避け所3
 
 
私は、神様を、分かっているわけでも、詳しく知っているわけでもありません。しかし、聖書には、神様についてのヒントとエピソードが書かれています。そして、神と人の違いと、キリストの人への洞察と共感が書かれています。
 
人間には、ヒントのようにしか、受け取れないということです。しかし、ヒントでありながら、人を生かす力を持っていると信じています。キリストの共感は、神の愛でありますが、人の心に響く共感だからです。人間は、関係において、共感性を得ることで、生き甲斐を見い出すからです。
 
「旧約聖書(口語訳)詩篇」から「避け所」という言葉を載せてみます。避け所は、悩み苦しむときに、苦痛から逃れるところですが、聖書においては、新たな生き方として与えられます。
 
 
36:7
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
 
46:1
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
 
52:4
欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
52:5
しかし神はとこしえにあなたを砕き、
あなたを捕えて、その天幕から引き離し、
生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
52:6
正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7
「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、
その宝に寄り頼む人を見よ」と。
 
(ネットより)セラ:
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87
 
57:1
神よ、わたしをあわれんでください。
わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは
あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
 
142:3
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
142:4
わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
わたしは言います、「あなたはわが避け所、
生ける者の地でわたしの受くべき分です。
142:6
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。
 
143:9
主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
 
 」
 
キリスト信仰は、祈りの信仰です。祈るとき、物理的にはどっちなのかか分からないけれど、神の存在を想い、神のほうを向きます。つまり、祈りを覚えます。仰ぐように見上げる人もいるだろうし、罪人らしく頭を垂れる人もいるでしょう。
 
神は総てを見ておられ、知っておられます。人は、神の前で、生きています。祈りは、人が、自発的に主体的に述べるところの唯一の、神への音信です。言い換えれば、神のほうを向くとは、神に祈ることです。
 
そして、祈りの時と所は、信仰者個人のための、避け所です。神の言葉と言われ、人の言葉で書いてある聖書を読んで、また、信仰生活の、折に触れて、祈りにおいて、主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分かりません、ということを隠さずに、告白するのです。
 
聖書に書いてある完全なる神の性質は、私たち人間の視野では、理解したとは言えないことです。善悪、正邪、善行と悪行、真偽、偽りの排除、など、様々ですが、不完全な罪人である私たちは、限られた能力によって判断し、できることをするだけだということです。
 
全能ではない不完全な私たちは、身の周りしか、目が届きません。私たち人間は、自分の言動の影響を、最後までたどることなど出来ません。卑近なところでさえ、良いと思ったことが、何の悪気もないことが、悪く取られていたりもする、傷つけることもある、という具合です。
 
にもかかわらず、信仰の行為として、正しいことをするように勧められています。それで、私たちの意志と行為など、神の意志と行為に比べて、非力、ということだけではなく、不完全なのに、正しさを決めつけすぎているということです。
 
総ての、時空を、善悪と真偽を、支配する神に向かって、私たちは、人としての限られた感覚と感情と思慮をもって善悪と言っているわけです。あらゆることにおいて私たちの善悪と真偽の判断は不完全であります。しかし、その判断に基づいて行動しています。
 
したがって、私たち信仰者は、自分で思っている以上に、神に対して罪を犯しています。罪と悪と偽善と孤独など、また、自分自身の怒り、憎しみ、恨み、様々の、心を惑わせ迷わせるものから解放されるのが、避け所であり、祈りです。
 
それは、その時の、絶対孤独からの解放と癒し、ゆえに、時々に寄り添うものであって、常に備わっているものではありません。時々の祈りに答えて与えられるものであって、恒常的に完全であるかのように人が誇るものではありません。
 
私たち信仰者は、神の前で生きているのに、それを自覚することに、しばしば失敗します。しかし、避け所にて、祈りを捧げるとき、そこは、地上の特定の時と場所ではなく、神の前です。神に対しては正直以外通用しません。私たち人間の正しさや善など、神の前に捧げるには恥ずかしすぎるのです。
 
