楽山のカルト性2
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてくるカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとします。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
ウェブリオ辞書
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という単純な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。それは、ことわざになるでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという可能性もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないようです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。
 
楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。カルトは、自分を特別視したい人の集まりのようなものです。人間の努力は、人間性を高めるためのものですが、カルトには、人間性を超えたい人が集まる傾向があります。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。人格と生活の破壊が恐ろしいのです。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があるということです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条で、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍(ふえん)することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の心霊妄想を、HSへの批判という反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書いています。
 
かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに曖昧な言い方で、責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという言葉だけを書いて、柔和を装う手練手管を振り回すことです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山は、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めるだけですから、決して受け入れてはいけません。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。生まれ育った時点で、そういう人格になっていて、罪悪感がない、という人格障害なのです。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりなどを感じ得ない高等感情の鈍麻情性から他者が傷つくのを楽しむという心性を表してきました。
 
何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、あらゆる不都合を、人のせいにする他罰性を表すことによって特徴づけられることが、ここ3年ほどの批判で明らかになっています。コメントの遣り取りをすると、無駄に疲れるというエナジーバンパイアであります。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけた教祖願望のカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原(これは造語ですが)です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、企みに満ちていて、汚いということです。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすときは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えるべきでしょう。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という、上と同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、ペテン師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思います。そして、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、悔いることなく、正しい大人を装う芝居をしてきます。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。
 
 
 
偽善 詭弁 ペテン

偽善 詭弁 ペテン
 
 
(2021年02月21日)
(2022年02月25日、再録+)
 
 
 
  言質
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
 
 
キリストは、神の教えを守れないと正直に言った、または、そう表した人を、信仰の義として、救いました。一方、守っている言った青年を退けて、その心に悲しみを残しました。さらに、キリストは、守っているという確信に凝り固まっているパリサイ人を、真っ向から、敵としました。
 
神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神聖と超常について、豪語すると、カルトに近くなってゆきます。
 
人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で推測したり想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思います。
 
 
 
頭の中で辻褄を合わせただけの理屈を読むと、無感動で退屈な、心の閉塞感を感じます。楽山の理屈は、乾いた砂で、こすられるような不快感を伴います。心を満たすことのない人間離れした理屈の組み立ては、人間を語れない不細工だからです。
 
いつも達成できているわけではありませんが、人間の心に寄り添い、心に響くような、潤いと温もりに寄り添うような書き方をしている文章には、心の解放感が伴います。恐らく、それが、説得力というものだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、作戦を練り直すことはあっても、反省、内省、訂正、修正が、できません。楽山にとって、他者に対しては、自分優位が前提となっているからです。謝罪や反省の言葉は書きますが、その前後で、ベースとなる思想や命題は変わらないことから自己愛への固着だと分かるからです。
 
楽山と議論や遣り取りをしてはいけません。信じられないほどの徒労と疲労を味わうでしょう。こちらの言うことは、楽山にとって、揶揄の材料にしかなりません。楽山は、断定していないから責任問題は生じないと言いましたが、楽山の丁寧語は、悪質な刷り込みと印象操作なのです。
 
楽山が書いた殆どコピペの無駄に長い7記事ですが、23日に全部一日で書いたようです。長い記事書けばよいというものではないということ、逆効果だということ、気づかないのでしょうか。原始的に衝動的に書いて、気が済んだのでしょうか。いよいよ冷静を装えなくなっているようです。
 
 
 
 
大国であるロシアと中国が独裁国家という現代の危機であります。中国はどう出るのだろう。独裁国家では言論と思想の自由がありません。第2次大戦では、ドイツ、イタリア、日本が、独裁であった。これだけ、強大な軍事力を持つ2大国が独裁になっている時代があっただろうか。
 
コロナ禍だけでも大きな試練であるのに、ウクライナの局地戦で済むだろうか。プーチンはヒトラー並みのサイコパスなのか。ヨーロッパとアメリカとロシアという大国が関わっている。第3次世界大戦になりませぬように。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
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