赦すこと3
 
 
※ 人格異常で批判対象となっている楽山が、余計なことを書いてくるので、このところ、後付けの批判のために、記事が長くなっています。
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。もう一つは偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではなく、なお偽善者の態度なのです。
 
人間の立場から見ると、赦されて安心することよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、また、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめ、破壊してゆきます。凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言って、さらに、自分を高める背教を勧めるのです。
 
悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がることなく、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
罪の赦しは無罪ではなく赦されて生きること

罪の赦しは、無罪ではなく、赦されて生きること
 
 
(2020年02月)
(2022年03月02日、加筆して再録)
 
 
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
信仰を超常奇跡物語としてしか見ていない人もいます。私たちキリスト信仰者は、神の業(わざ)であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人として生きてゆくために必要な、愛に通じる共感として、神とは違う低さと罪深さを弁え、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーつまり無視すると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
一般に、厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般にも嫌われるでしょう。無反省と無責任そして体質的に鈍感であるために無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、こちら側の体面のために本音を隠しがちです。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパス、エナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。
 
辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
 
  前進か後退
 
前には足跡がある
後ろには足跡がない
戻ることはあり得ない
止まることも許されない
嫌だ嫌だの挙げ句の果て
後ろを向いて後退(あとずさ)り
だから転んでは気を失い
目覚めればいつも仰天している
 
 
  罪の足跡
 
まっすぐ歩いたつもりが
振り返れば随分と曲がっている
右に左に
無駄な道のり
それら徒労
受け容れるしかないものたち
 
無数の足跡に紛れたり
別の足跡と交叉して離れたり
途切れているところもある
一度は死んだのかも知れぬ
 
いずれ満ち潮が
すべてを攫(さら)って消してゆく
足跡一つ残せませんでした
と泣きながら倒れるようにひれ伏して
許しを乞わねばならないだろうか
 
後ろがどうであれ
後でどれだけ消えてしまおうと
今ここで決めねばならぬことがある
 
目の前で一歩踏み出せば
足跡は一つ増える
踏み出すことは
踏みしめること
踏みつけること
踏み拉(ひし)ぐこと
何かを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
発作のように、コピペで大量の記事を書き、どんなもんだいとでも言いたいような楽山ですが、当たり前のことさえ、ずっと出来ないままなのです。反省、責任、どれもこれも、できないばかりか、理解さえしていないで、いかなる霊が分かるっぽい?のでしょう。呪いの悪霊でしょうか。
 
過去のコメントを断片的に引用して、「議論とは関係ない挨拶、雑談にまで、ずうっとケチをつけてくるというのはどうかしている。st氏にもこういうバカバカしさに気づいてほしいが、多分それは無理なのだろうな。残念。」などと書いています。無理な楽山に対しては、実際、ずうっと無理なのです。
 
NPDの症状は、日記的な話にも表れてきます。しかし引用された記事とコメント、私は覚えていません。楽山は、執念深く、細かいところまで引用したつもりでしょうが、今に至るまで、ずっと、楽山の無法は、表れてきたのです。それが、体質というものです。ピントをずらそうとしても無駄なのです。
 
 
 
 st氏から、つきまとわれる理由
 2022年02月28日 楽山日記(LD)
   さらに批判します。
 
st氏からつきまとわれる切っ掛けになった場面があったので保存しておきたい。
 
「つきまとわれる」という言い方をしていますが、つきまとうのではなく、批判するということです。楽山が、こんなふうに、しらばくれるわけですから、批判は、書けるあいだ、一生にわたります。根腐れを放置することは出来ません。
 
st氏は、シャローム氏と話をする私を異常だとして、批判しはじめている。
 
楽山とシャロームshalomにだまされたことに気づいたころの話だと思います。楽山とシャロームは、異常な偽善者です。ここに至っては全否定で、これからも批判を続けているということです。凶悪な訂正不能の悪の根性を持っています。
 
次に、st氏は、私の記事に対する反発心をあらわにしている。「人は人、自分は自分」という考え方は、よくあるものだけども、st氏にはどうにも我慢がならなかったらしい。
 
「人は人、自分は自分」・・・公共の福祉に反しない限りでという条件があることを知らないのならば、楽山は、無知であります。キリスト教について、嘘と詭弁で、デタラメなことをばらまいている楽山を容認することは出来ません。
 
年始の挨拶をしたのであるが、たったそれだけのことでst氏は敵意をあらわにし、悪口を言うようになった。
 
年始の挨拶をしている場合ではないということです。しらばくれる楽山は、人間とは思えない不感不応です。傍らで人が傷ついていても死んでいても、あけましておめでとう・・などと挨拶を交わしそうな者たちです。冷酷で、情がなく、攻撃的で、卑怯です。全否定で臨みます。
 
st氏から敵と認定された後は、すぐに次のようなモラハラを受けた。
質問だと思ってこたえたら、「明確な質問ではなく、疑問です」って…意味分からん。
 
何かを問うているのではなく、そのような場合ではなく、疑問を持って批判しているという意味です。質問などはしません。応答が、全く信用できない楽山だからです。今は疑問はありません。楽山とシャロームは異常者です。一人による成りすましも疑われます。
 
私が楽山を批判する理由について、楽山は、何も分かっていない、または、分かっているのに言い逃れと悪口しか返せないでいるのです。健全な社会には、いてはならない病質者です。くれぐれも、関わることのないようにしてください。相手を消耗させるエナジーバンパイアでもあります。
 
神からも、人からも、許されては、赦されては、いけない者たちがいます。強制力もなく、言論だけが頼りになるところで平気で嘘を吐き人をだます者たちです。いずれ、あるいは、既に、何らかの犯罪者であるかもしれません。匿名のネットをいいことに、怠慢と虚偽の地獄に生息しているのです。
 
人類の敵とは、国でも組織でもありません。楽山のような、人間の心を持たない輩、反社会性人格障害者のことであります。戦争を始める者、戦場で残虐行為をする者、その群れの中に、楽山のような高等感情を持たない者たちがいるのです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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