無責任の楽山が批評(2)?
 
 2022年05月07日
 信者と批判者の対話(3)降りかかる火の粉
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山 
  抜粋して批判。
 
 
楽山と遣り取りをして、社交だけではなく、反対意見を言うと、火の粉が降りかかってきます。楽山は、自身が批判されたときに返すだけの、まともな理路を持っていません。だから、社交の世辞と褒めてくれる人しか相手に出来ないのです。人格障害だからです。
 
 
*つづき
前記事のつづき。
*まえおき
今朝、ツイッターを見たら、初夏氏が拙ブログを話題にしていました。場所は、ここです↓
(省略)
ご覧いただければ分かるように、初夏氏のツイートは、文章の区切りと、ツイートの区切りが一致していないので分かりにくい。
ここでは分かりやすさを優先して、文章の区切りによって引用し、その感想を書くことにしたいと思います。それでは本題に入ります。
 
楽山の文章は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の我執から書いているので、真に分かりやすい文章は書けません。世辞か社交か、同じことを繰り返してくるかでしょう。そして、こちらを粘着するストーカー扱いしてきます。知性も感性も障害されている人です。
 
 
*悪癖
 まず初夏氏は、当ブログの記事について、こう書いてます。
昨日、久々に「退屈な文章」を読みました。
多数の誤解に満ちているので一文書いておきます。
①>ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
②>根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」
③>信者である(中略)大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為(中略)信者の論理にすぎない。(中略)まずは〈大川隆法=神〉であることを証明(中略)無理である。
 初夏氏は、不必要な煽り、印象操作をする癖がありますが、それがここでも出てます。「退屈な文章」「多数の誤解」というのがそれです。
 また初夏氏は、相変わらず引用ルールを無視してます。引用するときには、きちんと引用元のアドレスなどを明示しないと、読者は、批判、引用、引用元を確認した上で判断をすることができないでしょうに。
 
楽山は、悪口を言うことだけは達者なようですが、批判の理路ではなく、相手を責めることだけが目的です。指摘はするけれど、他者の欠点を書いて、自らのことについては、全く反省しない人です。無反省、無責任、訂正不能で、書いて、公開して、褒められたいという我欲だけだと思います。
 
 
*ごまかし
①私がツイートを消す理由は「他者を傷つけるかもしれない文章を長々と掲示する事は悪行だから」です。これは社会通念と完全に一致します。③とも関連しますが、アンチ思想に立てば、消されれば困りますよね。
他者を気遣ってツイートを消した場合は、同じツイートは二度としないものです。「あんなことを言って申し訳ないことをした。もう二度と言うまい」というように。
でも初夏氏は、ツイートを削除しては、また同じツイートをすることを繰り返しています。自分のツイートに批判リプがつくと、それを消して同じツイートをやりなおすということもしてる。
上の説明では、こんな風に消したツイートと同じツイートをする理由にはなりません。よって上の理由は、後付のごまかしです。
 
どう見ても理路の苦手な人を、いじめることに快感を覚えるようです。分析や理路に見せかけたことを書いてきますが、自らは、全く責任を負う気がありません。以前、楽山は、否定を書き、肯定を書いたから、責任問題は生じない・・などと言っていました。そういう、いい加減さが、楽山の特徴です。
 
心理学を心霊として解釈したり、論理を書こうとして矛盾だらけになって訳の分からない結論を書いたり、曖昧な命題を勝手に拡大解釈して自己正当化の根拠?にしたりと、だますための嘘と詭弁しか持っていないようです。AならばB・・などといった論理学の初歩の話で混乱させてきたりもします。
 
 
*独り決め
②『アンチ論法』『「神様」のいる家で育ちました(第5話)の批判』等は、キッチリとした根拠に基づく結論です。企業秘密なので詳細は言えませんが・・・
人はだれでも、自分はきちんとした根拠に基づいて意見をいっていると思ってるものです。
だから自分で自分の意見には、きちんとした根拠があると言ってもしょうがないです。
 
