敬虔5
  (過去記事「謙遜」を修正アップ)
 
 
例えば元気で熱心な信仰者に、ありがちな発言として、
「「神のうちに生き、動き、存在している」という視点に立つとき、私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
というのを聞いたか読んだかしたことがあります。
 
折に触れて、自分について、神の意志は?と考えるのは、信仰者としては当然ですが、「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ、最終的な真偽や正邪を、神の運びに任せる敬虔がありうるのであります。私たち信仰者は、不完全です。
 
「見極めることが出来る」ならば、神の意思を確信することになるから、それは敬虔とは違います。そこに敬虔はないです。ゆえに、この場合「謙遜」は、取って付けたような虚飾に過ぎません。私たち信仰者は、不完全なのです。
 
また「神の導き」「キリストによる罪の贖い」「聖霊の注ぎ」などという言葉、即ち、聖書語を、まるで公式のように、常套句のように繰り返し使い、それで信仰を伝えたつもりになるのは、信仰ではなく、ただの思い上がりです。
 
そういう間違いの起こる理由は「聖書の真理だから」という信念であり、その信念については、説明できる経験からの実感と実体がないままなのは慢心であり、そう覚えているだけであるなら、信仰の言葉にはならないということです。
 
その時その場で、与えられている人間としての経験と知性や感性などを働かせることなく、聖書的な言葉を並べて伝えた気持ちになってしまう。いずれの場合も謙虚・謙遜・へりくだる姿勢・敬虔とは無縁であり、カルトなどに、よく見られる高慢であります。
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても、それを受け取り、伝えようとする人は、人の言葉しか持ち合わせておらず、神と違って不完全なのだから、人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては、伝える努力が及ばないこともあることを知っておくべきでしょう。
 
伝わらないときに、彼には恵みがなかった、などと相手のせいにするのは、もはや、偽善者の言であります。聖書は真理でも、言葉だけ実感のないまま語って、神の導きにお任せしますと、反省も努力もせずにいたら、責任放棄であり自己満足なのです。
 
人と人が互いに、表す言葉の拙さを共感し共有する意識が必要であります。いかなる言葉も、いつも実感を持てるとは限りません。祈りとともに、努力を続けることが信仰生活なのです。敬虔はそこにあるのであって、実感のないまま繰り返される聖句や信仰の言葉の数にあるのではないからです。
 
 
 
よくある信仰についての勘違いですが、罪は赦されたから罪なき者となったのではなく、罪人だったけど悔い改めたので罪が無くなったのでもありません。
 
信仰者は、罪を犯しても正直に祈ることで赦されて生きる道を与えられたのです。
 
この地上の世に生きてきて、信仰を与えられている我が身を振り返って、自らの来し方を思い、行く末を考えるならば、自分がそんなに立派になったとは考えられないのが正常であり、見違えるような聖となって罪が無いなどと信じることは、直観的にあり得ないと分かるはずなのです。
 
私たちキリスト信仰者は、信仰によって思い上がるのではなく、信仰によって敬虔を学ばなければいけません。信仰者は感動をもって成長する道を与えられたのであって、何もかもが良くなって完全になるなんていうのはカルトか多幸症の高揚気分に過ぎません。
 
神は、全知全能・絶対完全・永遠不変であり、私たち人間は、それらの神の性質を持ち得ないことを知ることで、救い主イエス・キリストとの、同伴と共感の絆(きずな)を持ち得るのであります。
 
神を恐れるとは、完全なる全能の神の存在によって、不完全で小さい人が自らの尊大と傲慢を砕かれ、それゆえに柔和になることです。言い換えれば、神のもとで生きる砕かれた魂という新たな尊厳を与えられることであります。
 
 
敬虔 砕かれた魂

敬虔 砕かれた魂
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月18日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
(90年代か)
 
 
  去り際の願い
 
いくつかの微笑と
数々の哀しげな顔や
苦悩の表情が
私とともにあって
それらが皆
去り際の人間の顔として
私とともに流れてきて
私は今ここにある
(どこか)
私はどこに
いざなわれるのだろう
いったい私の去り際に
(いつか)
どんな顔を
誰に向けるのだろう
 
願わくは
眠りに入る刹那のような
安らぎとともにあらんことを
ぬるい夢に流れてゆく
私の呆(ほう)けた顔が
その時だけは雲間から淡く
広がる光の中に
小さくきらめく
雫(しずく)のようであらんことを
何よりも無邪気ならんことを
 
(90年代か)
 
 
  祈り・恐れてはならないもの
 
生も死も恐れている
それ以上に神を恐れている
同じくらい主を頼みとしている
 
♪迷わば訪ねて曳(ひ)き返りませ
 
この先
たとい人を世界をこの国を
いかなる艱難(かんなん)が襲って来ようとも
 
♪世の友われらを捨て去るときも
 
たとい死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません
と言えますように
 
 
(かなり昔の作)
※ ♪は、讃美歌の歌詞です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
謙譲、謙遜、謙虚、ということから、最も遠いのが楽山です。しかし、そう見せる芝居をしてきます。それで安心して受け入れると、罠にはまることになります。曖昧で語尾の否定肯定を濁すボンヤリ言語、謙譲芝居のセリフであるトホホ言語と呼んでいます。責任逃れと隠し事で出来ている楽山です。
 
 
 
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