批判の節操2
 
 神を批判してはいけないのか?
 2014年12月06日
 楽山日記(LD)
 
 
「楽山日記」で検索したところ、上の記事が見つかりました。私が楽山を批判する前の記事だと思います。恐らく、ずっと前から、キリスト教を侮辱してきたのでしょう。そうしながら、クリスチャン芝居もしてきたのです。見逃してはならないところがあるので、書いておきます。
 
楽山は、「意見を言ってはいけないのですか」などという、もっともらしいことを書いたこともあります。当たり前に、いけなくない、が成り立ちそうに見えますが、言うことが成り立つ範囲や条件をぼかして自己正当化してくる楽山の詭弁の筆致です。責任を負わないところに、自由はないのです。
 
 
*神を批判してはいけないのか?
宗教を信じている人の中には、「神を批判してはいけない!」という人がいる。本当にそうだろうか。この点について、自分の思うところを書いてみたい。
 
批判は自由です。しかし、楽山は、批判をしたことはありません。楽山は、こちらの言い分を全く受け取ることなく、勝手に書いているだけなので、これは、批判ではなく、嫌がらせか悪口に過ぎません。そういうことを書く者には、言うまでもなく、批判をする資格はないのです。
 
 
*あるクリスチャンの言葉
このテーマについて考えるとき、いつも思い出すのは、あるクリスチャンの言葉だ。彼(クリスチャン)は、キリスト教批判に対して、次のような趣旨の話をしていた。
「批判者だった人が、熱心な信仰者に変わることは珍しくありません。批判というのは、見方を変えれば、それだけ関心があるということなのでしょう。これは無関心よりはずっといいことです」
これはなかなか含蓄ある言葉だと思う。
 
楽山が批判者であれば、信仰者に変わる可能性はあるのでしょう。しかし、楽山は、上に述べたように、きわめて卑怯な誹謗中傷をしてきただけです。2014年のこの記事に書いた"含蓄"?、楽山は、全く受け止めておらず、気にもしていないということが表れてきたのです。
 
 
*批判してはいけない神とは?
「神を批判してはいけない」というときの神とは、どのような神のことだろうか? それには次の三種があるように思う。
A.宗教教義(神の教え?)
B.教祖(生き神様)
C.宗教教義で定められているわけでもなく、教祖でもない神(各人が持っている神のイメージ)
 
楽山は、「どのような神」としてA,B,Cなどと上げていますが、概念を言葉にしたような表し方で、神を規定することなど出来ません。それを、軽々とやっている楽山が、いかに、神も、宗教も、キリストも、いかに安っぽく、知ったかぶりだけで書いているかが表れているのです。
 
私は、批判してはいけないとは言っていません。批判の節操を守らない者に、批判する資格はないと言っています。決定的なのは、私たちは、批判するほどに、神を知ってなどいないということです。ゆえに、神と人の存在の違いを、楽山は、全く理解できないのです。
 
また、批判されたときには、当然、批判された側は、批判返し、すなわち、反論または弁明の権利を有します。つまり、自分発信だけの楽山は、自らに向けられた批判に対して無視するだけで、宗教思想としても、批判としても、成り立つことはないのです。
 
 
*Aについて
宗教教義というものは、人による神解釈ではあっても、神そのものではないだろう。神の意思を、人に分かる形に翻訳、解釈したものが宗教教義なのではないか。
そうであれば、「神(宗教教義)を批判してはいけない」というのは、ようするに「自分の信じる神解釈を批判してはいけない」ということにすぎないように思える。
 
注意してほしいのは、楽山が、既に、神を、人の神解釈として語っていることです。それは、どこにも証明も担保もされていません。詭弁全開のインチキ楽山です。そうやって、神不在を刷り込んでくるのでしょう。いかなる神にも、楽山の傲慢な自己愛は、見当外れに独り遠吠えしているのです。
 
