白を切る楽山
 
 『超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか』
 リチャード・ワイズマン著、木村博江訳
 2022年04月03日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
「幽霊が見える」のでしょうか。恐ろしく長い記事や連作や、舌足らずのように短い記事を書いてくる楽山です。要領を得たことは一度もなく、主張がハッキリしない分、何でも手を伸ばして書いてきますが、気取りだけの、当たり前や、逆に、妄想などを、性懲りもなく書いてくるのです。
 
説得力は皆無ですが、誘導の詭弁を交えるので、だまされる人がいて、そこに思い上がって、書き続けるのでしょう。何もないのを、何かありげに見せるインチキだけを学んで、肝心の人間の節操や常識や読書力や文章力、そして思想を、まるで学んでいないことが、三年余りで、バレてきました。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の、無反省、無責任、無思慮が、反復再生されて、自己中からのエラーの証拠となります。不透明な闇の空白から、霊能、カルト、短絡、詭弁、誇大妄想、右翼思想、などを書いて見せては読者を混乱に陥れようとする楽山です。
 
 
*概要
本書でとりあげられているテーマは、幽体離脱、超能力、降霊会、心霊体験、占い、マインドコントロールである。著者はこれらの原因は、トリック、錯覚、心理操作などにあるとしつつ、人の認知能力の誤作動、限界について詳しく説明している。
以下に、本書中で特に興味深く思ったことをメモしておきたい。
 
楽山は、「幽体離脱、超能力、降霊会、心霊体験、占い、マインドコントロール」が大好きで、しばしば超常現象を記事のテーマにしてきました。現実的な思考や共感性がないためです。だから、楽山の書く文章は、誘導、印象操作、すり替え、すり込み、などの詭弁だらけになります。
 
例えば、人それぞれ、などの、一般的で曖昧な真実を、個別のことに当てはめて、自己正当化を図るなどという、分かってしまえば、単純で低劣な詭弁です。だまされやすい人もいて、そこに、つけいってくるのが楽山です。自我の弱めの人は、楽山には決して関わってはいけません。
 
 
*見たくないものは見ない
まず一つは、ウォレスに関連した話である。降霊会における心霊現象を信じ込んでいる人が多いことを問題視したS・J・デイヴィーは自ら降霊会を催し、トリックを用いて多くの客たちを欺いたあとで、人はいかに騙されやすく、その認知能力は頼りないものであるかについてレポートをまとめたが、これに対してウォレスはデイヴィーは本物の霊媒師であり、降霊会における不思議な現象は真実であると強く主張したという。
 
成り立たないことを真実に見せかけるのが詭弁です。楽山の性癖と言ってよいと思います。嘘をもっともらしく書いてくるので、受け取って考える段階で、既に、だまされているのです。楽山は、そのようにしか生きられないのでしょう。3年あまり批判しても、このように、また書いてきます。
 
 
フォックス姉妹がイカサマを告白したあとも、フォックス姉妹の起こした心霊現象は真実だと信じ続けた人もいたということからすれば、ウォレスの行動は驚くべきことではないけれども、これは人は見たいものは見ても、見たくないものは見ないというのは本当だと思わせるエピソードではある。
ウォレスは好人物であったというし、渡部昇一も高評価していたが、こういうところはいかがなものかとは思う。
 
楽山の、だまし文句です。人格として欠けているのは、そういうイカサマが楽山の履歴だということです。過去3年間が証明しているのに、なおも、自分は客観的で、警鐘を鳴らしているから、まともな人間だという印象を吹き込んでくる実に病的な白々しさです。罪悪感と羞恥心がないからでしょう。
 
引用されている人物を「見たいものは見ても、見たくないものは見ない」と言っていますが、そのまま、楽山に当てはまります。実に、他者の言うことを受け取らず、自分の言いたいことだけを繰り返す粘着性の詭弁屋です。詭弁が人格になっているようなもので、どこまでも芝居しかないのです。
 
霊が分かるっぽい?という小児期の体験から、一歩も出ていない楽山です。このように、有名人の名前を、好きなように出して、好きなように利用~悪用して、「いかがなものか」などと言ってきました。「いかがなものか」よりも、イカサマなものというのが、楽山という変質者なのです。
 
本当に、霊が分かっている充実した人格なら、反省や学習も出来るはずですが、楽山の "霊が分かるっぽい" 性質は、反省しなくても学習しなくても努力しなくても、平気で、教える姿勢だけを持ち続けられる異常性です。人間としての常識的な筋道を持っていないのです。
 
