楽山を斬る聖句2
 
 「第十四講 ビルダデ再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年03月27日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
内村鑑三の本を引用して、あたかも論理立てをしているようですが、前から書いてきたように、自己愛性パーソナリティ障害の楽山には、論理も、理路も、情緒も、自己愛と自己正当化の方向に偏ってゆきます。また、論理どころか、できない無理を通そうという楽山の悪あがきです。
 
 
「第十四講 ビルダデ再び語る」の要点を抜き出しつつメモ。
ビルダデは「頭脳明晰」であり、その意見は「論理は整然」としていて、「さすがのヨブも彼の攻撃に逢いては大いにたじろい」ている。
 
ビルダデは、ヨブの三人の友人のうちの一人です。楽山が、上のように言うことには、何の根拠もありません。ここに書かれたことは、個人的な、楽山か著者の褒め言葉、という意味しかありません。楽山にとって、ビルダデは、都合がよいのでしょう。利用できるものはなんでも利用する楽山です。
 
楽山は聖書を曲解することしかできない人です。ヨブも、ビルダデも、ヨブ記も、聖書も、楽山は、いちゃもんを言うネタとして語ります。本音は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの無神教カルト信者~教祖願望という荒らしに過ぎません。
 
 
ビルダデのように論理によってのみ判断する人は、神を弁護者としつつ神に対峙し、神を恨みつつ神に仲保者であることを期待し、「神を敵としまた味方とし」、「神を罵りまた神に憐れみを乞う」ようなヨブは、「理性と論理においては迷妄の極」ということになる。
 
ビルダデをはじめとするヨブの三人の友人は、神の偉大さを、教条的に大仰に述べているようです。それで、災難に見舞われているヨブの悲しみに答えているとは思えないという感想です。「論理によってのみ判断する」ことは、人間には出来ません。大切なのは、共感を呼び起こす言葉です。
 
ヨブは反論しますが、そこで語られているのは、自己正当化であることに変わりはないのです。楽山が、賛同して、ビルダデを、「頭脳明晰」「論理は整然」と書いているのは、ただ、楽山の反キリストという目的に都合がよいからだけなのです。
 
「さすがのヨブ」を楽山は、全く理解していないことが、今までのヨブ記の記事で明らかになっています。楽山は、机上の幼稚な辻褄合わせの理屈しかありませんから、心を受け取れず、流れを把握できず、ただ、反キリストとして、神を否定したくて、クレームを言っているだけです。
 
それを指摘しても、なお、弁明せずに、主張だけを書いてくるのは、野良犬が、腹を空かして、獲物を漁って、吠えているのと同じです。犬には犬なりに条件反射的な学習機能がありますが、楽山には、人として学習することがありません。悪意だけの、いちゃもん屋、それが、楽山であります。
 
 
「ビルダデの悪人必滅論はヨブを指した者であることはいうまでもない」。
ヨブの苦しみは「産を失い、妻子を失い、難病に悩む類のこと」ではない。
「神は故なくして彼を撃った。神は彼を苦しめている」「彼の最も信頼する者が彼の敵となった。ために彼はこの者を離れんとしている。しかしながら失せんとしている信仰を思いきって棄ててしまうに堪えない」「失せんとするものを保たんとし、離れんとする者を抑えんとす、ここにヨブの特殊の苦しみがある」。
 
前と同じように、ヨブを、正しいのに神にいじめられている悲劇の主人公として書きたいのでしょう。反キリストらしい文脈です。こういうことを書く人で、人の話を受け取らず、共通の場に立とうともしない楽山ですから、誰も近づかないように、批判記事を書いています。
 
「 」でくくっているのは、著者の引用なのでしょうか。つまり、楽山は、自分の考えを書きません。書けないのです。何も、頭にも心にも、説明できるような、しっかりした主張がないのです。楽山は、ヨブが最後には悔い改めたことも知らないようです。できない子が、できたように見せかけるのと同じです。
 
楽山は、完成してると思い込んでいる自己、即ち、自己愛と自己中から、都合のよい言葉に賛同して、学者気取りで、神を否定する方向に進めてゆこうとする誘導だけなのです。楽山の詭弁に、決して乗ってはいけません。そういう書き方で、ますます、醜い本性をさらしてゆく楽山です。
 
