批判と悪口2
 
 
私は、カルト的な思想を、訂正不能に自己中に一方的に、批判を無視して、妄想的に書いてくる者たちを、以前はコメントで、その後は記事で、批判してきました。
 
彼らは、こちらの言うことを無視して、一方的に、自慢したり、おとしめたりしてくるだけです。はっきり言って、攻撃だけを目的とする記事やコメントには、罵り言葉だけで、汲み取るべき内容も根拠も全くないという特徴があります。
 
私などは、だいたい、結論だけのコメントには、記事で、結論だけだと指摘しますし、それに対して、正当な反論が来たためしがないのが、彼らの、カルト的、自己満足的、妄想的な、一方的主張であります。しかし、大方、訂正不能です。彼らは、真似だけで、本当の議論が出来ないのです。
 
誹謗中傷してくるだけの悪意と自己中の者の根っこには、自己愛性人格障害、などの、人格の病気の可能性があります。生まれて大人になるまでの、遺伝と成長の過程で、出来上がった人格が原因であるならば、医療によって治る可能性も、なかなか、期待できないのでしょう。
 
なお、私の批判記事一つだけを見れば、言い過ぎと思われるところがあるかもしれません。批判対象について、最初から批判だったわけではありません。
 
批判対象シャロームとの付き合いは、だまされて聖書の先生だと思っていた数年と、批判してきた約10年の経過があります。罪は悔い改めなくとも許されるから気にしなくていい、という、とんでもないことを言い出したことで、偽牧師だと判明しました。
 
批判対象の楽山については、数か月のつ遣り取りの後、批判対象となり、約3年以上の批判の経過があります。その流れで批判を書いているので、一つの記事だけで云々されるのは、的外れであります。
 
楽山は、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、という発言から、全く議論を理解していない幼稚な病的ナルシストぶりが明らかになっています。
 
いずれも、あるときから、とんでもない理不尽なことを書いていることに気づいて、批判が始まっています。元々知らない人であり、理解も、そして結局、批判も、気づきから始まります。最初から批判で始まるということはないのです。
 
彼ら自己中の者たち、楽山やシャロームは、自分は被害者です、酷い攻撃にさらされました、とか言って、記事を書いてきます。彼らは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そして精神病質サイコパスであるために、罪悪感がないのです。
 
さらに、あくどいのは、一度に、たくさんの記事を書いて、相手が批判して疲れるのを期待する場合もなります。このような企みから、病質者の、根深い病的な性根を見ることもあります。他者のことなど、何とも思っていないのです。その分、彼らの文章も、何の役にも立ちません。
 
 
私のスタンスとして、今では、基本的に、記事は、批判対象が病質者の場合には、反省や罪悪感に期待するのは不可能と思われるので、よりも、むしろ一般読者に向けて、彼らカルト的な宣伝サイトについて、警戒を呼びかけて、近づかないようにしてほしいという目的になっています。
 
彼らの文章は、うわべの言葉や見かけで、受け入れを誘ってくる丁寧語であり、そこに、嘘と詭弁を刷り込んで誘導してきます。関わるだけでも、無駄に疲労し、結局は、人格を破壊される恐れがあるので、こちらは、決して近づかないでください、というアピールをするのが目的になっています。
 
ただ、そういう主旨はもちろん、私の記事の理路についても、自己中で理解力のない批判対象によって無視されるでしょう。いつも、被害者面して、ときに、多量の嫌がらせの記事を書いてきます。しかし、批判と悪口を混同している彼らには、根拠が何もないのです。
 
批判も、罵詈雑言を使うことがあります。その理由は、相手が、全く批判を理解できず、受け取ってもいないからです。私の批判記事は、大方、読者が読むことを意識して書いていますが、加えて、厳しい言い方を批判対象に向けて書いています。辛辣な比喩表現などです。
 
もし批判対象が見ることがあれば、批判対象はお前だ、ということを明確にするために、罵詈雑言≒全否定を書いておく必要があります。このように、罵詈雑言は、根拠を十分に示したのち、コントロールしながら、使うことがあります。
 
相手が、一般的な議論など、全く成り立たない者である場合です。上の二人は、理路を、理解できず、組み立てられず、詭弁と嘘で引っ掛けて、印象を吹き込んできます。さらに、感性的享受ができないので共感が成り立ちません。月並みで平板な文章を書いてきます。正常人とは、全然、違うと思います。
 
