無神論について
 
 
世の中には、無駄なことをする人たちがいます。神がいないことを、史実や科学的論理で証明することは出来ません。なのに、史実がどうの、現実の悲劇がどうの、証拠を見せろ、などと、結局、いちゃもんをつけているだけになっているのです。
 
神は、史実に依存しません。人間の理路に従う必要がありません。癒しと救いを恵まれた信仰者にとってのみ、神は、生ける神であります。信じないのなら、信仰はなく、ゆえに、癒しや救いなどの信仰体験もないということです。
 
しかし、また、同様に、神がいることを、史実や科学的論理で証明することも出来ません。神は、証明できません。信仰は、証明できません。ゆえに、魂の奇跡と言ってよいのです。神の存在を感じないならば、信じなければよいのであって、神の存在も不在も語ることは出来ません。
 
信仰は、論理ではありません。信仰は、聖書に表された神と、生きる人との、聖書と祈りを通じての共感の関係です。信仰する理由は、辻褄ではなく、癒してほしい、同伴してほしい、など、個人的に必要として否定できなくなることです。何より、神を証明できるのなら、信じる必要はないのです。
 
 
無神論者は、論理を語ってはいません。よく読むと、大方は、いちゃもんの悪口を言っています。否定しても無駄だから、論理に見せかけて、単方向に愚痴とクレームを言っています。ゆえに、無神論者は、宗教家でも理論家でもなく、思い込みの無神教カルトの信者なのです。
 
同様に、有神論も、考察の糧(かて)にする以外では無意味です。有神論を言っている人は、無神教カルトに、たきつけられたか、あるいは、信仰を、理屈で考えようとする理論家気取りに過ぎません。そういう人は、思い込みの有神教カルトの信者なのです。心ある信仰者は、そこにとどまってはいけません。
 
無神教の信者には、笑いと怒りしかなく、しんみり悲しむ情感と、共感性と、罪悪感や羞恥心などが欠けているサイコパスの比率が高いように感じます。書いてくる文章は、悪意と嘲笑いに満ちています。サイコパスは、犯罪に結びつきやすい冷酷な異常人格なので、注意・警戒が必要です。
 
 
信仰者は、神様のほうを向いて、と言うことがあります。しかし、どっちが神様の方向かは分かりません。神様のほうを向くというのは、祈るということに他なりません。具体的には、上も向いても下を向いても、祈りは、祈りなのです。キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
神の御心に適う善のほうを向くとか、信仰によって正しいことをするとかは、金持ちの青年の話にあるように、人が完全達成できることではありません。神の御心と一致する真善美を、不完全な人間は知りようもありません。真善美の絶対は、神の持ち物です。人は絶対の価値を持つことは出来ません。
 
神のようになれるという信仰の考え方は、カルト的であり、そこを目指す人は、他者に対して闘争的になるでしょう。それは、無意味な争いです。神と違って不完全であること知るために、信仰があるのです。祈りと信仰は、人間に、不完全という自覚と、その共感と、努力と成長を促しています。
 
 
 
私は、父が県内の転勤が多い公務員で、小学校低学年までを、長崎県の五島で過ごしたことがあります。今は福江島の五島市と言うようですが、昔は五島の福江市と言っていました。すごい大火があって、ドラゴンのような大きな炎を丘の上の家から眺めていたことがあります。市街がすっかり瓦礫になりました。
 
五島の、堂崎というところに海水浴に行った思い出があります。それでか、キリスト教とか教会とかいう言葉も覚えたような気がします。とはいえ、私の家は、キリスト教とは無縁の家庭でしたから、高校のときに佐世保の教会に通うようになるまでは、信仰には、さほど興味はありませんでした。
 
高校生になって、ただで聖書をくれるという話を聞いて、カトリックの教会に行きましたところ、プロテスタントの教会を紹介されて、ギデオン協会というところから、日英の新約聖書をもらいました。そして、高校3年生の時に洗礼を受けたわけです。
 