祈りにおいて、神に捧げるべき誠は、ただ、正直以外にはありません。言い換えれば、精いっぱいの正直な告白というだけで、人間の心のうちを拾って聞いてくださるところの神、そして "神の前" なのです。
 
避け所(さけどころ、避け処)
 
 
避け所 祈り

避け所 祈り
 
 
(2020年)(2021年))
(2022年03月16日、再録+)
 
 
 
※ 楽山のリツイートですが、もちろん避け所にはなりません。垣間見えるのは地獄です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ひなこ
@hinacoccoro
·3月8日
おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神がいると思いますか?
私自身にもこの恐怖心は刷り込まれていましたが、
「自分のこの気持ちは決して悪ではない。こんなことをする神が本物であるはずが無い」と結論付けるに至りました。
 
批判すると、嫌がらせをしてくる人がいます。それが楽山です。批判を受け取る器が、自己中のために欠けているのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、身の程を知らぬ高慢から、粘着性の習慣的恐怖を植え付けて言動を制御し、人格破壊を招く者です。
 
「おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神」はいないと思います。ただし、楽山のような病質者を除きます。
 
神の前に人が出来ることは、神に対して精いっぱい正直であることだけです。神は、その正直さを見て信仰の義を与える御方です。
 
しかし、そういう、正直を全く持っていないのが、楽山です。そんなことをする人は、いかなることについても、本物の批判者であるはずがない、という気持ちで、楽山を批判するに至っています。3年余り、批判を続けて、分かったのは、楽山の根性は、荒らしに他ならないということです。
 
 
楽山の引用リツイート
返信先: @darknessZ96969さん
裏切ると阿鼻叫喚堕地獄への道避け難し、って何百何千回と唱えて信者は自分に刷り込んでますからね、相当怖いんだと思います。
午前9:44 · 2021年3月8日
 」
 
刷り込みは、本当に怖いです。それを常套手段として暗示的にやってくるのが、楽山です。学習機能がないので、同じことを繰り返し言ってきます。そうして、相手を消耗させ、疲れさせるのが、楽山のやり方です。そうすることで、刹那的な快楽を得ているようです。まともな人間とは、到底、思えません。
 
楽山のうちには、既に、人格崩壊という地獄があり、楽山は、それを他者に広めようとします。楽山は、そういう魂胆を隠して、正義を気取る変質者であります。他者のツイートや、本などを、好き勝手に、都合のよいところだけ、汁をすするように引用し悪用して責任を逃れようとします。
 
楽山は、リツイートだから、自分で書いてないからと言い逃れるのでしょうか。常識的思考が腐敗し変質し欠損している証拠です。引用者が、引用するツイートを選択する時点で、既に、引用者の思想が表れているのです。当然、引用の責任が、引用者に問われることになります。
 
批判目的でなく、他者の意見を引用すれば、それは、賛同を意味します。ゆえに、自分の意見と同様に、責任が生じます。このことは、本からの引用でも、リツイートでも、同じです。さらに、引用には、賛同した引用の内容とともに、引用元に対する責任も伴います。
 
誰もが、書くときも、引用コピーするときも、その責任を、当然のこととして負いながら引用しているのです。楽山は、発言の責任を負わないために、負えないために、リツイートならば、責任を免れるとでも思っているようです。社会人としての弁えもない無責任自己中なのです。
 
言論には、責任の逃げ道も避け所もないのです。楽山は、本からの引用や、リツイートなら、自分が書いたものじゃないからぁ・・という責任逃れの言い訳が成り立つと思っているのでしょうか。だとしたら、この愚かさによって、楽山は、正常な大人ではないということです。
 
言論の責任とは、間違ったら、それを認めて、はっきりと修正することです。しかし、楽山は、自尊が病的に訂正不能であるため、当たり前の責任感も罪悪感もなく、反省も修正もせず、詭弁と嘘で、ずっと、誤りなどないという偽りの立場を捏造しています。それは、とても醜いことです。
 