楽山のような無神教カルトの語る神は、聖書が語る神とは、全然、別のもので、楽山の概念の産物に過ぎません。楽山は批判などしていません。見当違いに吠えているだけです。楽山は、私の批判に対して、一度も、真っ当な反論も弁明もしたことがないのです。
 
 
*Bについて
これも上と同じだろう。「神(教祖)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じる教祖を批判してはいけない」といっているだけだろう。
*Cについて
これも上と同じ。「神(自分のイメージする神)を批判してはいけない」というのは、「自分の信じている神のイメージを批判してはいけない」ということだろう。
 
超常の神を、地上の人が、批判することは出来ません。超常の能力と言葉を知らないからです。しかし、人間として疑問を言ったり批判することがいけないとは言っていません。楽山は、対等に、対象として、批判できると思っているようです。楽山は、自分を人間より上だと思っているのでしょうか。
 
信仰によって関係する神ですから、信じない者には、神はいません。成り行き任せしかありません。心の支えも何もありません。ならば、信じない者が、神を語ることなど出来ない、ということが、楽山には分からないのです。
 
つまり、楽山が語る神?のように、極めて狭小で先入観の視野にあるものを神と呼ぶならば、いるとかいないとか、信じるとか信じないとか、一切が、無意味です。それを、ネチネチと刷り込んでくる楽山は、誰にとっても、相手する時間だけ、すべて害毒だということです。
 
つまり、字面を追っただけの悪口に過ぎないので、キリスト教もキリスト信仰も全く理解しておらず、幼稚すぎるから、批判になっていないという判断です。誰にとっても、非生産的で、非現実的で、参考にもならないことを、執拗に言ってくる楽山に、批判する資格も批判力もありません。
 
 
*信仰を傷つけないでほしい
以上をまとめると、「神を批判してはいけない」というのは、ようするに「私の信じる神(教義、教祖等)を批判してはいけない」ということのようである。もっと直截的な言い方をすれば、「自分の信仰を傷つけないでほしい」とも、「俺の信じる神に文句いうな!」とも言えるかもしれない。
 
まさしく、楽山こそ、俺の言うことに文句言うな!という動機から、今まで、一見、丁寧に見せかけるところの「なくもない」「否定できない」前には「かなあ」「というか」といったボンヤリ言語による、誘導、印象操作、刷り込み、などという詭弁を弄してきたのです。悪意の芝居でしかないのです。
 
 
*他人の信仰に対する配慮
他人の信仰に配慮することは、とても大切なことではある。ただ人はそれぞれ異なる信仰を持っているものだ。そのために自分の信仰に正直になることが、他人の信仰を批判することに通じることもありえる。
この場合は、どうすればよいか。自分の信仰を率直に表明してもいいのか。それとも他人の信仰を傷つけないために、自分の信仰を抑えるべきか。これについては、万人が納得できる答えを出すのはなかなか難しそうだ。
 
楽山は、全く「他人の信仰に配慮すること」が出来ていません。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために「配慮」ということが出来ないのです。厚かましく、無遠慮に、ずっと、神と信仰を、けなし続けています。言葉だけ丁寧にしても無駄なのです。
 
自分の信仰を語るのに、正直でないことは、偽りを言うことです。楽山が典型で、感情的な表現を、控え目にしても、侮辱は伝わることが分からないのです。評論家気取りの丁寧語で書いても、ごまかしは効かないのです。楽山には、正常な理路はありません。
 
相手に思慮も根拠も無く、こちらに体験上の根拠があれば、それを理解しない相手の言は、戯言以上ではないので、厳しくもなります。つまり、無反省で無責任な楽山とは、話をしても無駄ということです。楽山の理屈には、ゴールがなく、恣意だけなのです。
 
楽山とは共有できる前提がありません。楽山にとって、神否定は、前提となっています。ゆえに、無神教カルトと考えます。字面だけを追っているから、神に正直であることを、利便性や社交と同じように扱って、上のような「抑えるべきか」「難しい」などという、的外れの書き方になるのです。
 
