無常の価値2
 
 
人間が死にたくなるのは、絶対孤独になって、周りに人間がいなくなるか、周りにいる人が人間と思えなくなって絶望するからです。人間が生きるのは、周りに人間らしい人や関係があって、人間味の共感を味わっていられるからです。
 
人間味の中に尊い愛があり、即ち、心があり、共感があり、思いやりがあり、それゆえにこそ泣いたり笑ったりが生まれるのです。人間にとって、最も大事なことは、超常ではなく、日常の中にあるのです。そこを疎かにする宗教はカルトといってよいでしょう。
 
なのに、処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、超常の不明を、批判不可として信じ込めば、いろいろな不明を次から次に信じ込んで、心は超常に迷い込んで、神明も不明も分からなくなり、人間性の最も大事なる現実の関わりに鈍感になり、超常の言葉を唱え続けることになるのです。
 
人間にとって大事なことは、無常なる現実世界に、たくさんの糧(かて)があると知ることです。無常こそ大事であり、無常であるからこそ大切にするのであり、いずれ過ぎ去ってゆく身としては、常世に至る前に、この地上で大切にするべきことがあるでしょう。無常が現実だからです。
 
神は恒常であり永遠不変です。そのような御方として信じるわけです。神だから常世に住めるのでしょう。神は、人間に共感するが、超常も地上も支配する御方であります。人は、神に対して、祈ることしかできません。つまり、完全なる神を信じるのは、人が完全ではないことを肝に銘じて、祈るためです。
 
神は、人が恒常不変になるから憐れむのではない。憐れんだら恒常不変になるから憐れむのでもない。何よりも人は地上で恒常不変にはなれません。信仰は地上を生きるためにあります。超常の奇跡話に陶酔するのは、現実逃避につながります。そういう時は、しんみり祈るべき時であります。
 
神は、人の不完全を既にご存知であります。人がご自身とは異なり、無常で儚く弱いからこそ憐れんで成長を願っておられると思います。何ゆえに神を真似て、永遠不変の超常を、地上で真似ようとするのでしょう。感謝や讃美が、超常を理解したかのような信仰自慢にならないように願っています。
 
何ゆえ無常の現実を疎かにして、恒常が手に負えると思う人がいるのでしょう。何ゆえ成長を疎かにして
不変を欲しがる人がいるのでしょう。何ゆえ人の愛を疎かにして、神の愛を説こうとする人がいるのでしょう。
 
何ゆえに人の理屈で、神を証明しようとするのでしょう。また逆に、何ゆえに人の理屈で神を否定できると思うのでしょう。何ゆえに霊が分かるっぽいという思い込みで人間離れの超常の世界へ人を誘導するのでしょう。おぞましいことです。
 
 
 
人間にとって一番大事なことは、自分の不完全を知り、共感を養うことです。信仰は、そのためにあるのです。信仰は共感性を捨てて超常に向かうことではありません。そういう過ちは、キリストの意図を理解する前の弟子たちにもありました。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
9:46
弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。 
(ルカ9:46、新約聖書)
22:24
それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
(ルカ22:24、新約聖書)
 
 
 
無常 曲折

無常 曲折
 
 
(2018年01月)
(2021年01月22日、加筆して再録)
(2022年02月11日、再録+)
 
懐妊(かいにん)
常世(とこよ)
恒常(こうじょう)
儚い(はかない)
疎か(おろそか)
 
 
 
  なれの果て
 
またも果てである
いつか果てである
目処(めど)が立っても立たなくても
耐えても進んでも
黙っていても
必ず果てである
 
止まれば土か
流れれば海か
飛べば空か
だから一つの
忘れやすい夢である
 
夢の属性に救われて
来るという保証のない
明日の目覚めを
願うことなく信じていた間
同じように忘れていた
見えない闇の果て
 
いつか手に
ショッピングバッグをぶら下げて
街頭に立ち
錆びた街灯に触れて
すりきれた外套の
衰えた視力の
細い明かりと
冷たい引っかかりと
見えない剥離と
輪郭の縁(へり)と
影をゆっくりなぞっている
見えない光の果てである
 
 
  初恋
 
風邪でも引いていたときだったか
同じ高校
同じ下宿の狭い廊下
若い娘の小さな手のひらが
若い私の額に触れた
それは何気ない行為だったが
急なときめきに
熱くなった胸と裏腹に
私は不意を打たれたように動けなくなって
しばらくぼうっと立っていた
 
あの狭い廊下
あれから幾つの廊下や
板張りもない場所を彷徨ったのだろう
私の眼も胸も泥濘に落ちて
こんなに濁ってしまったよ
下水のようなトンネルを抜けて
ときおり触れてくる
あのときの温もりは
まだこの額に残っているけれど
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
3年前でも、何年前でも、発言の責任は、本人が間違いを認めて反省しない限り、現在の罪として責任は発言者に残ります。無反省や無責任は「人間の性」ではありません。楽山という異常者に特有の病質として、何度でも責任を問われることになります。継続する自己中は、常に、害悪だからです。
 
楽山などの無神教カルトは、史実と論理で分からない神は存在しないという考え方です。こちらは、信仰は史実や論理を根拠としてはいないと言っています。つまり、無神教カルトは、聖書と体験から共感するという心の感性を持っていないから、分からない神を存在しないと決めつけているのです。
 
共感性というのは、端的に言えば、愛のことです。しかし、愛という言葉は言い古されていて、さらに、楽山が、恋愛についての実に幼稚な芝居の例示で、愛させてくれなければとか、理想化して好むとかの、臭い話を持ち込んでくるので、私は、共感性という言葉を使っているのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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