楽山の捏造(2)
 
 【st自由同一人物説!?】
 「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」
 2018年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
3年ほど前の楽山の記事の後半です。批判するのは初めてですが、読者を全く考えない長い駄弁です。私は、楽山を批判しているので扱いますが、決して、楽山に関わって読んだりしないほうがいいと思います。楽山は、平気で嘘を吐き、詭弁で理路を混乱させて、相手を疲弊させ、人格を破壊する人です。
 
 
私とマリアさんをstさんがカルトだと言い始めたら、タイミングよく自由さんはカルト記事を書いた、そしてそれをstさんは即座に 自由さんの記事から転載した。 それはタイミングが良すぎる。
 」
当ブログをご覧いただければ理解していただけると思いますが、私は前々からカルト問題に興味があり、その方面の記事を書いてます。
だから、カルトか否かの議論に注目し、触発され、自らの過去の反省の意味もあって、その種の記事を書いたということです。
 
楽山は、個人としての無神教カルトです。恐らく、宗教について何も分からないまま、宗教を憎んでいると思います。しかし、楽山には、本気がないので、趣味で、からかっている可能性もあります。宗教など、どうでもいいのが、楽山で、理屈を振り回したいだけで書いて、反宗教をあらわにしてきました。
 
 
この記事中には、キリスト教では「正統派を自認する側から見た「聖書を流用する異端集団」というカルト観を表明する人たちがいます。感情的に仕方ないことなのかもしれませんが。」という部分があります。
 
異端集団はいると思いますが、「感情的に仕方ない」ではなく、視野が狭くなり、良心と常識から乖離してゆくために、人間を駄目する教条は、批判対象となります。近々では、今は所在不明のシャロームshalom が、その典型例となっています。
 
 
この文章が記憶に残っていたせいか、私は、stさんがカルト云々と発言したときには、「カルト教団の信者」という意味よりは、「異端者」という意味合いなんだろうなあと思ったのでした。
 
異端は、間違っているということですから、広まってはいけないものです。シャロームは、トンデモ教理として、「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」などと言い出しました。これは、異端どころか、デタラメなカルトなのです。
 
 
あとは、Yさんらの発言を見ていて、「自分もカルト信者だった頃は、こういう考え方をしていたなあ」と思ったりもしたものです。この辺りが、自分の過去の反省に通ずる部分ですね。
上にも書きましたが、stさんと私で何十ものコメントのやり取りの最中に割り込んでこようとした事、通常の神経を持っている人間なら 入ってこないです、。 自由のハンドルネームはstさんと同一人物なので、気を使うこともなく、勝手気ままに横レスを入れられるのです。 
 」
また、Mさんと同じく、「、。」を使ってますね。こういう句読点の使い方は他では見たことないですけど、流行りなんでしょうか。
まあそれはともかく、上にも書きましたが、私は他所で、カルト信者らとの喧々諤々の議論を見たり、参加してたりしてたせいか、横レスするのも、されるのも、あんまり気にならないタイプです。すみません。
 
楽山は、喧々囂々の議論には参加しないと思います。丁寧語で品の良さを装っているからです。心の中では、笑いながら、そういう議論を軽蔑していると思います。サイコパスには、悲しみの情がなく、笑いと怒り、別の言い方をすると、あざ笑いと怨念だけがあるのです。
 
 
あ、今、気が付きましたが、「上にも書きましたが」というのは、Yさんも使ってますね。でも、こういう慣用的な表現が被ったからといって、別にどうってことはありません。たまたまそうなっただけであって、Yさんと私とが同一人物ではないのは当たり前です。
言葉遣い、語彙、決まり文句…などは、同一人物でなくとも、やり取りする間柄であれば、たとえそれが協調関係であろうと、敵対関係であろうとも、相互に影響し合うものですから、似てくるものなんですよね。
 
楽山は、気安く「似てくる」と言っていますが、いがみ合っている、論争している、という関係では、影響を避けるものです。楽山のようにはなりたくない、楽山のようになったらおしまいだ、という気持ちがあるからです。ゆえに、楽山には関わらないようにと呼びかけています。
 
 
あとは、自分で言うのも何ですけど、私が人間観の話題を持ち出したのは、それなりの理由はありました。
お互いに人格批判して傷つけあうよりも、アブラハムは義人だったか、人は義人となれるのかという議論をした方が生産的だろうし、そちらの方に話題を転じられればと期待してたわけです。
まあ結果は、「バカは黙ってろ。バカが口を開けば余計に事態は悪くなる」という教訓通りになったわけですが…。とほほ。
 
