疑い
 
 
人間に分かる信仰、どこまで人間に分かるのか、というテーマについて、これまで考えてきたことを書いてみます。
 
 
神の性質は、全知全能・絶対完全・永遠不変、などと言葉で表します。これらの性質は、人間には手に負えないものです。人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない・・からです。すなわち、人間は、不完全ということです。ゆえに、罪を犯します。
 
 
Q.神は、将来起こることもご存じなのか。つまり、未来は、既に、決まっているのか。だったら、何をしても無駄ではないか。
 
A.運命論的な考え方ですが、招来は決まっているとしても、人間は、それを知らないのですから、折々に、最善を考えて、努力するしかないのです。それが、人間の宿命です。努力しないのは、ただの怠慢であります。それが、全知全能の神に対して恐れをいだく信仰の根拠であり、信仰の動機であります。
 
 
Q.神様は守ってくれるのか。ならば、なぜ、この世に悲劇が起こるのだ。
 
A.神が人を守ることが、人の都合に合うとは限りません。神が守ってくれると、人の知恵で思い込む信仰は、ご利益信仰に陥りやすく、起こった出来事を自分で解釈して神の意志を、こうなんだ、と決めつけるという背教にもつながりやすいでしょう。
 
それに、神が統べる世界が、この地上だけかということも分かりはしません。神だけがご存知のことです。私たちは、この地上にいて、この地上で成り立つところの、人が学ぶべき真実と善と正義を学んでいますが、不完全ゆえに、何をもって守られていると言うのかさえ知らないのです。
 
それと、試練ということが、よく言われますが、これから試練が起こると分かるわけではないのですし、見方によっては、一生が試練なのかもしれません。信仰は、未来の安全を保証すると考えるのは、傲慢です。信仰生活は、起こったことに対して、人間として、出来ることをして、祈ることことです。
 
 
Q.信じて、試練だけなら、信じることは空しい。
 
A.私たちは、不完全で罪深い人間です。それは信仰者になっても変わりません。恵みや試練を決めつけてはいけません。恵みと思ったことが試練であるかもしれないし、試練と思ったことが恵みであるかもしれません。全部、恵みと思うことは、人間には酷です。思い込み信仰に陥る危険があります。
 
喜び、感謝し、讃美するのが信仰の務めだと思い、悲しむという人間の陰性の感情を抑制していると、だんだん人間離れになってカルト化してゆく可能性があります。信仰者にとって、多くの目覚めや気づきという恵みは、悲しみを通して与えられるでしょう。神に対して正直であってください。
 
信仰の直接の恵みは、ただ、神に正直に祈る時と所が与えられることです。人に正直になれないことが多い地上では、信仰者にとって、包み隠さず告白できる祈りは、宝物となります。できることをする努力以上の、例えば、自分の人生の成功や失敗という結果は、神に任されることです。
 
信仰は、人に都合のよいことが、生涯にわたって保証されることではありません。信仰は、生命保険ではありません。洗礼受けたから、キリスト者になったから、大丈夫ということではありません。信仰が人生に与えるのは、生きる活性です。絶望の崖っぷちで、それを得た人がいるということです。
 
神は、何か良いものをくださるかもしれません。しかし、人は、それを、良いか悪いか、完全に判断する能力を与えられてはいません。私たちは、地上に生きるあいだ、地上の物事に縛られているのです。信仰が、神秘的な悟りのような達観を与えるというのは、人には分からないことです。
 
 
Q.信仰者は、他者より、悟っていて、優れているのか。
 
A.そういうことはないと思っていたほうがよいでしょう。キリスト者の偉人の話は、多く、死後に語られますが、そういう人々になるために信仰があるのではありません。キリストが、語りかけた人々は、ふつうの人々であり、救いの言葉をかけたのは、ただ、余計な先入観を、持てない人でした。
 
 
Q.善人にならなくていいのか。
 
福音書には、多く善人とは言えない人が救われています。信仰は、人の判断する善では測れません。同様に、信仰は、人の判断する正義でも測れません。信仰は、ただ、精いっぱい、正直な祈りをしているかどうかです。大きな勘違いがあるようです。
 
