楽山の薄い感想文
 
 『国民の修身』渡部昇一監修
 2022年04月23日 楽山日記(LD)
 
 
この文章を感想文と言うのでしょうか。好みを書いているだけで、殆ど感想の中身を書いていません。楽山が、いかに作文が苦手であるかが表れています。書かなきゃいけないノルマでもあるのでしょうか。まるで、いやいやながら書いたかのようです。
 
 
*全体の印象
本書は、戦前の修身教科書(一~三年生)をまとめたものである。
全体の印象としては、挿絵や仮名遣いに味わいがあって心地よいものになっている。旧仮名遣いの文章を読んでいると、いかにも書物を読んでいるという気分になる。
 
「挿絵や仮名遣いに味わいがあって心地よい」「いかにも書物を読んでいるという気分」・・心地や気分だけで感想文と言えるでしょうか。書くのが面倒くさい小学生が、書けと言われて書いた作文のようです。なぜ、公開するのでしょう。
 
 
内容については、自分は保守的な方なので、それほどの違和感はなかった。ただ皇室に関する記述については、戦後生まれの自分には分からないところが多かった。
 
「違和感はなかった」「分からないこところが多かった」・・この曖昧さ、具体性の無さは、何なのでしょう。よほど書きたくなかったとしか思えません。好きで本を読み、ゆえに、書いた感想文とは、到底思えません。楽山は、いったい、何のために本を読んだのでしょう。
 
 
*三箇所
次は例のごとく、本書中、特に印象に残った箇所をいくつか挙げておきたい。
まず一つは、雄鶏と雄鶏が喧嘩をし、勝った方が屋根に上がり、勝どきをあげて威張っていたら、飛んできた大鷲につかまったという話である。
 
思い上がりを戒める道徳でしょうか。上には上があるという教えでしょうか。「という話である」で終わって、意見も説明もないのを、作文とか感想文とか言えるでしょうか。楽山のブログは、愚痴なのでしょうか。その割に、宗教や思想を、好きなように揶揄してきました。
 
 
もう一つは、本居宣長の蔵書は膨大なものであったが、よく整理していたので、夜、明かりをつけなくても目当ての書物を取り出せたという話である。
 
整理整頓が大事という話でしょうか。また「という話」で終わって、楽山は、何の違和感もいだかないのでしょうか。下書きでしょうか。なぜ見せるのでしょうか。小学生の作文としても、いい点はもらえないでしょう。そういう思いか思い出か履歴でも書いて、同情を誘っているのでしょうか。
 
 
最後は、貝原益軒は大切にしていた牡丹を折られたときに、「じぶんがぼたんをうゑたのはたのしむためで、おこるためではない。」として、粗相をした者を許したという話である。
こういう話は説教臭くて嫌いだという人もいるだろうけれども、自分にはどれれも面白かった。
 
イタズラを許せる人を、褒めたいのでしょうか。これが、道徳でしょうか。昔の道徳を書いて、掘り下げるわけでもなく、批判するでもなく、時代の倫理観を考察するわけでもなく、また、どうして、これが「国民の修身」なのか、全く説明も、批判も、していません。楽山の終身刑でしょうか。
 
 
このように、楽山は、読書感想文一つ、まともに書けないのです。苦手なら、書かなければよいのです。何らかの見栄なのでしょうか。義務か命令でもあるのでしょうか。このような出来の悪い文章、公開すれば、今までのことから、当然、低い評価になること、予想しなかったのでしょうか。
 
このような国語力で、楽山は、悲劇が起こるから神はいない・・などという幼稚さで、キリスト教を批判し否定してきたのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無学習が、いかに有害であるかが表れています。
 
ネトウヨであり、反キリストであり、偽牧師シャロームshalom に同調し、あるいは、成りすましも疑われている楽山であります。書いてきたものは、余談とも言えないような偏見に過ぎず、それを批判しても、スルーすると言って無視し、訂正不能の自己満悦だけの無知と無恥が表れてくるだけでした。
 
