嘘と偽物づくりの楽山
 
 『精霊の息吹を受けて 溝部司教説教集』溝部脩著
 2022年05月04日 楽山日記(LD)
 
 
知ってるつもりの楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、文脈を追うことも、心を受け取ることも出来ない人です。自分を、学者や評論家並みに分かっている人と見せるためだけに、記事を書き、かつ、自らの不全の文脈で、欺こうとする者であります。
 
既に、3年あまり批判してきましたが、楽山は、いちゃもんを繰り返すだけで、何も、真っ当な返しは出来なかったのです。この前は、一度に、衝動的とも思えるような多量の記事を書いてきましたが、こんなに書けると自慢したいか、断片の寄せ集めで、混乱させようとするだけでした。
 
 
*二冊目
『聖霊の息吹を受けて』読了。司教の説教集を読んだのは、これで二冊目だけども、今回もとても勉強になった。感謝。
以下に、特に心に残った部分についてメモしておきたい。
*キリシタン
まず一つはキリシタンの歴史である。本書ではイエズス会とフランシスコ会の考え方の違いが説明されており、さらにそれが殉教にどう影響したかも触れられている。
自分のような外部の人間には、キリシタンはキリシタンであって、その中の考え方の違いは分かりにくいのだが、本書の説明を読んでおぼろげながらも理解できたように思う。
 
「おぼろげな」理解で、キリスト教と信仰を否定し、あざ笑ってきたのが、楽山です。自己愛は、サイコパスの、もう一つの特徴でもあります。楽山の文章においては、切実さは皆無であり、評論家口調がわざとらしいだけです。
 
楽山が「おぼろげながら」と書いているのは、以前から、楽山の、人間性を失った心と頭のことであり、理解につながるヒントさえも受け取っていないことを表します。つまり「理解できたように思う」が大嘘であることだけが表れています。
 
楽山は、心が無く、理路も拙劣であるため、感想を書いても、感じたことの中身を表すことが出来ません。とても、軽薄な褒め言葉とともに、「理解できた」などというのは、吐き気ものです。罪悪感のないサイコパスならではの所業であります。
 
 
*尊さ
もう一つは、「助祭叙階式説教」である。ここでは助祭としての心構えが説かれているのだが、これを読むと自分が叙階されるわけでもないのに、なぜか背筋を伸ばさないではいられない心持ちがした。また助祭を心から尊敬したくもなる。このような決意をしている助祭は尊く、まさしく聖職者だと。
 
「助祭叙階式説教」などと書いて難しいことも理解できる自分を出していますが、気持の悪いべた褒めです。「背筋を伸ばさないではいられない心持ち」・・楽山の背筋は、伸びたことは一度もないと思います。楽山の精神は、自己愛によって、捻じれ曲がって、収拾がつきません。
 
冗談半分に揶揄してくるだけで、嘘と世辞によって繕っても、もはや、本性が駄々漏れして、白々しいだけの見苦しさとなっています。どこまでも自我礼賛を続けて、結果は、逆に自己崩壊を招いている楽山に、誰も関わらないように願って止みません。楽山には、保身以外、まるで真剣味がありません。
 
楽山の、既に今までに、あらわとなってきた世辞と嘘と詭弁によって、読書しても何も理解できていないのが表れ続けるだけなのです。「まさしく聖職者」などと、聖職者も信仰者も、楽山が評価して云々する資格など、どこにも、ないのです。病質のために、自分の醜さに気づかないのです。
 
 
*祈り
三つ目は祈りについてである。キリスト教には、よく祈るイメージがあるが、こういう文章を読むと、その理由が分かる気がする。
自分の一番大切なものを、人のために、苦しんでいる人のために捧げようとする、この大きな愛、これが神様の愛なのです。その愛が分からなければ、その愛に到達しなければ、救いはないのです。
(『精霊の息吹を受けて 溝部司教説教集』溝部脩著、サンパウロ、2005年、p.232)
 」
 
理由が分かるなら、正直に祈るはずで、ゆえに、嘘や詭弁を止めるはずですが、それが出来ないことによって、この言も嘘だと分かる、・・・ということが、楽山にだけは、分からないようです。どこまでも、醜い自分を表しては、人間として、さらに、どん底へ格落ちしてゆく楽山です。
 
 
私たちの中に働き、私たちを力づけ、活気づけてくれる、神の霊があって初めて人のために生きる愛ということに目覚めてきます。
(同上、p.232)
 」
 
楽山の中に働いて力づけているなら、活気づいて、自らを改めるはずです。神の霊が働いているなら、愛に目覚めてくるはずです。これこそが、楽山に、一貫して、全く見られないものです。代わりに、良心とは逆方向の嘘を吐く楽山は、人間としての存在が、なくなりつつあるのかもしれません。
 
 
「イエス・キリストの恵み」、それは愛することを学ぶ、「愛する生き方をする」、それができるために、聖霊の助けを求める、これです。
(同上、p.233)
 」
 
美辞麗句を並べておけばええじゃろ・・という楽山の根性で、今までと同じように他者の意見を並べることが、逆に、いかにも醜く、わざとらしく、腐った精神の、末路の惨状を表しています。「これです」を引用して、分かりましたと、そっぽを向いて笑っている楽山のイメージです。
 
 
私の心の傷を担い、取り去ってくださるのは、主だけです。罪とは自分の力でそれを何とかしようとする、これが不信仰であり、罪なのです。
(同上、p.168)
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害によって、罪悪感が麻痺しているので、罪に気づかず、原始感情の笑いと怒りの低い泥流に身をゆだねて、自分の力で何とかなる人生を選び、かつ、実際は、全ての局面で失敗してきたであろうことが、推察されます。自我を張れば張るほど、どんどん醜さが増してゆきます。
 