 
*動機
次に、「神を批判してはいけない」という言葉を発する動機を考えてみると、次の三つがありそうだ。
1.天罰をおそれて
2.神の使いをおそれて
3.反作用をおそれて
*1について
神を批判する人に天罰がくだることを心配して、「神を批判してはいけない」というのは親切なことではある。
ただこれは、「神は慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力は持たないだろう。
 
好きなように、神を決めつけて場合分けしています。神は、楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という欠陥人格によって規定され得るような安い御方ではありません。楽山は、いつも、身の程を弁えないで、言いたい放題の雑言屋なのです。
 
神は、愛の神であると同時に、戒め懲らしめる神でもあることが、聖書には書かれています。批判と悪口を混同している楽山は「神を批判してはいけない」という書き方をしていますが、祈りにおいて正直であることが必要である神に対して、楽山の嘘吐きは、酷い荒らしの自滅行為です。
 
楽山は、先ず神を決めつけるのが信仰?という見なしで決めつけて、そこにおいてのみ、文句を言ってきます。基本的に真逆であります。楽山は、神について、信仰についての、適性と感性が、全くないと言ってよいでしょう。虚栄だけで、神を云々する姿は、醜いだけです。
 
祈りは、批判ではなく、ましてや、悪口でもなく、疑っているなら、疑っていると、疑問を訴えることは、正直な気持ちの祈りとしてありうることです。キリスト者は、神と双方向の手段として祈りますが、神と社交のお友達になるわけではないのです。
 
ただ、その時、信仰者なら、神を恐れて、ふるえることはあるでしょう。それは反省を促すかもしれません。少なくとも、信じることで完全になることはなく、ましてや、知ったかぶりで上から批評を語る楽山の手に負えるものは何もないのです。
 
 
*2について
神は天罰をくださなくても、その下にいるものたちが罰をあてることを心配して、「神を批判してはいけない」というのも親切なことだ。
ただこれも、「神はもちろん、高級霊も慈悲深い存在で、天罰を下すことはない」と信じている人には説得力を持たないだろう。
また、このように神や高級霊はどこまでも慈悲深い存在だと信じている人からすれば、「天罰」云々と言う人たちは、「慈悲深い神や高級霊と、祟り神や地獄霊との違いが解らない人たちだ」と見えるかもしれない。
 
楽山は、自らのペーパーのような頭で、神の辻褄を、自らの貧しい辻褄と同じ次元で、述べたいようですが、このような先入観と偏見での場合分けは、信仰にとって、何の意味もなく、何の役にも立ちません。何もかも一面的です。その見方で、神と人間を気安く分けてしまうから、話になりません。
 
 
*3について
神や高級霊が天罰を下さなくても、神や高級霊を悪しざまにいえば心の法則によって反作用があることを心配して、「神を批判してはいけない」という人もいるかもしれない。
これは一理あるように思えるけれども、批判者の心を動かすのは難しそうである。批判者は神を批判しているつもりはなく、「神ではないものを神ではないといい、おかしいことをおかしいといっているだけだ」という考えを持っているだろうから。
 
「高級霊」「心の法則」って何でしょう。辻褄合わせに思いついた安易な言葉が、信仰に通用することは永遠にないのです。凄まじい楽山の詭弁です。このような幼稚なことを並べて、真理について語ったつもりになる楽山は、真実の追求において、まず最初に除外されてしかるべき欠格者です。
 
私は、批判ではないものを批判ではないと言い、理解ではないものを理解ではないと言い、おかしい楽山の頭と心を、おかしいと言っているだけです。楽山は、理解ではないものを理解と言って押し出してくる厚かましい荒らしに過ぎません。楽山に関わってはいけません。
 
楽山の語る神が神ではないと言うのは、聖書の伝えていることを楽山が何も受け取っていないからです。楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、人間らしい心を捨ててしまったために、受け取るだけの器を持っていないということです。
 