 
 
  (過去作)
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるなら
なぜ戦争で多くの人が死ぬのでしょう
私の中の詭弁は答えます
戦争は人が起こしたものだから
人が責任を取らなければならないと
 
戦争を起こすのはごく少ない人々
でも死んでいくのは戦場に駆り出された兵士だけではなく
武器も持たない女や子供や老人も死んでいくのです
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ地震や災害で多くの人々が死んでいくのでしょう
成人になったばかりの若者や
これからという働き盛りの人々や
逃げることのできない体の不自由な人々や
数多くの人々が死んでいくのは何故でしょう
 
私の中の詭弁は答えます
日頃の準備や行ないが悪いからだと
しかし人々は精一杯生きていたのではないでしょうか
一生懸命生きている人々がなぜ死ななければならなかったのでしょう
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ病のために多くの人が苦しみ
苦しんでも甲斐なく死んでいくのでしょう
なぜ体の病のために家族を残して死んでいくのでしょう
なぜ何も知らない病気の子供が死んでいかなければならないのでしょう
 
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるのなら
なぜ心の病のために自らが苦しみ
周りをも苦しめなければならないのでしょう
そしてなぜ人間の一番大事な精神を奪われてしまうのでしょう
なぜ自分のしていることがわからなくなるのでしょう
 
父なる神よ
父なる神よ
あなたがこの世を愛して下さるなら
なぜこれらの不幸が訪れるのでしょう
 
なべて私の中の詭弁は答えます
試練であると
でも試練は生きて悔い改めるためではないのでしょうか
私はただ人の知恵では神の知恵はわからないと答えるほかないのです
 
父なる神よ
私はあなたに触れることの恐れのために
あなたを恐れるのです
全知全能の
父なる神よ
私は全知全能に耐えられないので
あなたを恐れ
いちじくの葉をもって逃げ惑うようにあなたを恐れます
父なる神よ
人の知恵では到底あなたの知恵を理解できないので恐れるのです
天国の何たるかを知らずさまようのです
 
父なる神よ
御心の天になるごとく
地にもなさしめたまわんことを
目に見るように
耳に聞くように
幼子のように裏切らない言葉を与えたまわんことを
一日も早くその日の来たらんことを
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  生まれた責任
 
産んでくれと頼んだ覚えはない
と誰を責める
今を嘆くのは勝手だが
自らの責任において泣け
産んでくれるな
と頼んだ覚えもないのだ
 
 
神が、いつも期待通りに働くなら、神は人の従者ということになります。信仰者は、そのような神?については、真の神とは思いません。神は、肉を守るのではなく、何よりも大切な魂を守る御方です。そのために、肉体は与えられているのです。他でもない、信仰者が、生きるためであります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
二進法的な考え方があります。神は、人にとって、想像を絶する御方ですが、その御方が、完全に矛盾なく、都合よく人を守らないと、やすやすと、神の存在を否定してくるのが無神教カルトです。神に欲望成就を求める態度です。楽山も、その一人です。神への、とても幼稚な怨念が働いています。
 
つまり、この地上で、神が、いちいち矛盾なく期待する通りに救ってくれないと気が済まない、わがままな者たちがいるということです。このような者たちに、神が、前もって保証を与えるでしょうか、否です。この保証を求める我欲の姿勢が、無神教徒を、信仰者から分けているのです。
 
無神論という学術のような名前を付けて、神がいるなら証拠を見せろ、証明しろ、・・などといってきます。証明できたら、信じる必要はないということさえリカ利していないのです。楽山は、さらに、信じ過ぎてはいけないなどという程度問題にして、本音は、自らの、おぞましい教祖願望を成就したいだけです。
 
そのためには手段を選ばないということが、最近、明らかになりました。私のツイッターの「通知」欄に、勝手に書き込んできました。本性は、ネットの荒らしなのです。出禁だと言ったら、仲間か、なりすましか、今度は、違うHNで、まとめて荒らしてきました。楽山は、そういう無法者だということです。
 