人の言うことを、平気で無視して、嫌がらせのような文章しか書けないでいて、評論家気取り、読書家気取り、インテリ気取りで、しかも、根拠としては、ホラーアニメ趣味レベルの知識と感性しかありません。罪悪感、羞恥心、悔いて反省する、・・などの高等感情がありません。
 
楽山の書くものは、論理的に見せかけた文章でしかありません。初歩的なAとかBとかの命題や「~ならば~」という論理に見せかけながら、先入観と偏見だけが鼻に突くような決めつけで出来た文章を、うんざりするほど多数、そして、執拗に、評論にも批判にもならない刷り込みや攻撃として書いてきました。
 
楽山は、否定を書き肯定を書いて断定していないから責任問題は生じない、などと言って、詭弁を平気で書く人です。否定すれば否定の責任が、肯定すれば肯定の責任が、大人には生じることを、まるで理解しません。つまり、楽山は、大人に成り損なった未熟な人です。宗教も学問も語る資格はないのです。
 
楽山は、排気管だけのオートバイです。乗って、転がして、転倒して、大声を出して、モーターサイクリストを気取っているような、図体だけ大人の、孤独なゲームボーイなのでしょう。あるいは、受けねらいの世辞や嘘や詭弁を弄して、評論家を気取るペーパー王子なのです。
 
 
虚空と孤独

虚空と孤独
 
 
(2022年04月26日)
 
 
 
※ 信仰の中心(再録)
 
 
何度も書いてきたことですが、例えば、処女懐妊、数々の奇跡、肉体の復活などは、二千年前、起こったにせよ、起こらなかったにせよ、キリスト信仰の中心ではありません。したがって、本当にあったというのか、という質問には、分からないと答えていいと思います。
 
何故なら、起こるにせよ、起こらないにせよ、その奇跡は、私たち人間には、理解できないからです。さらに、起こったと信じることで、救いにつながるとも思えないからです。
 
そういう奇跡は、神に任されることです。人が神の意志と行為を決めつけてはいけません。分からないことは、正直に、分からないと言うのは、信仰の条件であります。
 
物や肉体の奇跡について、起こると確信することは、この地上での視点が、超常に向いてしまい、日常を疎かにする危険があります。さらには、誰も知らないが起こるんだよ、と信じることが、誤った信仰者の優越意識にもつながりかねないのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者に比べて、優位に立つのではありません。同じ罪人であることは、信仰があってもなくても、変わりはないのです。ゆえに、福音伝道は続くのであって、そこに、他者は劣る者という視線を持つことは、神に背く傲慢だと思います。
 
信仰の中心は、私たちにも理解可能な、キリストの、人間に対する洞察と共感であります。ゆえに、二千年前に、キリストは、教条主義や戒律主義の偽善を最悪として批判したのです。そこを外してはいけないと思います。
 
私たちは、聖書から、人間としての心に響いて、受け取れることを、受け取るべきであり、それ以外は、""分からない保留の箱" に入れておくべきであります。
 
さらに、キリスト信仰は成長するものですから、訂正不能に思い込んだり信じ込んだりすることは、厳に、戒めるべきです。信仰は、繰り返し念じて、こびりつかせて、肯定の癖をつけるような安物ではないのです。
 
信仰の中心は、敬虔と経験によって深めてゆく人間としての共感です。原初の信仰は大切ですが、訂正不能にしてしまったら、言葉だけの教条に堕してゆくでしょう。
 
一挙に、神の真理を、さらに、信仰の奥義さえも、人が得ることはないということです。自閉的な人も、社交的な人も、人間関係の中で、それなりに学習し成長することが大切なのです。ゆえに、私事ですが、自閉的で疑い深い私も、キリスト者になったのであります。
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間の持つ心の、"土の器" と書いてあるものに、信仰は与えられ、成長します。譬えだと思います。人が、神によって、土から造られたことによるのでしょうか。
 