 
キリストの生涯と十字架の意味を知り、信じるには聖霊の助けがあり、自分で自分を救おう、救えるというのは思い上がりだということなのだろうか。こういう考え方なら、よく祈る理由も合点が行くというものである。
 
「自分で自分を救おう、救えるというのは思い上がり」・・こういう短い文章だけで「祈る理由も合点が行く」と言うところに、簡単に分かったことにする軽薄さや浅ましさが表れることを学んでこなかったのでしょう。言葉を飾って言い得たと慢心するに至っては、人格崩壊の最悪のモデルなのです。
 
 
一方、自分はどうかといえば、「自分を救えるのは自分だけである」「心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らん」という考え方が心に染み付いていたせいか他力信仰は間違いだと思っていたのだが、どうも最近は自分には宗教の初歩的な戒律さえも全然守れないことが分かってきたせいか、上のような考えの方に理あると感ずるようになってきている。我ながら変われば変わるものだと思う。
 
言葉だけ繕っても、その言葉遣いと文脈に、何も変わっていないことは表れてきます。人間の言葉も追求すれば深いということを、楽山は知らないのです。だから、平気で、慢心して、自分が改まったかのような嘘を吐くことこそが、言葉の発達不全であり、「理ある」ではなく、無理だとバレるのです。
 
 
今までの成り行きを、ことごとく無視して、平気で、わざとらしい文章を書いてくるのが、罪悪感のないサイコパスの特徴でしょう。言葉を繕っても、嘘で飾っても、無駄なのです。恥知らずに書いても、書けば書くほど、表れてくるのは、凄まじい厚顔無恥の極みでしかありません。
 
 
嘘吐きの成れの果て

嘘吐きの成れの果て
 
 
(2022年05月06日)
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  衰弱
 
ともすれば若い信仰は
すべての罪を自殺者に帰して
先へ先へと進んでしまいそうだった
そして微笑と嚥下を繰り返し
貧しい信仰を秤にのせては
終末のように硬直して見せる癖があった
 
 人ハ信仰ニヨッテ救ワレ
 神ノ義ヲ得ルコトガデキル
 神ニヨル束縛ハスベテカラノ自由ダ
 信仰ガアレバドンナ苦シミニモ耐エラレル
 加害者デアルコトノ苦シミニモ耐エラレルノカ
 
さて年月が流れ
求めたものが得られぬ代わりに
無意味な駄弁や
股の間の黙考が果てしなく続いた
 
 人ハ生キルコトガ許サレテイル
 人ハ生キルコトガ望マレテイル
 人ハドノヨウニシテ神ノ愛ヲ知ルノダロウ
 私ハ伝エルベキ
 何ヲ受ケタノカ
 
ともすれば
もう若くない
弱い信仰はときに
すべての罪を生けるものに帰して
闇へ闇へと
退いてしまいたくなることがあった
そして羞恥と嘔吐を繰り返し
自分の信仰を秤にのせては
いともたやすく転げ落ちてしまう習いであった
 
 神ノ立場デ物ヲ言ウナ
 
 
 
  祈り(抜粋)
 
父なる神よ
私はここにいます
あなたに恥ずかしく
隠れようとして隠せず
あきらめようとしても未だ救いを求めているのです
一体どこで
いつ私は裁かれるでしょう
いつ私は召されるでしょう
恐れる心を隠せないのです
隠す知恵もなく
隠してもあなたは見通されるからです
父なる神よ
いつまで待てばいいのでしょうか
何か私にできることがあるのでしょうか
あなたがお望みなら
それが御心ならば
私のこの世の欲に構うことなく
私の苦しみに構うことなく
御心を成就させてください
私がどんなにあがいても抗っても
すべてが御心のままになることを知っています
すべてが御心のままになることを教えてください
いつ死んでもよく
いつ生きてもよいと
私が言えますように
そして行なえますように
私の恐れを取り去ってください
私という矛盾があなたの手の中にありますように
主の御名によって祈ります。アーメン。
 
 
  礼状
   「暗いのが多いんです」
   「じゃ、あたしも暗いのかな」
    と笑ってくれたある人に
 
一刹那、むき出しの
答えようのない問いに似た
恥ずかしいものを見せられて
よりかかるように、慰めの
ありもしない保証を求められたようだと
尊厳の海の中で
揺らめいていた陽光から
緩やかな海流を貫いた閃光が
冷たく結晶化した鋭い尖端で
よりかかりを切ろうとするのだが
それよりも早く
海の摂理は速やかに
剣先を包み込んで鎮め
切るまでもないと差し伸べられた光が
恥ずかしくない程度に
身を低みに下ろして
少しばかりピエロを演じて下さいました
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
約3年数か月の、楽山の厚顔無恥の履歴によって、楽山との和解の可能性は、既に、存在しません。飾った言葉遣いと文脈に、白々しさが溢れてくるようになっています。身を引いて、正直になるしかないのですが、楽山は、それだけはしないでしょう。したと言っても、発言の信頼度はゼロです。
 
 
 ※
 
楽山はツイートを非公開にしたようです。これで、秘密がある、ということが分かります。どんなに体よく書いても、結局、陰湿な闇にしか生きられないのが、楽山の本性だったと分かるわけです。まだ、暗躍するつもりのようです。決して関わらないでください。秘密裏になれば、さらに危険です。
 
 
 
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