楽山の捏造
 
 【st自由同一人物説!?】
 「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」
 2018年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
楽山といっしょにされたくないのは、私のほうなのですが、私と楽山の筆致の違いが分からない人がいるとは、驚きです。あるいは、楽山が同一説をでっち上げているのかもしれません。楽山は、こちらの言うことを、全く理解せず、当てつけや嫌がらせだけを返してくる人です。
 
同一説など持ちだして、stが存在しない印象付けでもしたいのでしょうか。Yという人物のことが、書いてあり、自称ヨシュアかもしれませんが、既に忘れていることが多く、省略します。加えて、楽山批判とは関係ないことも省略します。
 
 
*st自由同一人物説!?
先日、他所の議論にコメントを入れたら、そのせいで自作自演の嫌疑をかけられてしまいました。
・STさんは複数のハンドルネームを使って多重人格を形成し他者を攻撃しています。|The Gate of Heaven
https://blogs.yahoo.co.jp/tenzinkuoshi/64576120.html
 」
これはあまりに頓珍漢だし、いちいち反論する気にもならなかったけど、その後、思うところあって、やっぱり何か書いといた方がよいと考えを改め、記事にすることにしました。
 
リンクは、ヤフー終了によって消失しています。楽山らしい、いちゃもんです。tenzinkuoshi というHNは、自称ヨシュアだったか、はっきりとは覚えていません。2018年の記事を出してきた楽山は、何を企んでいるのでしょう。
 
私は、st5402jp、「はてな」のstdsts、本名の戸田聡だけで、それ以外のHNは使っていないと思います。しかし百%の自信はありませんので、疑問がございましたら、私に問い合わせてください。
 
多重人格のように複数のHNを使っているのは、楽山です。ヤフー時代に、荒らしてきた多数のHNも、楽山の成りすましの疑いがあります。そのことは、既に、記事に書いたと思います。
 
 
*横レス問題
まずはこの辺りを読むと、Yさんは、議論の当事者でない私が横レスしたことを問題視しているようです。
その荒らし行為に私が対抗している最中(さなか)、ど真ん中に、「自由」さんが
突然割り込もうとしました。
突然でした。
通常、激しいやりとりが行われているところに 誰も横レスなどしません。
 」
これはまあ、普通はその通りなんだろうと思います。
ただ私は、他所でカルト信者との喧々諤々の議論を見たり、やったり、横レスしたり、されたりしてきた経験があるせいか、この辺りのことはあまり気にしない方です。
 
楽山(自由)は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、当然、他者の立場など考えずに、罪悪感のない本能のように粗雑な精神で書き込んできます。楽山は、全く人のことを「気にしない」人です。だから今でも書けるのでしょう。
 
正常の精神ならば、到底、書けないはずです。無反省、無責任、無神経で、良心の無い人ですから、どうか、近づかないでください。楽山の理屈は、偏見と妄想で出来ているだけですが、真に受けると、疲労し情意鈍麻に陥り、さらには、楽山に隷属して人格破壊されてしまう可能性があります。
 
 
*配慮の内容
配慮うんぬんは、率直に申し上げると、よく分からないですね。
当日、二度目のコメントは 自由さんに配慮して、stさんから見えないように 
承認ボタンを押さず、
そのままとし、自由さんには その旨伝えました。
 」
私としては、私のコメントが承認公開されなかったのは、
Yさんが読めばそれで十分であること、
承認公開されるとYさんとstさんとの対決の邪魔になることなどが、理由だろうと思ってました。
 
対決と楽山は言っています。楽山は、対決して、自分の優位性を確認したいのでしょう。楽山に関わると、そのような餌食になるわけです。餌食になるというのは、楽山が、とても卑怯で、嘘と詭弁によって情報操作をするからです。
 
 
*ポチ君よろしく
これは迂闊ながらも、思わず笑ってしまった。わんちゃんみたいだったであるしょうか。
自由さんはstさんの、わんちゃんのポチ君よろしく、手先のようになって
内容を 報告していました。
 」
これについて、コメント欄の流れを見ていただければわかると思うけど、
stさんが、承認されていないコメントがあることに疑念を表明し、それが新たな火種になりそうな気配があるでしょう。
だから私は、それは大して問題視する必要ないですよと、stさんに伝えようとしたのです。
見方を変えれば、未承認コメントがあることをもって、Yさんがstさんから非難されないようにしたってこと。
 
覚えていません。こういうことを持ち出しても意味はないと思います。なぜ、楽山は、持ち出すかと言えば、焦点を外してゆく狙い以外、思いつきません。
 
 
私は自由さんに配慮していたのに、、何を自由さんはしている!?と不思議でした。
 」
それは申し訳ないことをしました。すみません。
私の方では、上で述べた通り、私のコメントが公開されなかったのは、議論を円滑にするためのものだと思ってました。
だから、新たな火種が生じないようにコメント内容を伝えるのは、この目的にかなうものだろうし、かまわないだろうという考えてました。
 
