楽山は無神教カルト
 
『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』
中村圭志著
2021年07月25日 楽山日記(LD)
 
 
著者は、知識頼みで、宗教を教養として知っていても、信仰を持たない無神論者のようです。宗教を、歴史や文化の側面から見ますが、キリスト信仰の本質を知らないまま、空しく無神論を説いているところの、無神教カルトの信者だと思います。その点は、楽山と同軸だろうと思います。
 
 
*読み応えがある本
本書はタイトル通り、キリスト教の基礎知識を紹介するものであるが、「宗教について懐疑的な人の合理精神を極力尊重して」著されているところ、四つの福音書を横断的に説明し、それぞれの特徴と差異を明らかにしているところ、福音書の各場面についてキリスト教内における解釈とともに著者の考えも提示されているところは読み応えがあり、大変勉強になった。
以下に、本書のなかで特に印象的だった箇所と感想を書いておきたい。
 
キリスト教の基礎知識と、キリスト信仰とは、違います。聖書の一言からも信仰は生まれ得ますが、辞書ほどの知識を蓄えても信仰に至らない人もいます。それが不満なのか、その中に、無神教の信者となるような、偏向した人がいるわけです。
 
 
*悪魔の誘惑
まず著者は、イエスが受けた悪魔の誘惑(マルコ1、マタイ4、ルカ4)について次のように書いている。  
イエスの個人的体験をヴィヴィッドに見ていた人がいるはずもありませんから、これはあくまでも伝承的に創作された哲学的神話です。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.156)
 」
これは極めて現実的な読み方ではあろうが、「それを言っちゃあ、おしまいよ」という感じになっているのはおかしい。
 
「それを言っちゃあ、おしまいよ」が、お気楽なお山の大将、楽山なのです。ゆえに、楽山は、実際、おしまいになっています。伝承であっても事実であっても、信仰が生まれるかどうかは、個人によって異なります。自分が信仰者ではないからといって、伝承的創作で済ませるのは、信じない人の傲慢です。
 
 
*奇跡
著者は、奇跡物語についても容赦ない。
治療師があちこちでヒーリングをやっているとすると、治らなかった事例は忘れられ、治った事例は印象深く語り継がれるものでしょう。奇跡譚ばかりがたまってしまうのは自然の成り行きです。
(同上、p.165)
 」
奇跡は無かったと決めつけることからすれば、その元になる出来事は実際あったろうとしているところは柔軟ではあろうが、これだと奇跡の有難味が大分薄れてしまう感じがするのはさみしい。
 
奇跡を「有難味」でしか考えられない楽山の勉強嫌いと学習障害が表れています。惨めな男です。伝承的創作ならアウトという短絡した超常=宗教、超常奇跡でないなら創作と言って否定して、満足できる精神の貧困は、信仰の心貧しさとは真逆です。信仰者になるための本当の奇跡は心に起こっています。
 
 
*神義論
本書では、ユダの裏切り(マルコ14、マタイ26、ルカ22、ヨハネ13)に関連して、自由、責任、神義論にも触れている。
ユダの裏切りもまた、自らの意思、神の計画の両面から規定されています。ユダが神の傀儡だとすると、自分の行為の責任はないはずです。しかし、そういう解釈は許されないことになっています。
(同上、pp.204-205)
 」
 
神が規定して計画しているものを、分からないと言えず、神の傀儡だのと言って、責任問題で否定してくるのは、身に過ぎた高慢と欲望を持つところの、無神教の信者の考え方です。こういう集団には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が多いと思います。楽山はその一人です。
 
ユダの期待した通りではなかったキリストを、ユダは裏切り、そのあと、後悔して自殺します。ユダは、少なくともカインよりは良心を持っているようです。そういう、人間にとって見逃せないことを考えず、神の傀儡などと仕組みを考えるのは、実に虚しいことです。
 
カインは、サイコパスの起源ではないかという気もします。カインは、供え物を受け入れられなかったとき、悲しむのではなく、怒ったからです。聖書は、神を理解するためにあるのではありません。聖書は、神という存在から、人間のあるべき姿を感受し考えるためにあるのです。
 