楽山の本性がバレバレとなってきました。うすうす感じてはいましたが、楽山は、荒らしだったのです。しかも一人ではなく仲間がいる、あるいは、成りすましかもしれません。今までも、複数のHNを使っていた楽山ですが、もはや、荒らし以外の属性は皆無です。楽山のインテリ気取り、崩壊です。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
久しぶりに、st氏のブログを見たら、
シャローム氏が、楽山の読書感想文を批判するなら、その本を読んでからにすべきではないかと注意し、
st氏が、その必要はないと答えてる場面があった。
st氏は真面目に書いてるといいつつ、こういう手抜きをするからよくない。
 
楽山が読んだと言っている本については、正邪の判断はしません。楽山が邪悪だという批判です。その本を批判する必要はなく、楽山が自己中に曲解していることを批判することは可能です。上は、批判を受け取る気の無い楽山の逃げ口上で、難癖をつけているだけです。それに楽山の読書は言葉面だけです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
読んでないなら、そのことを正直に明示した上で、控えめに感想を述べるのが普通なのに、st氏の場合はそれでも非難糾弾してくるからおかしい。
そういや、いつぞやは、HS教義の記事に、その知識なしに的外れの文句つけてきてたな…。
午後8:45 · 2022年3月13日·Twitter Web App
 
楽山を批判するのに「控えめ」などということはありえません。楽山の読解は、曲解、見当違い、歪曲などであり、さらに、楽山について、やさしく諭す書き方では、到底、表せないような悪意の詭弁があるので、控えめ、手加減、などの書き方は、最初に除外するべきことです。
 
楽山は、冷静と柔和を装う芝居の筆致なので、だまされてはならず、そういう装いを剥がしたところで、楽山の、ふてぶてしい妄想的な決めつけを見抜かなければいけません。「文句」をつけるのではなく、ほぼ全否定で臨むことが必要です。それが、病質者に対する批判のあり方です。
 
楽山を丁寧に書いて諭すことは無意味です。楽山が書けば、必ず批判を貼り付けてゆき、一般の読者に病質者の警戒情報を敷衍するために書いています。普通の批判の応答とは別の目的です。何故なら、病質者の楽山は、原始反応しかなく、全くテーマも批判も理解できないからです。
 
 
 
 2022年03月12日
 ほんと、ワガママな人だなあ。(st氏のツイッター)
  抜粋。
 
それにしても、st氏は、「批判はするが、反論リプは認めないということでしょうか」という一節に繰り返し反応してますね。
どんな言い訳をしようとも、この記事の冒頭に提示してあるように、st氏が自分はブログやツイッターに楽山批判を書くが、楽山は出入り禁止(書き込み禁止)とした事実は変えることはできないのに…。
 
楽山が、前にも言った「反論りプ」について、同じ発言を繰り返すのは、訂正不能の悪意が固定して、まともな反論をしてこないという証拠です。代わりに、傷つけて、相手が黙るのを待っているのです。ゆえに、楽山との直接の遣り取りは、精神衛生上、命とりになりかねないのです。
 
楽山は、悪意と加害以外の動機と作用を持っていないのです。ゆえに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、反社会性のサイコパスだという判断になります。いかなる精神病とも違って、精神病質は加害性が高いということです。その悪意が増強しています。近づかないでください。
 
言い訳の必要も必然もありません。楽山に、自サイトへの書き込みを許すことは、サイコパスの侵入を許すことになります。誰もネット上で廃人になりたくはありません。サイコパスの情報を広めることだけが批判の方法になります。害虫や毒ガスなど危険物を発見したら、その情報を広めるのと同じです。
 
私は年寄りで、持病もあり、体力も見た目も暮らしぶりもボロボロですが、真面目な努力をしているつもりです。楽山のようにだけは成りたくないです。楽山は、永遠に、明確に、出入り禁止です。
 
楽山サイト ← "ここに近寄るな!危険!" ということです。
 
できることなら、ネット全体に、そうしてほしいのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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