楽山の言については、引用でも、楽山が書いたものでも、理路を追おうなどとすると、はてしなく病的な疲労におとしめられます。それを承知の上で、楽山は書いてくるのです。それは、もはや、悪意以外ではないのです。まともでない者が、まともを装う見栄張りの偽者の姿なのです。
 
文章を読んで、一般的には、よく考えることは必要です。しかし、魂胆があり、作為と悪意があり、理路の混乱によって疲れるだけの、楽山だけは、決して相手にしてはいけません。人生の大事な時間を、楽山というドブに捨てることになります。
 
この楽山の記事において、楽山は、著者に、世辞のような褒め言葉を書いて、また、賛同していますが、楽山自身は、何も独自の解釈の理路を組み立てていないことに気づいてください。それが、楽山です。そして、楽山の記事全体を通した特徴です。
 
伝道者である内村鑑三の言葉を、エサに食らいつく野良犬のように、悪用して、貪る、それ以上ではないのです。救いがたい自己顕示欲の、ケダモノのような荒い息と、よだれの臭さだけが、楽山が公共に排泄しているものです。害毒であり、迷惑なのです。
 
 
ビルダデの放った言葉によって、ヨブの「苦悩は弥増るのみである」。これによって十九章において、ヨブは「友に憐れみを乞うに至」る。
 
 (ヨブ記、口語訳)
19:1-2
そこでヨブは答えて言った、「あなたがたはいつまでわたしを悩まし、言葉をもってわたしを打ち砕くのか。
19:3
あなたがたはすでに十度もわたしをはずかしめ、わたしを悪くあしらってもなお恥じないのか。
19:4
たといわたしが、まことにあやまったとしても、そのあやまちは、わたし自身にとどまる。
19:5-6
もしあなたがたが、まことにわたしに向かって高ぶり、わたしの恥を論じるならば、『神がわたしをしえたげ、その網でわたしを囲まれたのだ』と知るべきだ。
 (ヨブ19:1-6、旧約聖書)
 
ヨブの心を察して思いやるのではなく、神の正義の全能の教条によって、ヨブを責めているのが、ビルダデです。どう読んだら「友に憐れみを乞う」という解釈になるのでしょう。ヨブは、自らの惨状に耐えきれず、批判してくる友を責めているのです。
 
それを指摘して、苦難を神のせいにして、自己正当化に、ますます、固まってゆくのが、ヨブです。ある意味、楽山に似ていますが、私は、楽山の友ではなく、楽山は憐れみを乞うておらず、さらに、楽山は、正直に訴えているのでもなく、相変わらず、嘘と詭弁で、知ったかぶりの言い逃れをしています。
 
ビルダデの教条は、楽山に似ています。教条という机上の戒めと理屈であるところが似ています。楽山は、自分と自分の体験を考えることが出来ず、ナルシストとして、他者の言葉を利用~悪用します。ヨブの自己正当化も、楽山に似ています。自己中心の状態は、気づきのない状態です。
 
楽山は、上から眺めるように、神を否定する長い文脈の一部を書いています。しかし、楽山は、ヨブ記に書かれている背教と教条的信仰の特徴の、ヨブ記の登場人物の、ヨブと友人の両方に類似点があるということです。しかし、そこに、真摯さは微塵もないのが、全く異質な楽山です。
 
つまり、ヨブ記は、宗教に関わる人間が犯す過ちの典型を表し、図らずも、根拠のない反キリストと幼稚な教条主義の楽山に当てはまることを描いているという結果になっているのです。楽山は、自分の過ちを見ているようなものです。楽山は、不感不応の病質のために、そのことにさえ気づかないのです。
 
 
内村鑑三はヨブをよく理解し思いやっているが、それだけ三友に対して手厳しいことになっている。内村自身、ヨブと同じく深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう。
 
災いにおいて、自分の非を認めず、他者のせいにして、聖句を生かすことができず、自己愛に固まって、反省できない偽善者の楽山には、とりわけ、必然として、よくあることです。楽山は、聖句が自分に当てはまることに、まるで気づかないのです。ひどくなっています。
 