楽山は、修正が出来ない人です。都合が悪くなると、スルーすると言って無視します。ときに、常軌を逸したような長い文章や多数の記事を、読者のことなど考えずに、衝動的に書いてきます。他者に分かりやすく書く、根拠を示して説明する、などが、楽山は出来ません。理路を養っていないからです。
 
 
*詭弁
③これは分かりやすい詭弁です。既に画像に記しているように「画像や言葉の対象が皆様の家族であった場合(中略) それが答えです」という事です。自身の好悪がどうであれ、他人の両親へは一定の敬意を払うのが常識です。→
2022-05-07 x
公人を批判することと、一般人を批判することを同列に扱うのは詭弁です。
 
曖昧な命題を、個別の、たとえば自分に当てはめて、また、逆に、個別のことを、一般則みたいに扱って、混乱して、混乱させるやり方ですが、初期には世辞が入るので、分かりにくいこともあります。数か月遣り取りをしたことがあり、徒労と疲労を受け取るだけでした。相手にしてはいけない人です。
 
 
*聖職者
同じく、多数の人が敬愛する人物を「私は興味が無いから」という理由で罵倒してはならない事も常識です。
私はそういうことをした覚えはないので、誰を念頭において書いているのか分かりませんが、宗教家は聖職者であろうから、よりいっそう厳しい目で見られるのは当たり前のことです。
ましてや、神を自称したならば、相当の批判、非難、嘲笑がまきおこるのもやむを得ないことです。それが嫌なら、そんなことは言わないことです。
 
楽山は、有名人の著書を読んで、自分に都合のよいところだけを引用して、自己満足する生業です。間違いを自覚できず修正しません。そういうことが、批判を始めて約3年も続いています。言論から退却するべきですが、病質のために、何とも思わずに続けていられる、これも、症状なのです。
 
 
*ごちゃまぜ
ちなみに、画像がHSの教えです。 
2022-05-07 O
何かを信じるか信じないかという問題であれば、人格者かどうかは関係あるかもしれません。
でも何かが有るか無いかという問題と、人格者かどうかは別のことです。
これらをごっちゃにしてはダメです。
 
信じるか信じないか、という問題と、有るか無いか、という問題は、どちらも、人格が関係ないとはいえないでしょう。楽山は、霊能気取りと評論家気取りがあり、何も信じてなどいないと思いますが、混乱と疲労を意図的に与えることは愚かな悪であり、それらを、ごっちゃにして、整理できていません。
 
 
*おまけ
他所で書いたことだけども、誹謗中傷に対しては、私は心の教えの実践で対応します。
2022-05-04 1人を信じ、世を信じ、神を信じよ
2022-05-04 2弱き善人であってはならない
2022-05-04 3 奪う愛はいけない
2022-05-04 4相手を変えようとするのではなく
この他には、批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるものであるから、ありがたく頂き、反省の材料にすればよいという教えもあったでしょう。自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくるという教えもあったでしょう。
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
「批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるもの」ならば、楽山は、批判を受け取るべきですが、実際には、都合の悪いことは全て無視してきました。実に、白々しい、そして、頑強な悪意を表しています。正気でないから、このような、心にもないことが言えるのです。
 
「自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくる」・・それが、ずっと起こっているのですが、楽山に自覚は見られません。真っ赤な嘘であり、キレイごとを言って、ごまかそうとしています。いちばん、反しているのが自分なのに、まるで気づきません。
 
 
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
楽山は、「他人の言葉が」全く気にならず、無視できる人です。そうやって生きてきたのでしょう。だから、いつも、軽々しく物を言います。自分の発言が自分を斬っていることに、まるで気づかないのです。破綻だらけなのに何度も言ってくる楽山のような人と交わると、人格を破壊される恐れがあります。
 