ところが、この土の器を、何やら、超常の魔法の器のように信じ込んで、信仰は心のどこにもないと言っていた者があります。自分を特別な恵みを得たと特別視して自慢するためです。
 
その者シャロームshalom は、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、などとも言っていました。悔い改めていないことを正当化するためです。しかし、彼の言を言い換えると、彼には、神は悔い改めを与えていない、導いてもないということです。
 
つまり、これは、人を見下すこと甚だしいところの、真っ赤な偽者の例です。キリスト教に疑問をいだくのは自由ですが、このような大馬鹿者にだけはならないでください。
 
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 
 (ローマ2:4-5、新約聖書)
 
神の、慈愛、忍耐、寛容、と書いてあり、人間にも理解できることです。
 
このシャロームの言を、当たり前のように、肯定していたのが、楽山であります。このことで、楽山の語る宗教・思想の言は、信頼度ゼロであることが明らかになりました。つまり、神の怒りを自分の身に積んでいる楽山とシャロームであります。
 
シャロームは、神の導きということを、まるで、魔法がかかって操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。笑止であります。
 
悔い改めは、神の前に、罪を正直に告白して赦しを乞うことです。つまり、祈るとき、世俗から、神へ、方向転換していることになります。神様のほうを向く・・という言い方があります。
 
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
4:8-9
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 (2コリント4:7-10、新約聖書)
 
信仰による勇気を語っていることは明らかです。土の器は、自慢するためではないし、魔法でもないのです。カルトや妄想家は、教条を信じ込んでいて、直感的な理解が、劣っているか、ない場合が多いです。
 
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした
その目は絶えず中空にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
正しさを実践しようとすれば、滑り、転がり落ちて、反省せずに、人のせいにし、嘘を吐いて、都合の悪いことは、アドラー教や、「人それぞれ」や「自分を貫く」などという言葉の曲解で、無反省で無責任に自己正当化して、結局、ゴミの山に棲んでいる楽山です。
 
楽山は、責任を負わず、反省をしないので、学習せず、成長せず、その結果、精神が不細工になっています。しかも、それを自覚しません。不細工のまま、よく見せようとして、妄想と作為の嘘と詭弁を言いふらしています。自分について反省が出来ないのに、他者を批判して何になるのでしょう。
 
楽山とコメントなどの遣り取りはしないほうがよいと思います。楽山は、自他の理路を理解していないので、世辞以外は、甚だしく理路が乱れます。そして、幼稚な詭弁や論理遊びで、惑わそうとします。そこで、言いようのない疲労を患い、抗弁する気もなくなる・・というのが楽山の狙いです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
あと、アンチとも普通に話せる信者が多ければ、マイコンはなさそうに思えるけど、
春氏みたいに、退会者は落伍者とし、アンチとみれば全否定してくる信者ばかり目立っている現状では、
「HSはマイコンされてる信者が多く、異論は許さない閉鎖的な集団だ」というイメージを持たないことは無理だね。
午後10:26 · 2022年4月20日·Twitter Web App
 
楽山は、訂正不能の自己愛によって支配されています。楽山という詭弁屋は、誰とも普通に話せません。楽山は、不通なのです。批判されると、スルーすると言って、無視するだけです。楽山だけは、誰からも除外されるべき人です。楽山は、異論を受け取らない自閉的な教祖願望の個人カルトです。
 
 
 ※
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスが二人。スケールの違いはあるが、露者風珍と楽山。何千人何万人を殺しているのが風珍。何人も何十人もだましているのが楽山。風珍は命の裁きを受けるでしょう。楽山は精神崩落の裁きを既に受けつつあるのです。
 
 
私事ですが、批判している私は、ちゃんとしているかというと、それこそ真逆で、失敗ばかりしてきた固陋(ころう)の老人です。しかし、私は、失敗も、能力不足も、嫌というほどには自覚しています。それゆえに、その反省からの自分発信の記事を書くこともあります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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