楽山の悪意と罪と偽善と嘘吐きと詭弁は、楽山の人格障害から来ていると判断しています。ゆえに、人格そのものを批判して、広く知らせる必要があると判断して、批判記事を書いています。こういう批判は、成否は度外視して、書かなければなりません。
 
 
私はリアルでも、空気が悪いと思えば、意図的にその空気を変えようとすることはあります。その時には、「お前、空気読めよ」と言う人もいれば、「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と言う人もいます。
私のやり方が下手だからこういう結果になるわけですが、後者は、人の内面を察するのに長けた方だなあと感心します。
 
楽山は、積極的にも、言い逃れとしても、空気を屁のように排気ガスのように毒ガスのように汚染してきます。始めのうちの優しそうな丁寧語は、全くの偽りであります。話が進むと、追いつかず、デタラメを言って、相手の理路を混乱させてきます。楽山とは、出会わないのが幸福というものです。
 
だから、楽山は「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と、気遣いをする人と言われると、楽山は、マタタビを与えられたネコのように悦ぶのでしょう。つまり、楽山は、本能として、褒められるというエサが欲しくてたまらないヒト型動物であります。それ以外は何も受け取らない人です。
 
 
*ものすごい怨念?
これは、stさんに向けて書いてるのか、私に向けて書いてるのか、その境目が判然としないですね。
この人は、どうしても私を否定したいようです。
抹殺したいようです。
最初は優しい言葉で近づいてきました。
しかし、彼の書いた文字には
ものすごい怨念が感じられました、
だから 自由さんには 即座に退出をさせました。
ふたりは 同一人物なのです。
 」
上の方では、私に配慮して、コメントを未承認にしてあげたという感じでしたけど、
ここをみると、はじめっから私のことを疑い、拒絶してたみたいですね。
疑い、拒絶していた相手にも配慮を忘れないのであれば、Yさんは立派な方だと思います。
 
楽山は、配慮の出来ない人です。思いやりや謙虚さなどの高等感情がないからです。ゆえに、配慮や思いやりの話を、曲解や妄想で、捏造してきます。「立派な方」は嘘です。楽山の世界には、楽山以上に立派な?人は存在しません。だから、訂正不能の高慢で上から教えて?くるのです。
 
楽山は、「ものすごい怨念」を、他者の心に、わざわざ育てています。だから、前に、ぶん殴られるだろうと言いました。もっと酷いことになるかもしれません。自己中が、いつまでも通る世界ではないのです。楽山の人を軽んじる態度は、いずれバレるでしょう。あと何十年生きるつもりなのでしょうか。
 
 
*主語は?
あとは、この二つの文章に共通する点を考えてみると、どちらもYさんについての文章だということがあります。言葉を補うと、こうなるでしょう。
(Yさんは) まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん  
(Yさんは) 人間についても人間の言葉についても、神がかりと人間離れのために、失っている人のようです 。
一般に、こんな風に主語が同じであれば、つなげて読めたとしても不思議ではないです。
たとえば、こんな風に。
K 「(Aさんは)すごく優しい方ですね」
J 「(Aさんは)人の心が分かる人なんでしょうね」
これをつなげれば、こうなります。
「(Aさんは)すごく優しい方ですね。人の心が分かる人なんでしょうね」
どうでしょうか? 二つの文章はきれいにつながっているのではないでしょうか。
stさんと私の場合は、立ち位置に若干のちがいがあるので、主語が同じでもつなげると不自然さがありました。
でも、KとJの場合は、主語だけでなく、立ち位置も同じなので、つなげると一人の言葉としか思えなくなってます。
 
こういう、一見まともそうな小理屈が、楽山が、焦点をぼかし、保身するために投げてくる混乱の泥水です。ここに付き合うことから、相手が分からなくなってゆくことを狙っているわけです。だから、この狡猾さの犠牲にならないためにも、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
 
このことから、Yさんが、stさんと私の文章はつながると錯覚してしまった原因がどこにあるか、およその見当はつけられそうです。
うっかりミスは誰にでもあることだし、これをもってYさんを責めはしませんが、元々、頭のいい人だろうし、先入観にとらわれず、じっくり考えればこんなミスはしなかったろうと思うと残念であるし、気の毒だなあとは思います。
 