進学して、佐世保から福岡の教会に移り、どうも、集団が苦手だという気持ちになり、熊本への転居とともに、教会にはいかなくなりました。聖書も買いましたが、読書も苦手です。新約は通読して、旧約はソロモン以降は読んでいません。新約の福音書、旧約は、預言書、詩篇、ヨブ記などが好きです。
 
キリスト教と言えば、あのホワ~ンとした物静かな雰囲気ね・・で終わったり、アーメンソーメンと呼んで揶揄する人もいましたが、私も、高2までは、似たようなものでした。私が洗礼を受けたことを知った父が、お前は奇跡を信じるのだなとか、マリアは姦通したのだとか言ったのには、閉口しました。
 
教会は騒がしいわけではありませんが、教会の物静かな神秘的な雰囲気は、大方、ドラマなどに出てくるカトリックの教会のイメージでしょう。といっても、私も集団に馴染めなかったわけです。「誤解」という記事に書いたようなこともあって、20代半ばで転居をきっかけに、教会へは行かなくなりました。
 
教会の牧師に不満があったわけではありません。佐世保の牧師は、社会問題を織り交ぜて、福岡の牧師は、聖書に忠実に解釈中心で、どちらも好感を持っていました。それと、たまに行っていた日本基督教会の牧師は、来ないと、私の下宿まで訪ねてきました。生涯を捧げている姿勢には頭が下がります。
 
私は、本を通読するというのが苦手なので、今は、ネットに載っている口語訳をメインに、そこから必要に応じて引用したりの拾い読みです。信仰がなくなったわけではないと思いますが、雰囲気からのクリスチャンらしさには馴染めません。深い聖句を道徳におとしめる新共同訳は、破棄するべきだと思います。
 
人間が共感できる信仰が大切だと思います。キリスト教の信条は、目安であって、繰り返し唱えれば信仰は大丈夫ということではありません。信条や教条や教理や讃美言葉ばかり唱えていると、本来の信仰心は、人間離れしてゆくと思います。共感性のない人間離れは、反信仰です。
 
イエスキリストは、人の悲しみへの共感性に溢れる御方です。そして、十字架によって、共感性を永遠のものとしたのです。前から言っていますが、物や肉体の奇跡にこだわっていると、魂(心)の奇跡への感受性が鈍ってきますから、注意してほしいと思います。
 
 
信仰 共感 縁(よすが)

信仰 共感 縁(よすが)
 
 
(2022年02月04日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  びしょ濡れ
 
ぶらりと歩いて
コンビニでお買い物
空っぽを下さい
 
銀行に入ると
通るべき空間がすでに用意されている
レールよりも複雑だ
時間と音さえ狭い通路
べらんめえ口調ってのはどうだろう
 
映画館でみている
閉じたまぶたの裏を
病のようにギラギラと波打つ闇を
 
公園に座っている
近くの草をむしりながら
意外と落ち着かないものだな
目的がないということは
目的があるということは
どれくらい本当のことかしら
 
君も遠くなったな
太古の昔のことのよう
思い出すというより
まるで想像している
君と僕に接点があったなんて
 
ライトをつける
ポンコツのバイクの音が夜に響く
それよりもチクチクと
無数の虫がライトに飛び込んでくる
夏の夜の田舎道
田んぼが見えない
バイクの光だけが浮き上がる
 
自分が見えない
虫が当たる痛みを感じる
虫の死を感じない
 
この角は知っている
ふいに曲がるから
 
まだ西の空に
少し夕方が残っていた
 
夕暮れに連なる道
いつか消えて
ライトを消して
エンジンを止めると
沈黙と暗闇の中で
焼かれているものがある
ぶらりと歩いて
ドアを開けてふらついた
 
今日は濡れずにすんだね
実はびしょ濡れなんだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
人であり続けることは難しいことではありませんが、当たり前として意識されず、超常や優越の方向に酔い痴れて、人間離れしてしまう場合があります。気づくはずのことに気づかず、不思議や奇跡に自己満悦して、ふつうは通らないことが通るかのように意識が変容し妄想して、それを平安と思いこむのです。
 
 
 
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