喪失の日記
 
 
その前に、昨日アップした記事
楽山は無神教カルト
ですが、
 
『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』ってどういう意味でしょう。書いてある内容からは、「信じない人」が信じられるように・・ではないことは明らかです。
 
むしろ、「信じない人」が信じないでいられるように、ということ、言い換えれば、「信じない」ことを促進するために、という意味としか思えません。楽山という反キリストが、キリスト信仰をおとしめる記事だということでしょう。実に悪意に満ちた詭弁のタイトルです。
 
 
 
昔の、私の詩のようなものと、楽山の記事など、載せてみます。
 
 
  こぴぺ
 
つめたくなでられる
ネガになる
みやすい
やすやすと
きえる
あらわれる
けされる
はられる
もどせる
としをとらない
でんし
おぼえる
わすれる
としをとる
ひと
ネガになる
もどせない
きかない もう・・・
フリーズ
 
 
  黒い土
 
やっと見つけた黒い土を
しばらく見つめたのち
手に掬(すく)って
握りすぎて指の間からこぼれないように
持って帰って鉢(はち)に入れた
何も植えずに毎日水をかけた
ときどきは目を閉じて触ってもみた
 
日光に明るく照らされて土
寒い季節が終わる頃
知らない小さな芽を出してきた
未熟な緑
 
切り取らず
切り取られず
踏み付けず
踏み付けられず今度は
たくましく生きられたらと
語りかけた芽の下に
古い友人が眠っている
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
 
喪失

喪失
 
 
(2022年02月15日、再録+)
 
 
 
 はじめまして
 2013年02月16日 楽山日記
 
ブログをはじめました!
コメント大歓迎です。
これからどうぞよろしくお願いします!
 
↑楽山日記ブログの最初の記事です。
 
Comment(1)
1. 楽山 (自由)2018年06月02日 05:14
こちらからも、はじめまして!
わざわざ、ご挨拶、ありがとうございます。
また遊びに行きますね。
 
その記事についたコメントです。「楽山(自由)」はタイトルでしょうか。2013年から5年後の2018年に、自分で自分にコメント入れているのでしょうか。
 
 
 
 心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん
 2013年02月16日 楽山日記(LD)
 
楽山日記ブログの最初から2番目の記事です。
 
心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん
(菅原道真)
 」
 
(ネットより)
心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、おのずから神の加護があるであろう。菅原道真の作と伝えられる歌。
コトバンク
 
この道歌を知ったときは心から感動したものだった。それ以後、時折、口ずさんでいるけれども、その感動が色あせる気配は少しもない。
 
今までの経緯を思えば、「誠の道」・・笑わせます。実際の楽山は、平気で嘘を吐き、人をだまし、詭弁で誘導し、反省せず、責任を負わない人です。その自覚がないならば、ある種の狂人です。道歌の実質は、影も形もありません。楽山は、「菅原道真」に泥を塗っています。
 
(ネットより)
道歌(どうか)は、道徳的な、または教訓的な短歌をいう。様々な体験から出た世智であり、訓戒である。昔から日本人に親しまれている。
 
「至誠、天に通ず」は勇まし過ぎて気圧されるような感じもあるけれど、こちらの方はたおやかでありつつも秘めた力強さがあるというのがなおいい。大好きな道歌。
 
楽山には、天の加護ではなく、正体がバレて、全否定の報いが来ているわけです。厚顔無恥の楽山が隠そうとしてきたのは、腐った本性であり、数々の罪と悪と偽善の、やましさのフルコースのようなものです。どこまでも、嘘と詭弁以外、何も返してこない楽山であることが証明されています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「嘘ばかり重ねる」楽山は、「保身だけの卑怯者」の楽山は、バレてしまえば「魅力の欠片もない」のだから、引用し推測し理路を整えることに、すべて「失敗した」楽山は、「開いた出店を畳むしかない」のです。楽山の言は、無反省・無責任が加わって、さらに、心の健康に障(さわ)ります。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
言論による被害を無くすと同時に、言論の自由は担保されるべきだと思います!
『ツイートのスクショは著作権侵害の裁判にもの申す!【後編】〜スクショツイートは表現の自由と言論の自由を担保するために認めるべき!〜』
 」
「(引用元)
今回の裁判所の判定は「実際のTwitterの使用実態を無視したもの」と言えます。 重要なことは、「正当な批判は認められるべき」「自衛の手段として対抗言論は必要不可欠」であり、「悪質な誹謗中傷、名誉毀損は内容で判断するべき」であって、言論の自由はよほどのことがない限り認めなければならない、ということです。
 」
 
恐らく、楽山は、上の「言論の自由」に反応し、楽山が今までやってきた言論の勝手放題を暗に主張したいようです。またしても、理路にお構いなしに、自己正当化しているようです。自由と勝手の違いが分からないのです。この無遠慮な勘違いこそが、無恥の人格の怖さなのです。
 
楽山の悪質な文章に対する「正当な批判は認められるべき」「自衛の手段として対抗言論は必要不可欠」であります。楽山の内容は嘘と詭弁、その動機は我欲であり、私の批判の動機は、悪質な誹謗中傷ではなく、楽山が隠そうとする非道に対抗する、という必然があることに他ならないのです。
 
「よほどのこと」を、ずっと続けているのが、楽山の企みの世界です。それで、まともな人物を装い、罪悪感の代わりに、だまし、ごまかし、自己顕示欲の快感に浸るのが楽山です。楽山には、人間の節操というものが、養われていません。自己愛性人格障害で、罪悪感がないのです。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
いいこと教えてあげる。
好きな人のことを沢山考えると、
嫌な人のことを考える時間が減るわよ。
 」
 
「好きな人のことをたくさん考える」?・・楽山にだまされてくれる単純な被害者のことでしょうか。「嫌な人のことを考える時間が減る」・・心の持ち方の教えを、楽山は、悪だと責められたら、責めずに褒められることを考えて、結局、無視しよう、という自己正当化の詭弁に変えてしまう人です。
 
嫌なことを考える時間が減る、という、リツイートを絶対化して、悪用して、楽山には、とっても美味しい教えにしています。嫌なことは、無かったかのように、無視するといいよ・・と言いたいのが、楽山です。言葉の重心をズラして破壊する悪意だから、楽山を許すことは決して出来ないのです。
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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