 
◇◆ 追記 2022.5.7 ◆◇
*忘れ物
初夏氏のはじめのツイートについて、感想を書くのを忘れてたので、ここに書いておきます
画像に記していますが、文句・悪口・挑発・アンチ論法でない限り「否定・裁き・論破」は行いません。しかし先日の某氏は、私が指摘しているように『暴言・開き直り・悪口・ズルい行動・逃げ回る姿』が著しい人でした。だから論破させて頂きました。
 
楽山は、自己中なことしか言いませんから、「論破」など出来ない人です。他者を混乱させて、参らせて、退かせるのです。楽山の屁理屈のペースに嵌ってはいけません。それは、人を傷つけて悦ぶサイコパスの所業なのです。いかなる議論にも論争にも、楽山は参加する資格のない人です。
 
 
その遺恨から、当人や彼のお友達達から、→
私へのゴウゴウとした悪口が湧き上がっています。心を鎮める事をお勧めします。
まず結論からいうと、ここでも初夏氏の悪癖がでています。それは何かというと、事実と認識判断をごちゃまぜにする癖です。
 
楽山は、宗教も信仰も知りません。頭の中にこしらえた概念を神と見なして侮辱する無神教カルトの一人です。楽山は、自己愛から、世辞は言っても、執拗に繰り返される罠であり、聖書にあるような人を獲る漁師ではなく、人を傷つける狼の性根だと思います。
 
 
たとえば初夏氏は、次のことを書いています。
某氏には、暴言、悪口などがあった
某氏を論破した
某氏とその友人らから恨まれ、悪口を言われた
これらはすべて、初夏氏がそのように認識したということにすぎません、でも初夏氏はさも事実であるかのように書いています。
このように、事実と認識判断をごちゃまぜにして印象操作をするのは、初夏氏の悪い癖です。
 
楽山は、相手の弱みにつけ込みます。自分の弱みを知りません。自己中のために、理路は小学生並みになり、学習と成長がなく、感性は殆どありません。つまり、思いやっているような優しさ芝居はするけれど、心の温もりと潤い、本当の優しさと悲しみを持っていません。言葉面に騙されないでください。
 
 
ちなみに、まともな人は、事実と認識判断はきちんと区別しています。
 
楽山は、それが出来ない人です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスには出来ないのです。出来ているかのような言い方は、楽山の保身に過ぎません。恐ろしいほどの先入観と偏見だけが妄想的に楽山を支配しています。
 
 
たとえば、上でいえば、きちんと某氏の発言を提示して事実を示した上で、自分はこれは暴言と判断したと書くものです。悪口、開き直り、逃げ回る姿、論破などについても、そのようにするでしょう。
 
楽山にとって、事実も真実も判断も、自己愛の世界で決めているので、客観性がありません。優しさ気取りの暴言者であります。スルーすると言って無視、衝動書き、嫌がらせ、嘘と詭弁、手段を選ばない傲慢不遜を隠しながら、餌を待っている、どす黒い人です。どうか近づかないでください。
 
 
初夏氏は、もし本当に対話を望むのであれば、ここのところはよく理解してほしいと思います。
 
人間として必要なことを、何も理解できていない楽山が言っています。それこそスルーでいいと思います。そして、決して関わらないでください。遣り取りしないでください。近づかないでください。楽山は、遣り取りと議論の対象として、甚だしく失格です。
 
 
ところで少し話は変わりますが、初夏氏のスクショ嫌いは、事実と認識判断の区別をせず、〈認識判断=事実〉と安易に考えてしまいがちで、そのためにスクショ提示の必要性が理解できないことも一因でしょう。この点についても、よく考えてみることをおすすめします。
 
楽山は、妄想と偏見ベースの誤信念による判断です。罪悪感がないので、平気で、嘘を吐き、傷つけてきます。そういう場合、丁寧語こそが、いっそう、傷を大きくします。つまり、楽山は、丁寧に、傷つけてくる人なのです。この丁寧さは、だんだん、最悪の鬱陶しさから悲劇になるでしょう。
 
