無神論=無神教カルト
 
 
楽山が信奉する無神論=無神教カルトの言い分は、神の辻褄を追う・・という、人間には不可能な論理モドキによっています。ゆえに、成立するわけがないのです。
 
キリスト信仰の救いは、ひとえに、キリストと人々のかかわりの中に、洞察と共感によって、心に生まれるものです。そこでは、いかなる論理も詭弁も無意味になるところです。
 
楽山は、最近、無神論者=無神教カルト信者のリツイートが多くなりました。そして、過去記事のコメントをコピペして、だらだら、大量に並べています。独自の言論が不可能であることを表しています。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
宗教が理不尽であれば、「宗教を批判すること」人の宗教に基づく言動を批判することは、信者も、異教徒も、非信仰者も、可能です。しかし、宗教の本質を批判したければ、宗教と信仰を深く知っていなければなりません。楽山のような幼稚な妄想的曲解は通用しません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
もし子供が理性的な思考力を身につける年齢になるまで宗教的教育が許されていなかったとしたら、我々はまったく違った世界に住んでいただろう―クリストファー・ヒッチンズ
 
私は、父も母も無宗教で、仏壇が置いてある程度でしたから、宗教的教育は受けていません。17歳の頃に、聖書って何だろうと思っていて、たまたま、聖書を無料でもらえるという話を聞いて、教会に行き、通うようになり、洗礼を受けました。無神論=無神教は、理性の産物とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
人種で人を批判することは明らかに不合理でばかげているが宗教を批判することは正当で自由なことだ。あらゆる思想―誰かが心から信仰しているものでも―を批判する自由は社会の基本的自由の一つだ。―ローワン・アトキンソン
 
「宗教を批判することは正当で自由」「批判する自由は社会の基本的自由」・・宗教の信条や教理そして行動は、批判してもいいと思います。ただし、その責任を負わなければなりません。また、信仰する人の思想について批判できても、キリスト信仰や神聖そのものを批判することは不可能です。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
一神教の絶対神(の信仰)が弛緩するとき、多神教の神霊が声を上げ始めると同時に、人間の死後の運命の想像力も蠢き出し、ちょうど神が「一」から「多」になるように、死後のケジメも「一」から「多」に増殖し、一回限りの審判ではなく、幾度も転生して人生やり直すイメージがヒットするようになります
 
(ネットより)
中村圭志(なかむら けいし、1958年 - )は、日本の宗教学者、編集者、翻訳家。 北海道小樽市生まれ。北海道大学文学部卒業。東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。
 
「絶対神(の信仰)が弛緩」「多神教の神霊」「死後の運命」「幾度も転生」・・超常カルトの筆致です。無神論=無神教は、人間の論とは思えません。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
19世紀以来の心霊主義および神智学系の動向は、いずれも輪廻のようなものを認めています。これはまさしく絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語だと言えるでしょう。神が全部決めるんじゃなければ、人間が霊界ないし転生において学んでいく形でしか真理は開示されないんですね。
 
心霊主義を是とするのでしょうか。輪廻を信じているのでしょうか。「絶対神信仰の弛緩によって逆に増殖した人間の霊魂の旅の物語」・・飾っていますが、「絶対神信仰の弛緩」について説明していません。「霊界」「転生」という超常を学べるのだそうです。人間に可能な論理ではないようです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
『クラウド・アトラス』のようなSF的設定には、絶対神は存在しません(『スター・ウォーズ』もそうです)。一切は人間の織りなす物語です。神を持ち出さずに、ただし神秘的な記憶や予感を持ち出して、複数世代にわたる大河ドラマを構築すると、それは輪廻っぽい物語となってしまう。
 
2つの映画の話です。それで「絶対神は存在しません」が成り立つでしょうか。「神秘的な記憶や予感」「輪廻っぽい物語」・・殆ど、超常のフィクション~想像~空想ではないでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
輪廻の文学的効果の第一は《私が他者の立場だったら、どう思うか》という反省的効果です。差別していた者が差別される者になる、といった教訓です。『クラウド・アトラス』ではそれよりむしろ《時代は変わっても人類は同じ愚行を繰り返す》という集合的な既視感が「輪廻」の意味する所かもしれません。
 
無神論ではなく「輪廻の文学的効果」と言いながら、差別が非差別になる輪廻を繰り返す、「集合的既視感」などと言って、フィクションを語るのか、現実の宗教や神を語るのか、境界と区別が判然としないようです。無神論は、空想やフィクションなのでしょうか、カルトなのでしょうか。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
そういったあたり、未だにウェーバーあたりの精神論的文化論で考えている日本のクリスチャン系評論家の意識はガラパゴス化しているかもしれません。なんかガラパゴス化しやすいのは、むしろ非常に日本的な特質であって、ちっとも西洋的じゃないところが、アイロニカルなところです。
 
(ネットより)
ガラパゴス化(ガラパゴスか)とは、日本のビジネス用語のひとつで、孤立した環境(日本市場)で製品やサービスの最適化が著しく進行すると、外部(外国)の製品との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、適応性(汎用性)と生存能力(低価格)の高い製品や技術が外部から導入されると、最終的に淘汰される危険に陥るという、進化論におけるガラパゴス諸島の生態系になぞらえた警句である[要出典]。ガラパゴス現象、ガラパゴス症候群ともいう。
Wiki:ガラパゴス化
 
日本がガラパゴス化しやすいというよりも、日本特有というよりも、キリスト教は、風習・習慣・儀式に取り入れられて、その本質から堕していきやすいのです。また、有神論も無神論もカルト化しやすいと思います。アイロニカルというより、それこそ、罪なのです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
二十世紀半ばまでは、マックス・ウェーバーに代表されるように、西欧的特質を宗教(キリスト教、プロテスタンティズム)に帰す思考が優勢でした。これはマルクス主義に対抗する意味もありました。21世紀以降は、そんな単純な因果は考えない方向に向っています。因果ははるかに複雑だろうと。
 