 
繰り返しになりますが、私がこの記事を書く理由は、そのように、批判を受け取らず、無視して、好き勝手に書いてくるような者たちが、反論も弁明も出来ないのに、いろいろな事件をネタに、被害者面して、読者に安易に同情を誘うために、何か書いてくる可能性が危惧されるからです。
 
もっともらしい批評家気取りの筆致には、十分、注意してください。結論として、私が思うのは、悪口だけの言と、批判とは全く別だということです。私が批判してきた対象は、記事やコメントで、結論だけを繰り返して書いてくるような、不感不応のカルト的思想の異常人格なのです。
 
彼らの記事自体が、既に、回りくどい雑言と言ってよいような、無益で無意味で、こちらを疲労させるだけの、とても迷惑で、反社会につながるものだから、引き続き、批判対象になっています。
 
 
一般に、罵詈雑言だけの発言というのは、否定の結論だけを繰り返し言い張るだけのような、価値の無いものですから、そんなことのために、めげたり、最悪の場合、死を思ったりなんて、しないでほしいということです。
 
批判というのは、相手を否定する言葉だけでなく、相手の不正について根拠を示してゆくことです。場合によっては、和解が可能です。
悪口というのは、根拠もなく、相手をおとしめる言葉だけを書くことです。和解は不可能であることが殆どでしょう。
 
実質のある批判の中身があれば受け取り、必要があれば反論や弁明も出来るでしょうが、
実質のない悪口だけのコメントに対しては、気にしないでいられる気持ちの強さが必要です。
前者の批判に対して、後者の悪口だけを言ってくる者、サイコパスを疑います。
 
 
批判と悪口

批判と悪口
 
 
(2020年)
(2022年05月29日、再録+加筆)
 
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
 
 サイコパスについて
 
人間は、やってはいけないこと、言ってはいけないこと、などについて、分別を持っているものです。人間に、そうさせているのは、良心です。良心によって、他者と共感することで、悪の道を避けるようになるのです。しかし、中には、良心を持たない者がいます。
 
生まれ育ったときに既にそうなっているのがサイコパスです。他にも、洗脳や、刷り込みや、偏った教育によって、マインドコントロールされて、後転的に良心を失うことがあります。後者は、良心を回復することが可能であるかもしれませんが、難治であることに変わりありません。
 
前から、何度も言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
サイコパスは、人口の1~2%いると言われています。それが正しければ、日本には、100万~200万人のサイコパスがいることになります。1クラスに一人となると、少なくはないです。
 
サイコパスには、良心がなく、情緒面では、しんみりとした悲しみの情がありません。サイコパスには、笑いと怒りしかありません。そこからの嘲笑と憎しみ~怨念があります。議論中に、しばしば、笑う人や、あざ笑う人や、怒鳴って返してくる人には、注意が必要です。
 
サイコパスは、理屈を言うことがありますが、整った論理性を持ちません。自分を客観的に見ることが出来ないからです。偏向した屁理屈を言い張ることがあります。感受性については、理性的にも情緒的にも劣っています。自己の発想が、優位性の絶対となっているからです。
 
サイコパスは、反社会性人格障害と呼ばれますが、反社会性は、犯罪傾向が明らかになってから分かることです。サイコパスは、元々は、精神病質の訳で、人格的そして体質的な病態です。自己中心が特徴なので、広く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、NPD)と呼ぶべきだろうと思います。
 
サイコパス、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、人を相手にする職業についてはいけない人です。表面的には丁寧でも、付き合ってゆくうちに、疲労と破壊をもたらすでしょう。その段階で気づいても、なかなか手遅れなのです。体質ですから完全治癒は困難だと思います。
 
サイコパスは、思いやりがあるような言い方や態度を見せることがあります。それで要職についている場合もあるようです。しかし、それらは、見せかけの言葉や態度であって、付き合い続ければ、結局は、破壊的、自滅的な、経過と結果をもたらすでしょう。関わらないことが大事です。
 
前にも書きましたが、サイコパスは、単に、自慢好きや、怒りっぽい人、押しの強い人とは、違います。そういう見かけサイコパスの人は、のっぴきならない事態では、途端に、慌てるように、真面目になって、自省し、考えることが出来るからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてくる文章は、なんとなく正しいような気のしやすい文章ですが、よく読むと、根拠がないことや、嘘や、曖昧な言葉を個別のことに当てはめるとか、特殊な言葉を全体に当てはめるとかの、詭弁が含まれています。個人の安全のためには、相手にしないことだけが対策となります。
 
 
 
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