 
*もう一つの動機
以上、利他的動機について書いてみたけれども、もしかすると利己的動機についても考えられるかもしれない。たとえば、「神を批判してはいけない」という言葉の裏には、神の権威を利用して批判を封じて、自分の信仰を守ろうとする利己心がある可能性も考えられる。
 
ここは、楽山の、自分は分かるんだという強迫性であり、邪推とも言えるでしょう。つついてもしょうのないところを、楽山は、執拗に、つついているだけです。心ない者が言葉の字面だけにこだわると、いかに本質から逸れてしまうかという例でしょう。楽山は神を批判するが、誰にも届いていないのです。
 
利己的動機が激しいのは、楽山その人です。どこにも通じない幼児語のような詭弁を、長々と、いつまでも書いてくる図々しさは、吐き気ものだということが、楽山にだけは、分からないでいるのです。神という言葉の仰々しさを悪用して、無益な雑言を引きずらせようとしています。楽山は病原です。
 
 
「信仰を守る」といえば聞こえはいいが、実際は「自分の宗教選択はまちがっていない。自分には宗教の正邪、真贋を見抜く眼力がある」というプライドにしがみついているにすぎないこともあるものだ。また「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されているだけのこともある。
このようにプライドや恐怖心から、「神を批判してはいけない」と言うこともあるかもしれない。
 
それは、まさに、楽山の自我の空想=固定観念について言えることなのです。キリスト信仰においては、悔い改めと祈りが生活になります。プライドにしがみつくことが信仰だと思っているのでしょうか。それは、楽山が、徹底的に、邪推してゆくしかない宗教不能者であることを示すだけです。
 
楽山は、観念の奴隷だと思います。だから、字面にしがみついているのです。"「信仰を手放したら地獄に墜ちる」という恐怖心に振り回されている"ならば、それは信仰ではないのです。つまり、楽山は、間違った信仰を論って、キリスト教とキリスト信仰を、曲解で貶めているだけなのです。
 
 
*動機の見分け方
「神を批判してはいけない」という発言の根底に、思いやりがあるか、利己心があるかは、その発言者の態度を見ればおおよその見当はつきそうではある。
 
楽山が、記事を書く根底には、心の利己心、つまり、自己愛と自己中心しかないと思います。そこから見下ろす視線で書いている限り、楽山が、神も信仰も理解することはないでしょう。そのような証拠が、3年以上も蓄積されてきたのです。
 
 
ただ人というものは、心中が愛だけの人も、利己心だけの人もいないだろうし、激怒の裏に深い愛情があったり、穏やかさの下に冷酷さがあったりすることもあり、ややこしいところもあるから注意が必要だけど。
 
結論のないボンヤリ言語です。愛、利己心、激怒、愛情、穏やかさ、冷酷さ、と書いた後で、ややこしいと書くだけで済ませられるのが、楽山の自己愛と自己中の自己満足です。まさに「穏やかさの下に冷酷さがあったりする」のは、楽山に、ぴったり当てはまっているのです。
 
 
*神を批判することは可能なのか?
ちなみに私は、神とは超越した存在であると思っている。人には人知を超えた神を認識することはできず、したがって神を賛美することも、批判することもできないのだろうと。
 
またまた、楽山は、安易に、超越という言葉を、存在に付けて、神を、言い得たつもりのようです。しかし「超越」という言葉だけで、深い実質が何もないのが、楽山なのです。
一方、超越していない不完全の自覚があれば、楽山と違って、神を信じることが出来るのです。神を必要とするのです。
 
 
おそらく、人にできるのは、真実の神についてでなく、自分または他人がこしらえた神像についてああだ、こうだと論評することくらいなのだろう。
 
驚きました。まさに、楽山がしている、こしらえ話のことです。何の意味もありません。人が、神について出来るのは、聖書から何を受け取ったかという話と、信仰者の考え方と、人が信仰によってどう変わったか、という人の側の変化の話です。
 