楽山は、議論を、なじり合いに変える人です。まず、楽山に、正常な理路など、成り立ったことがありません。嘘と詭弁によって論理的に見せかけるだけの、混乱因子が楽山です。楽山が、自ら火種を蒔き、さらに、言い逃れるために、曖昧な周辺事項に話を持っていって、混乱をもたらすのです。
 
 
どうして、私が わざわざ 未承認にしてあげて、気をつかって配慮していたのに、
自由さんは、
何のことは無い、stさんに 報告している。
 」
 見当ちがいだったらすみませんけど、気を使って未承認にしてあげたというのは、ひょっとしたら、私のコメントが謝罪コメントだったからでしょうか。
謝罪コメントを公開されたら私が恥ずかしいだろうと思いやったということ? 違うかな?
ともかくも、せっかくの配慮を無にしてしまったようで申し訳ありません。
 
楽山には、本気というものがありません。言っていることには真剣味が皆無です。ゆえに、何か言えば、本音の見えない嘘と詭弁と嫌がらせになるのです。そのような悪意の作業をして、人の反応を見て、人が混乱するのを見ることが、楽山の生き甲斐、あるいは、唯一の快感なのかもしれません。
 
 
*根拠について
記事には、st自由同一人物説の根拠について、いろいろ並べてあります。
私は、stさんではないので、stさんに関わる部分については答えようはないですけど、自分に関することなら答えられるので、その部分について書いてみます。
stさんは自由という言葉を好むのがすぐわかる、だから別のブログのハンドルネームには自由と名付けたようだ。
 」
私が「自由」と名乗ってるのは、マインドコントロールからの自由とか、そういう意図があってのことです。
 
楽山こそ、マインドコントロールしてくる加害者です。というより、相手の心を混乱させて遊んでいるナルシストであり、サイコパス精神病質なのです。人の良心を虫食む楽山の言うことを、決して受け取らないでください。
 
 
恥ずかしながら私は、過去にカルトにハマっていた時期があるので、そういう名前にしたわけです。
両ブログとも 思考パターンが非常に似ている。例えば、AがAなら〇、AがBなら×、AがBなら△dなどの分析的思考をブログ上でしていた、。 
 」
分析的思考というのは、ある程度ものを考える人なら、誰でもやることであって、分析的思考が共通しているから同一人物だといわれても困ります。
 
楽山と「分析的思考が共通している」というのは、驚きです。私は、AとかBとか使う説明は苦手というか、好みません。小さいことに話を変えて論理的に見せているのは楽山ですが、大方、論点を逸らせるためです。それで、相手を混乱させたいのでしょう。
 
私が大事にしているのは、人間らしい心です。楽山には、それがありません。深い情緒、感動、共感、反省、罪悪感などが、楽山には欠如していると思います。自己愛性人格障害者は、都合のよい知識を仕入れることはあっても、学習をしないので、いつまでも幼稚で、成長しないのです。
 
 
それに私は、分析、論理は大切とは思いますが、それ以上に内省的であることを大事に思ってます。
分析的論理的であっても内省的でない人の言葉は薄っぺらいけれども、分析的論理的ではなくとも内省的な人の言葉は奥深いことが多いので…。
 
内省が、全く見られないのが、楽山です。楽山は、自分の有利になるように、話を捻じ曲げてゆきます。屁理屈が得意に見せかける詭弁です。要は、混乱させて、ごまかすやり方です。最も汚い論争手法であり、まともは人はしないことなのです。楽山の吹っ掛ける屁理屈に、決して応じてはいけません。
 
楽山は、理論家ではありません。程度が低くて成り立たない理屈屋、つまり、屁理屈屋に過ぎません。ベースとなっているのは、自己愛からの欲望です。インテリ気取り、評論家気取りで書いてきますが、誰にとっても何の糧(かて)にもならないものばかりです。楽山には意味はないのです。
 
 
ところで、Yさんも、Mさんも、どちらも文末に「、。」と書きますね。
分析的思考が共通してることよりも、こういう特殊な文字遣いが共通している方がよほどあやしく、同一人物であることが疑われるのではないでしょうか。まあこれは冗談ですけど。
言葉使いまたは同じ語句の使用、そして言い回しに類似点が多くある。たとえば、「である・直感・論法・共感・様相を呈す・正直・」他にもあるが省略。
 」
ここで例示されてる言葉は、さほど特殊でなく、誰でも使うものでしょう。
「直観、論法、共感、正直」は誰でも使う言葉だし、「様相を呈す」はよくある決まり文句です。
 
楽山にとっては、議論の言葉が重宝しているのだろうと思います。反省、感動、共感、などと言葉だけ書いても、楽山には、その実感を表す文章が書けないのです。何事にも実感がないからでしょう。
 
 
また、日本語の末尾は、大きく分ければ、「だ、である」体と、「です、ます」調の二つしかないのに、「二人とも『だ、である』体を使ってるから同一人物だ」というのは無茶です。
なんかこういうのって、「stも、自由も、どちらも日本語を使っているから、二人は同一人物にちがいない」と言われているみたいで、変な感じです。
 
