善悪と判断3
 
 私の前の記事「できることを」
 の続きのようなものですが
 
 
アメリカのドラマで、よく聞く台詞です。
 " Do the right thing. "
 
正しいことをしなさい、やるべきことをしなさい、という意味でしょう。とてもシンプルな言葉だなと思いますが、この台詞に文句を言うつもりはありません。日本でも、日本語で似たようなことは言われるでしょう。
 
私たちは、個人の利益や幸福を妨げることを、悪いことだとを判断しているようです。そこには、加害者がいて、犯人または悪人と呼んでいます。そして、陰性の感情をいだきます。しかし、私たちは、自分のこと以外では、被害者と加害者について、詳しい経過を知っているわけではありません。
 
つまり、その時その場で、善悪の判断をしているのであって、その判断は相対的だが、それで、行動が必要ならば、行動の基準としています。そうしちゃいけないという理由はありません。というより、そうするしかないわけです。
 
ただ、本当に、どこも間違いのない善悪の判断になっているか、その判断には誤りが全くないか、ということについては、私たちは、完璧な根拠を持ち得ません。総ての状況と、総ての影響を、知っているわけではないからです。
 
人間が、行動するときの、事前の判断は自分でするしかなく、その判断について、誤りの可能性を自覚しているでしょうか。だから、正しい信仰を、ということではありません。信仰者においても、人間としての善悪の判断能力は、同じです。信仰は、誤りのない正義を与えるわけではありません。
 
むしろ、信仰者であるなら、神の絶対に対しての、人間の非絶対性つまり相対性を、罪深さとして自覚しているはずですから、非信仰者よりも、よりいっそう、自分の判断に、神に対する恐れをいだいて、決めつけようとする傾向を抑制するのでなければ、信仰に生きているとは言えないはずです。
 
人間は、絶対正しいから実行するのではなく、その時、判断しているに過ぎません。人間の判断には、絶対はありません。例えば、批判が続くのは、批判対象に、改める様子が全く見られない場合です。批判を続けるかどうかについても、同様に判断をすることになります。
 
 
ですから、信仰について、信仰者のキリスト教的通念的道徳を押し付けてはいけない、ということは言えるでしょう。信仰は、神と人の関係、キリストと人の関係であり、道徳的行動はそれに伴うものであって、副次的なものです。他者に勝るものでも匹敵するものでもありません。人の義は不完全です。
 
神が人に与える義は、正直な祈りに対する信仰義認であって、正しいことをしたという行為義認ではないのです。
 
さらには、丁寧で控えめで、人を責めたりしない、という、これもキリスト教的な通念的道徳となると、殆ど、意味を持たなくなるでしょう。これらのうわべの態度は、むしろ、信仰とは無関係に、人が、単純なイメージで、生み出した先入観に過ぎません。
 
前から言っているように、聖句から、悪口を言ってはいけない、という道徳を語るには注意が必要です。批判のことを悪口というのは、カルト的な言論者が、批判に対して発してくることだからです。そして、信仰者自身が批判されたときに、信仰者も、思いやすく、言いやすいことだからです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
批判には根拠があることを何度も言ってきました。しかし、批判は絶対ではありません。批判だけでなく、人間の言動は、絶対の正しさではありません。批判する必要があって、批判する気があって、批判できる人がすることに過ぎません。
 
人は、自らの言動の影響を、影響がなくなる時と所まで追うことは出来ません。ゆえに、良かれと思って、逆に、傷つけるということが起こり得るわけです。
 
つまり、あらゆる言論は、それを否定し改めさせるほどの優れた意見によって、修正される余地を残しているという弁え、それが、敬虔であります。最終的には、神に任されるべきことであり、人は、そのことを自覚していなくてはいけません。そういう、動きうる心が大事だということです。
 
 
動かなくなった心は、停滞してゆきます。人間の不完全性すなわち罪の性質によって、そういう心は、停滞にとどまらず歪曲したり固着したりする恐れがあります。無条件に、さらには、実際は快楽原則の不快という原始反応のみによって、他者を否定したり、退けたりするようになる恐れさえあります。
 
揺るがない信仰、というものを、勘違いしないでください。救いのありがたさに満たされ、そこに満たされた信仰は、信仰の確信のつもりで、ときに、動く心を失ってしまって、観念のように固定されて、逆に、感謝や讃美のお芝居をさせるようになるからです。
 
揺るがない信仰というのは、忍耐強い信仰のことです。動くゆえに、喜怒哀楽が起きて、悲哀や苦難に忍耐が必要だからです。
 
 
判断し行動することには、人間として、疑問の余地がありません。そうするしかないことです。ゆえにこそ、神を恐れるならば、自分で、善悪の"絶対"基準を作らないことが大事です。
 
絶対でなくても、判断することは出来ますし、行動することも出来ます。その思いや行為や、経過と結果は、祈りにおいて、神に捧げられるべきものなのです。それによって、信仰についても、行為についても、内省力が保たれるでしょう。
 
信仰は、神と人との双方向です。しかし、前から言っていますが、人は、神に語ったつもりでも、直接、その時、神から返事を聞くことは出来ません。祈りは、人から神への唯一の音信であり、神に対する発言であり、人と神の双方向を保つ唯一の行為なのです。
 
その信仰の正直であろうとする姿勢こそが、立派に完全になりたい、という、人間の思いこみの欲望から、また、悪意や憎しみから、人間を解放し救うのであって、それゆえに、私たちは敬虔でありうることを求め、感謝するのです。
 
双方向と言っても、神様やキリストや聖霊が、人と同じように、直接、言葉で教えてくれるわけではありません。神聖の臨在の体験を声高に豪語する向きには注意が必要です。自分が神聖な特別の者になりたがる欲望が働いている恐れがあります。
 