楽山は、先入観を与えて「責めはしませんが」責めて疲れさせてきます。「頭のいい人」という世辞を言い、「ミスはしなかったろう」と言うことで、ミスだと断定してゆく、楽山の、だまし言葉なのです。「じっくり考え」ない相手という結論から、「残念であるし、気の毒」の蔑みにつなげています。
 
 
*まとめ(別人です!)
つい先日、私はstさんのところにおじゃまして、的外れな批判に対しては、いちいち反論しないでもいいのではないかというようなコメントをしました。
でも、st自由同一人物説を真に受けてる人がいるらしいこと、いまだに的外れな批判が続けられていること、当該記事を読み返してみたことなどから、やっぱりこちらの意見も出した方がいいかなあと考え直して、この記事を書いた次第です。
stさんには、わざわざ反論の必要ないでしょうと偉そうなことを言っておきながら、あっという間に考えを変えるなんて、我ながら節操なく、情けないと思いますが、まあ仕方ありません。
 
ペテン師だと、分からないあいだ、だまされていましたが、分かってから、反省しないし弁明もしないのは、言論者ではないということです。楽山は、丁寧は皮だけで、中身は真っ黒です。丁寧語でだます偽善者、楽山は、暴言を吐く自称ヨシュアより、はるかに偽善性の高い悪なのです。
 
 
というわけで、私の主張をもう一度繰り返しますが、stさんと私は別人です。このことは、強く強調しておきます。
すでに二人は同一人物だと信じ込んでいる人からしたら、それを修正することは難しいかもしれませんが、事実は事実、真実は真実です。二人は別人です。
 
私は、楽山を批判しています。楽山は、批判に何も答えず、いつも、だますためだけに、この記事のような冷静を気取る文章を書いてきます。優しさも柔和も芝居の、楽山のような人がいる社会ですから、人の言うことを鵜呑みにするのだけは、やめたほうがいいと思います。
 
 
この事実に反発する人に対しては、「すぐに、この事実を受け入れなさい」とまでは言いませんが、できればこれを機会に、もう少し考えてみてもらえたらなあとは思います。
以上、長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
〈了〉
 
この礼儀正しさも芝居です。楽山には、実感というものがないのだろうと思います。数か月だまされたのち、3年あまり、批判しています。楽山は、狡猾さが加わって、私が生きてきた中で、最も悪質はワルの部類として、批判を続けてゆくつもりです。近くにいる人は一刻も早く逃げてください。
 
 
*追記
けっこうな長文なので、もしかしたら、キモイと言われてしまいそうな気もしますが、
一つ一つの論点を、なるだけ丁寧に説明したら、こんなになってしまいました。まあしょうがないですね。
 
キモイで済むような人ではありません。論点などありません。丁寧は、みな、詭弁か、偽りです。しょうがないのではなく、楽山撲滅同盟でも作りたいくらいに、楽山は、一刻も早く、ネットの言論から追放するべきサイコパスです。決して許してはなりません。
 
 
 
 精神の生産力
 
精神の生産力とは
頭脳・能力の生産性・効率という意味ではなく
創造力や想像力という才能でもなく
 
精神の破壊力に対する力です。
 
生産力または再生産力
人間が育み与えうる力の中で
精神の破壊力に対応するために
物質的・精神的な最小限の安らぎの糧(かて)
または生きるための平等な未来
日々の平安かつチャンスに満ちた力
 
精神的投資を惜しまないだけの
物質文明に劣らない精神性
それらの投資を充分にして破壊に走る力と戦うべきです
 
うわべにだまされないように
敏感力と鈍感力と
何よりも共感力が必要です
 
 
 
節操の破壊

節操の破壊
 
 
(2022年02月21日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自身の知性におごっているのかもしれません。それこそが、自己愛性人格障害の誇大妄想です。話が進むと理路が成り立たなくなるために、安い詭弁で混乱させてきます。相手が混乱し、慌てて、感情的になるのを、楽山は楽しんでいるのです。もうこれ以上、誰も、だまされないでください。
 
楽山の記事やツイートの、論理学の初歩みたいなAとかBとか、命題めいた言い訳とか、自分の頭の中をくるくる回ってる小理屈に過ぎないし、ダイレクトな説得力も、その努力をする姿勢も、まったく感じられない、ごまかしの擦り切れた残骸には、いつ見ても、うんざりさせられます。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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