楽山は、丁寧語を使います。やさしい人格に成りすましています。そういうコメントが付いたこともあります。しかし、楽山の心の中が、実は闇であることが、その、ごまかしの理路や、感性の乏しい、鈍麻した平坦な文章によって、明らかになっています。
 
 
ちなみに私から見て、stさんの言葉で印象に残ってるのは、「訂正不能」という言葉です。私だったら、この場合は、「反省できない」という表現にするだろうと思います。
でもstさんと話すときは、流れを重視して、「反省できない」を「訂正不能」に置き換えて話すかもしれません。
 
「反省できない」から「訂正不能」なのでしょう。どちらも楽山の持ち物です。柔和に見せかける表面的な言葉のうわべ、しかし、奥にある闇は、隠れていても、より大きな文脈に、また筆致に、表れてきたのです。楽山の世界は、闇の中で生み出され、世辞と丁寧語という体裁で襲ってきます。
 
 
多分だけど、他の人にもこういうことはあるんじゃないかなあと想像します。
つまり、言葉遣いは、相互に影響し合う側面があるから、二人の言葉遣いが同じであることをもって、二人の間に交流があるだろうことは推定できても、、二人は同一人物であるとまでは断定できないってことです。
 
「とまでは断定できない」というような曖昧な語尾が、楽山の得意技です。つまり、何も、真剣には考えていないから、曖昧な語尾になるのです。楽山についてゆくと、光は失せ、薄闇から、暗黒に至るでしょう。精神の混乱から、精神が鈍くなり、盲従する人も含めて、人格破壊に至るでしょう。
 
 
・・楽山の捏造(2)につづく・・
 
 
 
  絶望の人
 
垢のような慈愛と善意は
容易に偽善と悪意に変わる
眼の色は容易に変わる
 
しかもどちらかではなく
しばしばそれらは混ざり合っている
眼の色は容易に濁る
 
曇った眼に何の覚悟もなく
弱肉強食の自然淘汰の
動物の世界のように
うっかり干渉してしまって
怒りともつかぬ渦が回っている
 
その重さを今日も引きずり
彼は、生きている言葉も
実在する絶望も希望も
表すことはないのである
 
 
 
絶望的な気取り

絶望的な気取り
 
 
(2022年02月20日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の表面的な、丁寧さと柔和さにだまされて付き合う人がいても、結局は、楽山の訂正不能の我執と、無反省と無責任に気づくことになるでしょう。その時、楽山は、何の節操もない者として、ふつうの生存さえ許されなくなるのではないかと思います。私が出会った中で、最も凶悪な病質者です。
 
 
 
 楽山の発言です。
 
 
「批判の内容」について触れなかったのは、率直に申し上げると興味がないということです。多分、第三者氏もそうだから触れなかったのでしょう。人は興味があることについては話しても、興味がないことは話題にしないものです。ただそれだけのことです。
 
楽山が、批判を、趣味のように考えていることが分かります。弁明する気もないようですから、こちらは、楽山を批判する一方通行になっています。そうなったら、批判が止むでしょうか、とんでもない、ますます、不感不応の楽山には、批判が重なってゆくだけです。もう3年以上になります。
 
 
前々から、st氏には、誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…などが多すぎることは指摘していますが、残念ながら今回も同じ感想を持ちました。
こういうことを書くのは失礼かもしれませんが偽善や社交は嫌いなようなので、正直に書いておきます。
 
「誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…など」は、あってはならないことです。しかし、楽山は「多すぎる」と書いています。では申し上げますが、これら、あってはならないことを、楽山は、日常的にやっていて、そのために、ずっと言論による真実の追求の妨害者として存在してきたのです。
 
私は、社交は苦手です。誰がやっても偽善は大嫌いです。偽善者は、聖書では、キリストを殺した者たちでした。今は、ネットの向こう側に実在しています。楽山は、社交のセリフは好きなようで、しばしば使います。それで、結局は、だましているので、偽善者という判断になりました。
 
楽山は、私のツイッターにも割り込んできました。「通知」の「すべて」の中に無遠慮に書いてきています。批判されながら、こういう図々しさというのは、良心と良識がないことの証拠になるでしょう。私は、批判を始めて以来、楽山のブログのコメント欄にもツイッターにも書かないことにしています。
 
楽山の、AとかBとか、言い訳とかは、楽山の頭の中で、くるくる回っている論理遊びの小理屈に過ぎません。大きなテーマの流れの、ダイレクトな説得力も、発想力も、気づきも、その努力をする気もない者の、ごまかしのゴマ粒に、いちいち頷く気にも、時間をかけて考える気にもなれません。
 
楽山は、私のツイッターの「通知」に攻撃して来ました。私は、楽山のコメント欄にもツイッターにも書いてはいませんが、罪悪感も羞恥心もない楽山は、平気で書いてくるのです。こういう楽山の丁寧ごかしの無礼な様を見て、批判の決意を新たにします。
 
 
 
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