単純も複雑も、キリスト信仰は、○○イズムや因果で説明できるようなものではありません。むしろ、飾らない情感や共感性が大事だと思っています。そこに、信仰の絆(きずな)があるからです。
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
ニューエイジの東洋宗教ブームを日本に逆輸入したのがいわゆる「精神世界」です。先日会った芸術系の人が、一神教と違って自然主義の神道などには侵略性がないみたいなイメージで語っていましたが、なに、戦前の国家神道のことを知らないだけです。仏教や神道がエコだというのも、だいぶ怪しい話。
 
「侵略性」は、キリスト教を、超常的、儀式的、教条的、論理的、学問的に見てしまう結果であります。キリスト教と信仰は、祈りを中心とする心の信仰です。学問は、資料となりますが、信仰となることはないです。○○主義やイデオロギーの理屈で、キリスト信仰を語ることは出来ません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
リチャード・ドーキンスbot
@Dawkins_bot_jp
宗教の感情を傷つけることはできない。宗教自体はそんなものは持たない。あなたが傷つけ虐げうるのは人々であり、その彼らの宗教自体が最も人の感情を害するものである場合が多い。
 
正しい信仰は、溢れる情緒と情感が支えています。信仰は、本質的に、良心から自発的に起こるのであり、信仰に、最も傷を癒す恵みがあると個人が判断することによります。良心を持つ人間を傷つけ害することは、宗教と信仰の有無にかかわらず、悪魔の所業であります。
 
 
 
キリストの共感に支えられる心の在り方を、信仰と言います。つまり、信仰は、論理的にはなりません。愛とか心の絆(きずな)に近いものです。信条や教理は、そのヒントとしてまとめられていますが、人間の言葉では暗示的に表されるもので、論理で云々できるものではありません。
 
 
人間 信仰

人間 信仰
 
 
(2022年02月28日)
 
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
st問題資料集というシリーズの長いコピペ記事を書いている楽山ですが、無神論者=無神教カルトをリツイートするようになりました。自分では、コピペしか出来ないからです。楽山のような、キリスト信仰を知らない者が、神がどうのこうのと語っても、全く意味はありません。こうはなりたくない。
 
楽山は、狂ったように書き続けています。何の主張にも思想にも弁明にもなりません。無反省に書いてきたことをコピペして何の意味があるのでしょう。それしか出来ないのでしょうか。一つ覚えの発作のように、憑りつかれたように書き続けていて、楽山の異常性だけが際立っています。
 
楽山の思想が、結局は、嫌味に過ぎないことを表しています。書けばいいじゃろ的な、安易な発想が、新しい何ものをも書けない楽山から、放水か、尿失禁のように、あふれ出して止まりません。こういう人だったんだな・・ということを、これでもか・・というほどに、あらわにして、ただ、愚かなだけです。
 
一生やってろ・・みたいな感じでもありますが、自分について、みじめさを感じ得ない楽山の暴走です。パニックからの強迫行為かもしれません。このようにしか、ストレスの処理が出来ないのでしょう。こちらは、とうに、観覧モードになるしかありません。常軌を逸しています。
 
観覧したい人は、下記アドレスですが、発作的な異常行動なので意味はないと思います。最新記事一覧のページです。ここまで暴走する人は、いないでしょう。今回の楽山の、おびただしく長い記事群は、読者にとっては拷問のようなものです。
 
できれば、一生、こういう感じでコピペし続ければいいと思います。いちいち読む人もいないでしょうし、その間、それ以外の活動は出来ないでしょうから、楽山の悪影響は少なくなるでしょう。どんな顔をしてるんだろうとか思います。読んでみようという人がいるとは思えません。
 
必然もなく、常識も病識もないから、楽山は異常者です。異常者のすることは了解不能なので、誰も関わってはいけません。自分のブログだけで狂う分には、害も少ないので、楽山の言論は、無意味な執着という症状ということになり、努力は微塵も買いません。
 
楽山は、共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。執着が行為を決めるのかもしれません。底知れない恐怖の衝動が楽山を動かしているのでしょう。そして、自己満足だけで、反省せず、責任を負わず、あとさきを考えません。それで常識人の芝居をしてくるのです。
 
気になるのは、楽山の底意地の悪さですから、コメントの捏造をしている可能性です。今回の記事が、どの過去記事のコメントなのか、さらに、HNにリンクが付いているのかどうか、はっきりしません。ゆえに真偽を判定できないことを狙った可能性もあります。
 
楽山が、楽山の責任においてやっていることです。何かの当てつけでしょうか、しかし、執着の異常性が明らかになったということです。今までもそれで墓穴を掘ってきたのでしょう。これだけの強迫性に走る性癖を隠し持っていたと分かったのだから、楽山を相手にしないでください。とても危険です。
 
楽山は、"st問題" という言い方を前からしているのですが、これは、ずっと私が指摘して、何も弁明できない楽山が、自分自身の問題を全く認めていない証拠です。つまり、"楽山問題" なのです。また、過去を出して見せるのは、現在を乗り切れる自信のない、後ろめたい人のやることです。
 
楽山の書く文章は、程よいと思わせる丁寧語の書き方ですが、正直言って、何か、はっとさせて、感動するということが一度もないのです。言葉だけ、程よく並べて、退屈で、独り言だったり、うんざりするほど長く、新しい発想がなく、無反省、無責任で、どうして信頼できるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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