天国に行き、神聖になって、永遠になって、神のように聖なる者になる、などということは、人間には分からないことであります。神に任されることです。ましてや、生きている地上では、神聖に近づくよりも、神聖との違いを弁えるべきです。
 
しかしながら、人間として、信仰者として、正直な祈りによって、心が洗われるような、神妙な気持ちになるような、気が済むような、重荷が取れるような、安らかになるような、そういう体験を持ったことのある人は、少なくないと思います。
 
それが、少なくとも、人生の終わる時まで、同伴者がおられることによる癒しであり、人間の側から分かる祈りの効用です。神秘は神の秘密として知りえなくても、癒しの体験は、信仰を通して、人にも分かることです。
 
それが、ただの気休めでないことは、祈りの信仰によって生きてゆく人が、数えきれないほど、いる、そして、いたことが、証しとなっているからであります。
 
いかなる人間の判断も、絶対ではありません。神の前に、自分が絶対ではないことを表すために、精いっぱい正直に告白する祈りこそが、信仰において最も大切な、悔い改めなのです。悔い改めとは、世俗ではなく、神のほうを向く、すなわち、祈ることです。
 
 
信じ仰ぐ

信じ 仰ぐ
 
 
(2020年02月27日)
(2022年03月04日、再録+加筆)
 
 
 
  私の青春は
 
かみ合わなかった歯車
 
倒れるときの独楽(こま)
 
誰もいない部屋で
まわり続けたレコード
 
最後までからみもせず
ほどけもしなかった
君と 僕の いと
 
気の抜けた苦ビール
 
ふためと見られぬ顔をしていた
酔いつぶれた翌朝の
鏡の中の気分のように
 
電線にかかった凧(たこ)の糸
ちぎれて 汚れて
それと気づかれることもなく
今は春風に揺れている
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
 
 
楽山の、意地悪な自己中リツイートについては、前にも批判しましたが、いくつか、さかのぼって見てみると、もっとありました。ちょこちょこと、人の口を借りて、・・楽山の姑息です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
片柳弘史
@hiroshisj
·2月22日
自分を見失いそうになるほど忙しいとき、苦しいときは、ちょっと無理をしてでも、自分が好きなことをするための時間をつくりましょう。自分が本当にしたいこと、心の底から望んでいることさえ忘れなければ、自分を見失うことはありません。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。
午後11:56 · 2021年2月22日·Twitter Web App
 
忙しくなくても、自分を見失っている楽山です。だから、深く考えもせずに、他者の口を利用します。考えて新しく記事を書くのではなく、コピペして、見境もなく、多量の、多数の記事を書いていることを既に報告しました。まるで発作か衝動のようです。
 
「本当にしたいこと」「心の底から望んでいること」というのには、自分を律すること、考えることが、必須であります。楽山は、欲望しているに過ぎません。空恐ろしい敵意と悪意であります。楽山のような嘘吐きは、神の祝福から、最も遠い人です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
·2月23日
コメディアンに宗教をジョークにするのをやめさせたいって?だったら宗教がこんなに素晴らしいネタの宝庫でいるのをやめたらいいんじゃないかな。トム・バラード(オーストラリアのコメディアン)
午後5:53 · 2021年2月23日·twittbot.net
 
このツイートを選んで引用して、楽山が言いたいことは明らかです。宗教なんてお笑いのネタだと揶揄したいわけです。底意地の悪さが、引用にも出てくる例でしょう。楽山こそ、地獄の火の車なのです。巻き添えを求めて、だまそうとしてきます。
 
宗教の勘違いがもたらす、おかしな話というのは、恐らく、いっぱいあるでしょう。しかし、それは、勘違いによって起こるものであり、楽山のように、本来の宗教の根本を好きなように揶揄していい、悪口を言って否定していい、ということの根拠には決してなりません。
 
楽山は、悲劇が起こるから神はいない、霊が分かるっぽい自分が偉くなれないから神はいない、と言っているに等しいことを、今まで書いてきたのです。言い換えれば、神はいない、自分は偉い、と言っているようなものです。
 
そう思わせたくて、楽山は、自己顕示欲から、丁寧語の詭弁を、数え切れないほど発してきました。楽山は、実に、自分の家には柱も床も塀も焼け焦げているのに、隣りの家が、汚いと言い、貧乏だと言って、笑っているような人です。放っておくと町が焼けてしまいます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
陣内 侘助
@muAscLTeYb2WlXo
·2月23日
画像:
君らの神の正気は
一体どこの誰が
保証してくれるのだね?
 
神の正気は、楽山とは何の関係もないわけです。
つまり、楽山などに全能者の心配は無用です。
 
楽山は自らの正気を疑うべきです。
神も、人も、誰も、保証しないからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」では決して説明できないような、罪と悪と偽善を重ねて、一片の正直も表したことのない楽山です。つまり、人間であり続けることを、ずっと拒み続けています。代わりに、霊が分かるっぽい?という教祖願望に至り、ますます、空想パニックに堕ち続けているのです。
 
楽山は、自分の不出来を棚に上げたまま、他者を批判してきました。それこそ、遅くとも9年前から、実際は、もっと前からでしょう。「反省。とほほ」と書いた後も、変わりはありません。そして、最近、さらに醜い悪口を発作的に並べています。楽山の悪は、偽善を伴って、不治と判断するしかないのです。
 
「st氏からつきまとわれる」「前々から、st氏には、誤読、歪曲、投影、決めつけ、邪推、妄想…などが多すぎることは指摘していますが、残念ながら今回も同じ感想を持ちました。」・・こういう書き方ですが、何も根拠を示せない楽山です。しぶとく、しぶとく、批判を重ねるしかありません。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
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(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
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