 
そもそも人間の対局として設定された絶対神なるものが、謎めいた存在です。絶対神が万事お見通しであるのならば、人間は自分の悪に責任をとる必要はありません。しかし、原理上、そういう解釈は許されません。ユダの場合もこれと同様です。
(同上、pp.205-206)
 」
 
どういう「原理」なのでしょう。この人は、結局、自分の理路を絶対化しているわけです。聞くに堪えないものです。分からないところがあり、分からないと言える人が、分からない自分の弱さに気づき、分からない不完全を、正直に告白して、神の民となるのです。外野から、うるさく言わないでほしいです。
 
 
「そういう解釈は許されないことになっています」ということからすると、やはりここは微妙な問題であり、深く突っ込んではいけないところなのだろうか。
宗教にタブーはつきものだし、これも仕方のないことなのだろうが、「そんなことは考えてはいけません」と言われると、余計に興味がわいてくるから困る。
 
「突っ込んで」も分からないということです。楽山も同類で、自身の既に人格障害で壊れている頭と心では分からないわけですが、自分が分からないということを否定する立場のようです。しかし、否定されるのは、傲慢な無神教信者と同類の楽山のほうなのです。
 
こういう無神教カルト信者がいますから、信仰者は、神ではないから分からないことを、分からないと正直に言ってください。それは、信仰者という人間の正しい祈りであり、正しい言動です。言い換えれば、人間が得る正義が信仰ではないのです。人間世界の持ち物には、絶対的な真も義も善もありません。
 
分からないという保留の姿勢を持ち得ず、神も自分の知恵で理解できないなら、いない、と言ってしまうのが、無神教カルトの執念のようです。短絡カルトでもあります。無神教カルトには、尊大な人が多いようです。楽山のように謙虚芝居もしてくるのは、さらに凶悪でしょう。
 
 
*犠牲
十字架の意味については次のように説明されている。
イエス・キリストの死という犠牲の供物によって、債務を帳消しにしたのです(ユダヤ人はもともと犠牲獣を神殿に捧げることで罪を祓っていたので、これはその延長上にある発想です)。
(同上、pp.208-209)
 」
 」
 
このように、犠牲や債務という言葉で、あたかも、神との取引関係のように、信仰を語る人は、たいてい、情性が不足~欠如していて、信仰には縁のない人だろうと思います。だから語ることが的外れになってゆきます。無神教カルトと楽山が全く知らない共感の世界で、新しい信仰は生まれています。
 
 
自分はこの発想については、当時のユダヤでは律法を守れなかったときは犠牲(汚れていない清らかなもの)を捧げることで罪を赦されたことから発展して、人類の罪が赦されるには、汚れのない清らかな神ご自身が犠牲になる以外になかったという論理に至ったと理解しているけれども、正直言ってこれにはどうしても違和感を覚えてしまう。
 
楽山は、こういう信仰の重要なポイントでは、いつも的外れの幼稚な理屈を言ってきます。神ご自身が犠牲になるのではなく、罪の赦しのために、愛という共感の極限的行為として、キリストの地上の命を犠牲とされたのです。その痛みに共感することが信仰につながります。楽山の理屈は無意味なのです。
 
「神ご自身が犠牲になる以外になかった」・・神を殺すかのような、まさに、取引でしか信仰を考えられない楽山の、信仰など触れたこともない冷たく乾燥した粗雑な言葉です。丁寧語を使っても、言葉遣いに、共感性の欠如が、獣性として、如実に表れてきます。
 
 
「神様は血を厭い、殺生はよろこばない」という感覚が心に染み付いているせいか、神殿で殺生をしたり、血を流したりしたら、赦されるどころか神罰がありそうに思えてならないのだ。たぶんこれは自分が神道的な文化のなかで育ったためなのだろうが、キリスト教には共感するところも多々ありつつも、こういうところには異文化を強く感じないではいられない。
 
「キリスト教には共感するところも多々あり」・・楽山の心にも無い嘘です。楽山から、共感が表れたことはありません。理解ある人を装うための世辞なのです。「共感」の前後に、共感が表れていないことからバレてきました。ゆえに、楽山の詭弁の丁寧語は、豪語の無神教信者よりも悪質です。
 