「深く悩み苦しんだ経験がある故なのだろう」などと、わざとらしく共感の言葉だけ書いて、上から、内村鑑三と、ヨブと、ヨブ記を読んで書いているつもりで、他人事として評価している楽山が、とても、わざとらしく、見苦しく、滑稽です。
 
 
気づかない無節操

気づかない無節操
 
 
(2021年)
(2022年04月11日、再録+加筆)
 
 
 
  一途な方法
 
例えば物事(ものごと)と事物(じぶつ)の違いを
一途(いちず)に大真面目に
一生懸命に考えて
老化も老後も気づかぬうちに
ある日 事切(ことき)れている
数ヶ月後にミイラか白骨として発見され
こんな人 いましたっけ ?・・・
 
財産も遺言もなく身寄りも墓もなく
それでも直(じき)に
きれいさっぱり片付けられ いなくなる
 
存在と不在が仲好(なかよ)しに過ぎて
ほとんど同質のように
誰にも仕事とも研究とも呼んでもらえず
一笑に付されるか無視されることに
一所も一生も費やして
見えない炎のうちに燃え尽きる
 
例えば空気を写実する方法
例えば水気を彫刻する方法
例えば悲しみを悲しむ方法
 
方法と途方に明け暮れて
追いかけて追いかけて
動くことなく動くことなく
こよなく矛盾をいとおしみ
迷いなく身を投じていられたら
もはや生も死もなく本当に
哀(かな)しみを哀しめるかもしれない
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
わざわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
さいわいなるかな弱きものよ
たとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日分のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省、謝罪は大事なことだと分かっていないことが、この3年余り、明らかになっています。つまり、訂正不能の我執であり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と判断しています。楽山が書いてくる記事に、無関係な内容を除いて、反キリストの楽山に批判を当ててゆきます。
 
 
 
 いつも誰かをディスっていないと気が済まない
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、自分が十代の頃、友達ん家に行ったら祭壇があってギョッとさせられたことがある。いっしょに行った奴も同様。新興宗教の祭壇は、世間的にはそういうもん。
また小学生に新興宗教の入信の儀式をさせるというのも、ギョッとさせられる。
無宗教の家で育った自分は、そんな感覚です。
 
楽山は、自分の生き様が、カルト以上に「ギョッと」させていることに気づきません。「そういうもん」「そんな感覚」と言いながら、自分が発信することの気持ち悪さには、自分の自己中を見せびらかして悦に入る醜態には、まるで気づかないのです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
それにしても信者を幸せにしたいと思うなら、HSには責任はないと言い張るのではなく、素直に反省すべき点があると認めて、改善が必要だと声を上げたらいいのに何で言えないのかな。
あと、塩氏はこれが一般なHS2世だというけど、世間常識ではこれは異常とされると思います。
 
「反省」を、上のコメント2で「難しいんだよなあ」「人間の性」と言って、全くしてこなかったのが、楽山です。精神が分裂しているようです。楽山は「何で言えないのかな」、楽山は「世間常識ではこれは異常とされる」ことばかりしてきました。人の振り見て、我が振り・・直さない楽山です。
 
その場その場の思いつきで調子の良いことを言っておれば、矛盾するのは当たり前。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
さっき別垢で確認したら、どうやら塩氏は、昨夜のうちに削除修正してたようだ。
削除修正してはいけないとは言わないけど、塩氏のやり方は相変わらずスマートじゃないなあ。
 
キリスト教について、否定を言い、別の時には、肯定を言い、断定していないから、責任問題は生じない・・と言っていた無責任が楽山です。それこそ、楽山が何か言っても、訂正の説明もなく、また変わるということは、信頼度ゼロだということです。
 
「ギョ」「何で言えないのかな」「スマートじゃないなあ」・・楽山の甘口(あまくち)に騙されないでください。楽山には、責任感、罪悪感、良心、まごころ、一切、ありません。楽山は、日々、楽しく、人を欺いて生きている小蝿のような存在です。
 
 
 
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