戒めを守って、正しい人に、良い人になる、これは、パリサイ人が目指したことです。キリストは、それを打ち破るために、神に相応しい人を、悪人や病人から選んでいます。守っていると言う青年には、守れない教えを告げました。信仰の真実が、高が知れている人の善や義ではないことを教えています。
 
 
Q.いつも祈っておればよいのか。
 
A.祈らなければ・・で、祈るのは、強迫症状です。祈りの本質は、神経症の症状ではありません。祈りたいときだけ、祈ってください。祈るときは、精いっぱいの正直を心得てください。正直でなかったと気づいたときには、また改めて祈ればいいのです。神は寛容です。
 
信仰者なら、祈りたい時は必ずあります。神は、既に、人が不完全であることをご存知です。正直な祈りを待っておられます。飾った祈りや讃美だらけの祈りで、義務を果たした気分になるのは、強迫神経症の症状です。神の前で、嘘で飾ることは、罪であって、祈りではありません。
 
神は、正直な祈りだけを、寛容さをもって忍耐強く待っておられます。それが、人間が、神に対して出来る精いっぱいであることを、神はご存知だからです。そういう祈りでないと、心の解放にも、魂の救いにもならないのです。
 
 
Q.なぜ、祈りの終わりに、イエス・キリストの御名によって、御名を通して・・と言うのでしょう。
 
A.聖三位の中で、イエスキリストだけが、地上で、人間に直に接した神格だからです。そして、命を捧げるという犠牲によって、人間の死を超克し、人間への命を惜しまない共感すなわち愛を成就したからです。私たちキリスト者には、キリストを通さずに、信仰はありえません。
 
 
Q.異教徒に対しては?
 
A.全能の神が、神の目的そして計画のために、キリスト教を通さずに、何らかの使命を与えて導くということを否定できません。キリスト者が優っている、キリスト者だけが救われる、キリスト者だけが正しいというのは、信仰に思い上がった優越思想であります。
 
キリスト者が特別優秀ということは全然なく、尊敬に値する異教徒も無宗教も求道者も、同じ人間として、平等に、尊ぶべきと考えます。非キリスト者の偉人も、ふつうの人も、人類の敵以外は、尊ぶべきであります。
 
 
Q.信仰の敵とは? 人類の敵とは?
 
A.人類の敵は、国家でも組織でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。邪悪な集団に、さらに、少数ですが、あらゆる集団の中に、必ずと言ってよいほど含まれている異常人格です。一方的で自己愛と笑いと怒りしか持ち合わせず、しんみり悲しむ情感と罪悪感がありません。
 
 
Q.人類の敵は殺して良いか?
 
A.殺してはいけません。特定して隔離するべきかもしれないが、法制度は、未だ、そのようには出来ていません。サイコパスからは、即、逃げたほうがよいのですが、サイコパスかどうかの判断は、その知情意と理路と感性とを経時的に見なければならず、気安く決めつけることは出来ません。
 
 
 
疑いと希望

疑いと希望
 
 
(2022年2月23日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
 
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を正すのは、自分の過ちや罪や悪や足らざるものに気づく人です。気づけない人がいて、嘘を吐き詭弁を弄して人を惑わすなら、放ってはおけないはずです。かといって、捕まえる権利が私たちにはありません。批判を続ける以外にないのです。
 
楽山は、ツイッターや記事、私のツイッターにも、厚かましく何か書き込んで、批判返しを書いたつもりのようです。私は、さらに批判するのに3記事3日を要しました。無駄でしょうけど、それが、批判するしかない対象に対する私の立場だということです。
 
前から言っているように、楽山の信頼度はゼロなのです。つまり、全く信頼していないのです。遣り取りなどしないのです。楽山は、まだ、言論者のつもりでいるようだが、楽山は、害毒を対話に撒き散らすだけです。自分の中の化け物に気づかないのです。楽山からは離れてください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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