どうか、楽山のような偽者の語る神の話を、それが肯定でも否定でも、真に受けることのないように、また、感情を乱されることのないように、だまされないように、決して、楽山に近づかないでください。関わらないでください。
 
 
*信仰と自由
ところで、「神を批判してはいけない」という人たちを見ていて思ったのだが、人はどのような神を信じるかによって、自由が広がったり、狭まったりするようである。
考えてみれば、人格を持ち、感情に突き動かされながら裁きを下す神(生き神様、人格神等)を信じるよりも、人格を持たず、感情もない自然法則のようなものを神と信じた方が、神の機嫌を損ねることをおそれる必要はなくなり、自由になるのは当たり前なのだけれど……。
 
楽山は、他者について、「自由が広がったり、狭まったりする」と言っています。しかし、楽山は、一度も、広がりのある自由な言論などしたことはありません。自由ではなく、人を人とも思わない無責任な自己中で勝手な偏見を繰り返してきただけです。
 
楽山は、ここで、自らの気分的で気晴らしにしかならないような、自然への信仰?を、勧めてきます。自然の機嫌を損ねることはないそうです。津波や雪崩のことをどう考えているのでしょう、偉大だと仰いでいられるのでしょうか。楽山の、いい加減な字面の工作が、どんどん壊れてゆきます。
 
 
*信仰それぞれ
世の中には、狭いところがすきな人もいれば、広いところがすきな人もいるものだ。他人から束縛されることを喜ぶ人もいれば、喜ばない人もいる。そうであれば、人に干渉する神を信じる人もいれば、人に干渉しない神を信じる人もいるのが当然だ。
これはどちらが優れていて、どちらが劣っているというわけではなく、個性のちがいということだろうし、そうであれば、人はそれぞれ自分に合った信仰を持てばそれでいいのだろうと思う。
 
狭い、広い、束縛、悦ぶ、人それぞれと同じように、人に干渉する神、干渉しない神、を並べて語るのは、いずれも通念的観念だけを追った字面の幼稚な図画工作に過ぎません。そのことの、優劣があるとかないとか、どうして、いつも飴玉を舐めているような楽山に分かるでしょう。
 
このように、いろいろ言った後で「自分に合った信仰を持てばいい」と、趣味の話の次元に貶めてくるのが、楽山の迷惑極まりないボンヤリ言語なのです。楽山は、自分の欲望に合う誤信念が訂正不能になって、もはや、人間とは思えない魔界から唾を飛ばしているだけです。
 
 
*人によって、神のイメージが異なる理由
結局、人は自分の姿を神に見ているのかもしれない。もしそうだとすると、「神を批判してはいけない」というのも、「神を批判してもいい」というのも、自分の姿を神に投影しているにすぎないのだろう。
 
そして「自分の姿を神に見ているのかもしれない」「自分の姿を神に投影している」などと言ってきます。色々書いた後で、これが、楽山の軽蔑と、悪意の企みなのです。そして、いい加減を、ちょうどよいものとして、勧めてきて、この世で、いちばん無益で浅はかな空論を刷り込んでくるのです。
 
信仰は、自分にうんざりした人が求めることが多いのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山には、全く理解できないことなのでしょう。だから、いつも、自分を誇大化して、他者を、雲の上の現象のようにフワフワした存在におとしめてゆくのでしょう。
 
 
*最後に
こう考えると、人に人格や個性がある限り、自他が同じ神のイメージを共有することは不可能であり、また無益であるように思えてくる。
真実の神が存在するかどうかはわからない。けれども少なくとも、人が語る神、または人が認識する神は、人から独立した客観的な存在ではなさそうではある。
こういったことを了解する人が増えれば、信仰の押し付けのようなことは減り、人々はより自由になることができるだろうなあと思う。
 
神のイメージと、神は、明らかに違います。前者は、人がいだくものですから、神への恐れによって、決めつけないことが必要です。それを混同して、神を否定したつもりになるのが楽山です。楽山の言は、宗教観として成り立っていません。まさに、楽山の言は、インチキノートです。
 