 
*マインドコントロール
もう一つは、マインドコントロールについてである。著者によれば、その手法には次のようなものがあるという。
段階的要請法…はじめは簡単なお願いをし、その後、段々と頼み事の難度を上げていく。
 
柔和な言葉遣いで、好意的に接して来て、核心に入ると、相手の言い分を理解せず、弁明できず、自説を繰り返すだけの、訂正不能に凝り固まっている楽山です。受けていると、だんだんと詭弁が身に染みて、気づいたときには、恐ろしく異様な疲労~徒労、さらに鈍麻~人格破壊を味わうことになります。
 
 
異論の排除…自分の意見(異論、疑問)を述べる者は排除する。
奇跡の宣伝…リーダーは特別な力を持っていて、奇跡を起こせるとする。
 
楽山は、スルーすると言って「自分の意見(異論、疑問)を述べる者は排除」して無視します。自分が被害者だいう立場しかなく、嘘の憐れみの言葉を言ったりもする吐き気ものです。徹底して他罰的で、本能のように、批判者を加害者と見なします。批判を、無条件に無根拠に攻撃と見なす厚顔です。
 
 
苦痛をともなう儀式…信者は苦痛を受けることで、その苦痛を無意味、無価値とは思いたくないために、信者を続けないではいられなくなる。
 
こういうやり方で、楽山は、だまして、仲間~味方を、被害者を、増やしてきたのでしょうか。カルトに、よく見られることです。ゆえに、楽山には、教祖願望があると判断しています。誰も、楽山に関わらないこと、・・そうすることだけが、楽山の害を広げないことにつながるでしょう。
 
 
自分は根が単純で、騙されやすい方なので、こういうことはよく覚えておきたい。
 
楽山は、根が腐っていて、だますことでしか生き甲斐を感じない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質者です。「覚えておきたい」ではなく、ここも、刷り込んで来ているのです。「騙されやすい方」は、いかにも、罪悪感のないペテン師らしい100%の嘘です。
 
楽山は、既に、加害者です。だますほうです。なのに、白々しく嘘で自分を高めてくる体質的異常者です。こういうところに、楽山の、底知れない悪意が表れています。百害あって一利なしです。他者の人格を破壊し、自らの人格が崩壊しているサイコパスなのです。
 
サイコパスは、以前の精神病質という直訳よりも、反社会性パーソナリティ障害と言われることが多いようです。人生の早期に、良心が育たないまま、反省や共感や罪悪感につながる高等感情が欠損して、ゆえに、自分を責めることが出来ず、他者を下に見ることでしか生き甲斐を感じられない人格です。
 
協調性や共感性を持たず、代わりに、世辞の褒め言葉と嘘と詭弁を覚えて、楽山の場合、わざとらしい台詞を言うのに、ためらいも、恥ずかしさも感じないのです。平気で嘘を吐きます。だまされないでください。人間の健康と精神衛生を荒らしてくる病魔です。
 
楽山は、高等感情鈍麻と、洞察力の欠如があり、乾燥した社会通念の枠内の、誰もが一応受け容れそうな平板な社会通念を利用してきます。その好印象から、偏見や妄想に誘導してきます。楽山は、心の温もりと潤いがなく、優しさと悲しみを知りません。それらをいつも下手くそに捏造しているのです。
 
最初の数か月で、私が、とんでもない奴だと感じて、その後、批判すればするほど、思った通りの病質であることを表してきた楽山です。こういう良心欠損人格がいるのだと、人格障害なるものを初めて認識するに至って、その厚顔無恥を、3年余り見ながら、現在に至っています。
 
 
人類の敵は国家でも組織でもありません。人類の敵はサイコパスです。独裁者~集団が世界をかき乱すとき、平気で大量殺戮をして、凄んだり、笑ったりするとき、そこには、中心となるサイコパスがいます。今も昔も、遠くでも近くでも、人の生命や人権や尊厳を破壊してきます。
 
 
根こそぎペテン

根こそぎペテン
 
(2022年04月05日)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  独り芝居
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
 
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
出てみれば劇場もない
芝居は成り立ちようがない
主役は誰なのだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘で飾ることと、安い詭弁だけを覚えて、天下でも取ったような殿様気取りが、中立を装う評論家気取りが、今日も、誰のためにもならない文章を書いてきます。それは、そのまま、生きることが「難しい」「嘘ばかり」の楽山を表してゆきます。一生涯、そこから抜け出すことはないのでしょうか。
 
 
 
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