 
余談ながら、神の体を食べ、血を飲むことで清められるという発想も自分にはよくわからない。肉食を避け水によって清められるというならわかるけれども、神の体を食べ血を飲むというのはすごく怖いし、清さ美しさを感じるのは難しいのだ。ここもキリスト教のうちでどうしても合点が行かない部分ではある。
 
聖餐式は、象徴的儀式です。それを、信者でもないのに「神の体を食べ、血を飲む」という野蛮な言い方を平気でするのは、神か宗教に対する呪うほどの強い憎しみの表れだと思います。その憎しみは継続しています。いつか、この反キリストの悪意の弊害を被らないように、楽山には関わらないでください。
 
 
*反省とゆるし
著者によると、反省とゆるしについては、マルコ福音書とルカ福音書ではちがいがあるという(マルコ2、マタイ9、ルカ5)。
マルコのイエスは無条件的に(つまり相手に反省を求めずに)人々を赦して歩いているように見えますが、ルカになると倫理的反省を条件にしています。
(同上、p.167)
 」
聖書を確認してみるとこうある。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(マルコ2:17)
 」
イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
(ルカ5:31-32)
 」
マタイ福音書はマルコ福音書寄りのか書き方であること、マルコ福音書がもっとも早く成立していたろうことなどからすると、悔い改め云々はルカが後から付け足したものにも思えるが、後から付け足されたからといってイエスはそんなことは言っていなかったと断言はできぬことではある。はたして現実のイエスはどちらの考え方をしていたのだろうか。
 
キリストの教えの事実性にこだわりながら、自身の不正直を、まるで気にしない楽山であります。このように、自分を省みずに書くということが、楽山の全ての言に表れているのです。一言も真実ではないということが、むしろ、楽山の事実性となっています。人を斬るなら自分を斬ってからです。
 
「断言はできぬこと」と言いながら、悪い印象を吹き込もうとしています。本当に、楽山は悪意の人だと、楽山の記事を読むたびに感じます。楽山は、涼しく嘘を吐き、やさしく詭弁で誘導し、スルーして逃げて難を避ける卑怯なペテン師です。
 
 
世の中には、はっきりしたこたえを見いだせない問題が山ほどあるものだけども、これもそのうちの一つのようだ。
 
だったら、聖句を分析して見せた?ような書き方はしないはずです。つまり、最初から印象操作の意図があったということです。前に、楽山は、断定していないから、責任問題は生じないと言っていましたが、それで、印象が吹き込まれるのだから、むしろ犯人として糾弾されてしかるべきです。
 
 
*まとめ
本書は、著者が「はじめに」で触れているように、「信じる信じないをとりあえず棚上げして、懐疑的な視点を保ったまま宗教の言語に(ここでは福音書の言語に)接触できる場を提供すること」を目的としている著述なので一部の熱心な信者には歓迎されないかもしれないが、信者ではない一般人が客観的現実的な視点からキリスト教を知るという点では有用であろうし、タイトルにある通り信じない人(非信者)には是非ともお勧めしたい一冊である。
 
まず、大いに信仰から的を外している無神教の本は、楽山の記事と同様、批判以外の目的では、読まないほうがいいと思います。私は、読書が苦手なので、読まないつもりです。楽山の企みは、非信者を無神教に引き込むことです。
 
楽山の言うことに頷いていると、その果ては、楽山の詭弁によって、理路は混乱して疲弊し、楽山のように、一方的に主張しながら、感性が鈍くて情緒の鈍麻した人になるでしょう。楽山に関わらないでください。近づかないでください。
 
楽山は、どうやら、無神教の犬として働いているようです。楽山は、人格を破壊する病質者であり、ゆえに、豪語を、詭弁に変えて、理路も情感もなく、言葉を、流涎・放尿してきました。人間として付き合うだけの、何の価値もありません。
 
 
無神教の犬

無神教の犬
 
(2022年02月14日)
 
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰からも真に認められない者は、二つに分かれます。一つは悲しんで去って出直すもの、もう一つは、怒り、憎み、次には、人をだまして害を与え続けます。楽山は、後者ゆえに、いつまでもどこまでも改善せず、結果として、ますます、誰からも相手にされないという報いを受けてゆくのです。
 
 
 
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