人は、神の意志と行為を知ることが出来ないのだから、神を決めつけたら、楽山のような短絡妄想症になってゆくでしょう。通念的観念を字面に当てはめているだけの低劣な楽山には、神について、否定についても肯定についても、一言も信頼に足る言葉を語ることはないのです。
 
2014年の、この記事と、最近言っていることと、楽山は、全く変わりがないように思えます。自己愛に慢心した者は、反省・学習・成長という変化が全く出来なくなるということが表れています。一生涯、このような迷惑な駄弁を続けてゆく人がいるのか・・と呆れるばかりです。
 
信仰の押し付けは、カルトがやっていることです。信仰の貶めは、楽山がやっていることです。信仰を持たなければ自由なのでしょうか。それで自由のつもりでいても、楽山は、気持ち悪いくらい異常です。宗教と信仰の必要と成立の起源を、まるで無視した、本末転倒の楽山です。
 
宗教について信仰について、その起源も必要性も理解していない怠慢な楽山は、今も、同じような、安物のイメージで宗教と信仰を語っています。無反省の訂正不能の、言論と頭のボンヤリ言語の弊害は、まるで、蜘蛛の巣が首に巻き付いたときのような不快感をもたらします。
 
楽山の言うような飾りの信仰?なら、いい加減に理解して、いい加減に信じてもいいのでしょう。何も良い方向に変える力のないワッペンのような信仰?を語るだけだからです。
 
楽山は、気取りだけで、知りもしない宗教と信仰をおとしめるだけの、荒らし的な雑言屋のペテン師です。汲み取れる何ものも持っていません。実感の全く無い楽山の屁理屈は、切実に救いを求めている信仰とは、何の関係もありません。楽山には、正常な人間の共感性がありません。
 
信仰は、それを必要とする人がいるから、伝えられて、広まっているのです。楽山は、信じる気がないなら、分かりもしない宗教と信仰について、自己愛の尿路結石のような心から、何も語るべきではありません。信仰は、湧水を見つけて手に掬うような、潤いを渇望する心に与えられます。
 
楽山やシャロームなどの易坊類に典型的なように、とんでもない曲解やカルト化という弊害が現象として起こっていますが、一方、理屈遊びではなく、生きるために不可欠な縁(よすが)として、今も、信仰の真実を必要とする人々がいるのです。
 
楽山は、善に見せかけて、無理解と悪意から、ひどい侮辱の言いがかりを、笑いながらしているとしか思えません。楽山は、意地悪な根性からの思いつきと嘘と詭弁で、実に低次元の安さと平気さで、偽善のラッパを吹き続けているサイコパスのサディストです。
 
字面(じづら)
論う(あげつらう)
貶める(おとしめる)貶す(けなす)
雪崩(なだれ)
 
 
然りは然り、否は否

然りは然り、否は否 (しかりはしかり、いなはいな)
 
 
(2020年)
(2022年05月30日)
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
  残照
 
窓からこぼれてくる
残照を
拾おうとしている
 
拾おうとした
あの日
抱きしめた偶像が
崩れていくのを拾おうとした
真っ白になった目の前で
ぽたぽた落ちて広がる
失った熱を引きずって
ぬるりと臭気の中で
足場がなくなるのを
切り裂いたものだと知った
 
もう二度と真っ白になれない
残照
残したもの
もうとっくに沈んでしまった
もう暗い
もう遅い
もう遠い
今は
あの山の向こうにでもあるんだろうよ
あの日壊れたものは
今も壊れたままだけどね
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
悪よりも、悪が善のふりをする偽善が最悪です。悪がはびこる時には、多く偽善の形を取ります。その偽善者が、キリストの敵となり、キリストを殺しました。偽善者の「難しいんだよなあ」「人間の性なんでしょうかね」「自分もそんな風です」などと、共感のように語る大嘘を許してはいけません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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