楽山の嘘と詭弁2
 
 
霊能者・評論家などの気取り、無反省・無責任・無理解・訂正不能、高等感情の鈍麻、理路の未熟と荒廃、などが見られる反キリストの楽山の詭弁について、今までの約3年の経過から、メモしたことを投稿しておきます。宗教と事実の話ではなく、楽山の、執着と虚実の話になります。
 
既に、反キリストの偽善者の例として、約3年間の資料となっている楽山は、宗教も信仰も、趣味的に、甘く見た楽山の、宿命のような我執に対する、おのずからの報いとして、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、他者の人格を破壊し、自らも人格破壊を来たしています。
 
楽山の、批判されても、弁明も反論も出来ず、にもかかわらず自分の言いたいことだけ書き続けることこそが、体質的な執着の奴隷と化して、宗教に対する無理解を表し続け、議論と交流の相手にしてはいけない単方向性の習性となっているものです。
 
子供のときから、仏様の心が分かるっぽい?と思い込んでいた教祖願望とか、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、もはや、関わる人の、神経と精神を害するだけの、愚かさを積み上げてゆく不感不応の醜態と言わざるを得ません。
 
 
楽山の、道徳的正論に見せかけた詭弁を弄した、ありえない"道徳的な詭弁"は、実体が、虚偽であり、ただ単純に、道徳に反する経過と結果だけをもたらしています。楽山は、当然、宗教と信仰にも反する企みの暴言者、反キリストであります。
 
楽山にとっての、自然のままであることは、道徳や節操を無視して、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念すること、そして、自己満悦に浸って、自己愛に溺れる病質のことです。誰に対しても、思いつきのインチキしか示せず、真摯、誠意、真面目、というものを、あざ笑っているような変質者であります。
 
例えば、思考も情緒も意志もなく因果もない悪の台詞を、気持ちがいいのでしょうか、真実であるかのように語ります。語ることに根拠が無く、お伽噺で宗教を語ったつもりになる自閉の回路から、必要とされてもいないのに、無理を、詭弁で飾って押し出してきます。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいようです。恐らく、楽山には、基本的な節操・分別さえもないのでしょう。楽山には、基本的な人権を考えることが無意味になるでしょう。
 
楽山は自分の意見に反することを、「堅苦しい主義や封建的道徳」などと見なしてくるところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。否定を言い、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じないなどと言う外れ方です。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山は、思いやりと共感、温もりと潤い、そういったことを学習していないので、人間なら当然の反応が出来ないのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っていましたが、またしても、有能な人間だと自慢したいだけなのです。誰にも認められていないからこそ、皮だけを整えたつもりで飾って、インテリぶっているケダモノです。
 
楽山については、カルトが自身を言い表すのと同様に、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して、だますしかないという習性があり、心霊、スピリチュアル、死後の世界、超常体験、などの超常が大好きな楽山の特徴となって、結果的に、理路の錯乱を、容易く表してしまう現状です。
 
一気に、安易に、超常になりたい教祖願望は、楽山やカルトの特徴であろうと思います。超常ホラーを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山は、しかし、霊が分かるっぽいという自覚だけであり、実際には、洞察力は皆無で、いかなるスピリチュアルの深さも、書けたことはありません。
 
 
都合の良い他者の口を引用し悪用し、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、カルトの断線した回路であり、邪悪の一本道であり、自己中の沼であり、反宗教の身投げであります。
 
 
楽山が、批判されても批判されても、弁明も反論も出来ないでいて、全くお構いなしに、無視して、平気で、言いたいことだけを書いてくるのは、心性に欠陥がある病質としか思えず、常人のものではないと思っています。もはや、楽山の話を聞くくらいなら、犬猫の鳴き声を聞くほうがマシなのです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」が、病質・変質の詭弁として、他者の良心と感性と思慮をもてあそんで、精神を食い荒らしてゆく、という愚鈍なケダモノになることを意味することになります。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」などと、わざわざ書いて、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は常識人そして霊能者だ、という印象操作と宣伝です。「ないでもない」「と言えなくもない」等の、語尾のぼかし方も、ボンヤリ言語の特徴です。
 
楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするので、豪語するカルトと違って、邪悪さに気づきにくい傾向がありますから、何より、楽山を相手にしないこと、楽山に関わらないこと、近づかないことが大切です。
 
 
私は、数か月、だまされていました。受け答えがハッキリしないため、次に、責任を負うことが大切だ、といった牽制・指摘によって問いただしたら、ごまかして応じなかったため、相手にしてはいけない人だと気づきました。実際には、実のある何ものも持っていない人です。
 
批判して、信頼度ゼロと判断しましたが、その判断を覆すような記事を、楽山は、一度も書いたことがありません。楽山は、批判に対して、嫌がらせ、言いがかり、嘘、詭弁を書いてくるだけだ、という証拠も、約3年分、同時に積み重ねられて資料となっています。
 
 
「かなあ」「ていうか」「言えなくもない」「反省、トホホ」「信じやすい性分」など、芝居がかった若者言葉や、逆に、同情をひく年寄り言葉や、曖昧表現、婉曲表現、丁寧語で、言い逃れようとします。
 
ちょっと変に丁寧だけど、いい人そう、と思うような人を待っているホラーが楽山です。楽山の、嘘と詭弁に、自己中に、自他破壊、そして、絶望伝道に、どうか、巻き込まれないように、警戒し、関わらないようにしてください。ネットには、いろいろな、具体的に関わると大変な、ペテン師がいます。
 
 
はてしない脳天気

はてしない脳天気
 
 
(2021年01月20日、同日一部修正)
(2022年01月22日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
詫びることもなく、反省や修正をすることもなく、思いつきを、プラスもマイナスも、好きなように語って責任を負わない楽山は、結局、"ええかっこしい" のインテリ気取りだけであり、実質的には、何も語っておらず、何も持っておらず、何も考えていない、という、空しい疲労だけを与えてきます。
 
楽山はキリスト教とキリスト信仰について幼稚な悪口を書いてきました。批判を受け取って反省できる人なら書き続けても迷惑ではないが、無反省に無責任に偏見を垂れ流すだけなら、そのたびに批判記事を当てるしかありません。既に資料となっているので今後も加筆して投稿することになるでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
「人は〔利を求めて〕自分を与えてはならない。自分を捨て去ってはならない。ひとは、善い〔やさしい〕ことばを放つべきである。悪い〔粗暴な〕ことばを放ってはならない。〔やさしいことばを口に出せ。荒々しいことばを口に出すな。〕」(中村元訳『ブッダ 神々との対話』岩波書店、P101)
午後2:03 · 2022年1月21日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分を捨て去った人です。人間を捨て去ったと言ってもいいでしょう。だから、丁寧語で言えばいいと思い、人間とは思えないような醜い嘘と詭弁を含ませることが出来るのです。粗暴な言葉を控えて、丁寧語に軽蔑を込めるのは、分かりやすい悪口より悪質です。偽善者と対話してはいけません。
 
 
 
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