまれることも、場合によっては、あります。
 
あら探しと批判は違います。
それを混同することは、悪や間違いを放置することで、カルトに近くなります。
 
誰からも愛されることはないとしても、
嫌われていることから、何も学ばなくなってゆくでしょう。
嫌われるだけでなく嫌われ続けることになり、
自分以外が、どんどん、敵になってゆくでしょう。
それが、嫌われることを加速して、防衛として
より完全に近い自己中になってゆくのです。
 
 

そんな人のあら探しをして、自分には価値があると錯覚しているような人間、気にかける価値は無い。

 
批判に自分の価値など含まれていません。
人間に対する決めつけが酷いようです。
 
 
>誰かに嫌われても、自分を嫌う人達と関わらなければ済むことです。<
 
嫌なことを無視していれば、自己中心を促進します。
誰もが自己中心になれば、社会が成り立たなくなるでしょう。
 
 

他人が自分を嫌おうがどう思おうが、そんなことはどうだっていい。
他人が自分をどう思うのかは、自分の課題ではなく他人の課題なのです。
自分も他人の課題には介入せず、他人にも自分の課題に介入させてはいけません。

 
嫌われるかどうかではなく、人間として受け入れていいことかどうかが問題です。
 
 

自分らしくすることを、恐れることはありません。
他人に合わせていれば「自分が無い人」。
自分都合で生きていれば「自分勝手な人」。
どんな振る舞いにも批判は付き物なのです。
どうせ批判されるのなら、自分らしく振舞ってしまおう。
人は、他人には言いたい放題言う身勝手な生き物なのです。

 
自分都合で生きることと
自分らしく振る舞うことは違います。
 
自分を出しっぱなしにして
身勝手を指摘すると無視する人がいます。
 
身勝手は、迷惑なのですから
身勝手な生き物と認めてしまったら
人間は、迷惑をかけ合い、学習せず成長しないので、
人間同士が相互に害悪になってしまいます。
 
 

あなたを苦しめているのは、上司でも友人でも親でもなく、あなた自身です。
あなたを苦しめることが出来るのは、あなた一人だけ、あなたを幸せに出来るのはあなた一人だけ。

 
他者への関心が薄くなり、自分の気持ちだけが残って、
思考も感情も自己中心になってゆくでしょう。
さらに、そのことに気づくことさえなくなってゆくでしょう。
自己中心から利己主義になってゆくでしょう。
利己主義は、誰にとっても迷惑なことです。
 
 

悲しい出来事なんて存在しない、起きた出来事に対してあなたが悲しいと意味付けしているだけ。

 
悲しみは感情だから、意味付けで生まれるものではありません。
悲しみは、無いと思ってなくなることではありません。
悲しみを否定することは、悲しみから立ち直ることも否定する。
 
悲しみは陰に深まり、心の固まりになり、
どうしようもなく悲しいときに取り返しがつかなくなるでしょう。
 
悲しみについての治め方が必要なのであって、
悲しみをなくすことは感情を不自然に捻じ曲げ、
浅薄または鈍感または冷淡な人間をつくることになります。
 
悲しみを気にしなくなって悲しまなくなることは
無神経になり感情が乏しくなって鈍感になることです。
悲しみを克服することは全く違います。
 
悲しみを麻痺させることの影響は大きく
深い情緒を持てなくなるだけでなく
さらには深い思考が出来なくなるでしょう。
 
悲しみを、楽しみの上塗りで、ごまかしていると、
本当に深い悲しみを避けようもなく受けるときに
自己破壊的になる恐れがあります。
そのとき思慮も洞察も鈍くなっているのです。
 
悲しみを忘れた心は
笑いと怒りに短絡しやすく
深い思慮と情緒を失い
嘲りと恨みを増して
沈滞し鈍麻して薄笑みのうちに
何よりも本当の喜びを忘れます。
 
アドラー心理学の責任は重大です。
でも、アドラーの群れは、今は気にしないでしょう。
悲しみなんて存在しないと思い込むわけですから。
 
アドラー教と化した名前だけの心理学は
きわめて次元の低いところに人をいざなう宗教であり
これは人間破壊と言ってもよいものです。
 
 
(2019年08月03日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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