言論は、事実と当為があるわけですが、楽山は、事実だの証拠だのと言ってきます。楽山の事実には多くの嘘があり、さらに、詭弁で捻じ曲げられています。楽山は、当為つまり「べき」の付くことは、殆ど持っていません。我欲が勝っているからです。
 
楽山は、事実をねじ曲げます。そして、どうするべきという節操の当為がないのです。批判してきた3年余り、楽山に対する最悪という判断は、楽山の記事を読むたびに強化されるだけであります。乱暴者だと分かるほうが、よっぽどマシだろう、という私の批判経験の積み重ねになっています。
 
 
 
 2022年05月06日
 信者と批判者の対話(2)大川隆法は神なのか?
  抜粋して批判。
 
楽山の論理モドキの卑怯さは、楽山が、罪悪感のない、一方通行しか持ち合わせず、とても卑怯な、自分のことを棚に上げたまま、人を批判し、傷つけ、あざ笑うというやり方です。しかも、それは、真実の追求とは何の関係もなく、楽山の我欲からの欲求に過ぎず、百害あって一利なしなのです。
 
 
*はぐらかし
最後に、感想を一言。
初夏氏は、いつも質問には答えず、はぐらかしてばかりなのだが、今回もそうなっている。
大川隆法が神であることを証明できるようなことを言いながら、結局、その話から逃げてばかりいる。
こりゃダメだ。
 
はぐらかしも、逃げてばかりも、楽山の得意技です。それによって、楽山の評価は、ますます、どこまでもどこまでも地獄のように堕ちてきたのです。いちばん卑怯で、いちばん「ダメ」なのは楽山です。
 
 
つまり初夏氏の主張は、〈大川隆法は神である〉という信仰に基づいているのだ。だから、教団内では通用しても、教団外では説得力は持たない。〈大川隆法は神である〉と証明できない限りは…。
 
神を証明しろ・・というのは、キリスト教について、楽山と無神教カルトが、声高に言い続けていることですが、まだ言っているということは、学習能力がないのでしょう。神を証明できたら、信じる必要はないということです。ずっと、この愚かな、いちゃもんのままなのでしょう。
 
 
もしこの証明をなくして、教団外に強要したら、それは信仰の押し付けでしかない。信仰への配慮、尊重を求めることは間違いではなかろうが、「神である大川隆法への冒涜は許されない。大川隆法を神のごとく敬え」というところまで行ったら、それは無茶である。
 
信仰における愛とか共感とかを、楽山は全く理解できないので、語ることが出来ません。神と人の関係と結びつきは、少なくとも、破れた革のような、楽山の概念では、分からないままなのです。そういう人は、この世の厄介者として生きるしかないのでしょう。
 
 
初夏氏にはこの辺りの道理を理解してほしいものだと思う。もしこの道理をわきまえず、自らの信仰による正義を振り回すなら、このような悲劇をもたらすことになるだろう。そんなことは避けるのが吉である。
 
他者に言う前に、自分が道理を理解していないのだから、楽山の丁寧を装った暴論は、思想にならず、学問にならず、共感にならず、ゆえに、愛にも見放されているようです。愛と悲しみの代わりに、笑いと憎しみを育ててきたサイコパスの楽山は、真実の敵です。
 
 
楽山は、資格のない者が、他者を批評・批判すると、身の程を弁えない、資格がない、といった評価が付いて回ることに気づかないのでしょうか。なお、楽山は、ツイッターを非公開にしましたが、また、公開に戻したようです。どういう不安定な心境で生きているのでしょう。
 
 
我が身を省みない者

我が身を省みない者
 
 
(2022年05月09日)
 
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
遡(さかのぼ)ること
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
 
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでもいいが
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
 
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
 
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る

まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない

吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
どこまでも、どこまでも、人の言うことを聞かず、世辞と社交と、何か言われると、嫌がらせだけで、生きてゆけると感じてしまうところから、楽山の人生は、すでに限界を見せてきたのでしょう。多くの不祥事が隠されているような気がします。全部、人のせいにしてきたから。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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