楽山の悪魔性2
 
 『對立を超えて 日本文化の將來』安倍能成著編代表者
 2021年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言う道学が道楽であるように、楽山が積読を減らすというとき、妄想を積んで置くことになります。今回の、文章の質の悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。むしろ、楽山は、そのサイコパシーを、書いて表すことによって、逆説的に、明らかにしてゆくのです。
 
楽山は、茶色に変色した本のページを画像として出していますが、省略します。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ですから、また、実際に読んでみても、決して、対立を超えて日本文化の将来を考えられるような人ではありません。
 
 
*積読本を減らしたい
この間から積読本を減らそうと頑張っているのだが、残念ながらなかなかうまくゆかぬ。でも今回はとりあえずこの本にざっと目を通してみた。
本書は昭和23年の座談会をまとめたものであり、昭和25年に出版されたものである。座談会の参加者は表紙にある通り、和辻哲郎、渡辺慧、前田陽一、谷川徹三、竹山道雄、小宮豊隆、木村健康、安倍能成である。
 
このように学識経験者の名前を挙げるのは、自己顕示の強い者が、憧れ、そして、妄想的に同一性をいだいている症状として、それこそ、自らの傲慢と高慢を表している症状なのです。
 
 
座談会の話題は、冒頭から明治維新は上からの革命で本当の革命ではなかっただとか、世界国家の建設を目指すべきだという主張があって失笑させられるが、その後は日本文化について有意義な対話が為されていて勉強になる。
 
楽山の主張の特徴は、全ての発言において、その根拠が全く示されていないことをもって妄想だと判断できることです。有名人なのでしょうか、私は、よく知りませんが、楽山の決めつけであれば、意に介する必要もないということです。
 
 
一読したかぎりでは、この中ではやはり和辻哲郎がもっとも尊敬され、一目置かれているようだ。安倍能成も存在感がある。ただ個人的には竹山道雄の意見にもっとも共感できた。
以下には、この座談会において特に興味をひかれた話についてメモしておきたい。
 
楽山は、有名人や学者の名前一人では物足りないのか、座談会の本を持ち出してきました。人数を増やしても無駄なのは、具体的でない記事の質と、記事の短さに表れています。楽山は、面倒臭いのでしょう。でも、読んだことにしたいのでしょう。読んだとアピールして、むしろ無知と無理解を表す結果です。
 
そういう短絡が、記事の短さに表れます。読んだことにはならないことが、記事に表れるのです。「興味をひかれた話について」の記事がこの量と質でしょうか。名前だけは、たくさんあげて、興味と言い、積読を減らしたいそうです。楽山は、楽山の妄想を積んで置くことになります。
 
誰が尊敬されているかが重要でしょうか。「一目置かれて」「存在感」「共感」・・思った通り、これが感想か・・と呆れるほど中身の空っぽな自慢の、誰がどうこうと、単純な褒め言葉を並べているだけです。読んだことにしたいだけだと分かります。楽山のメモは、哀れなほど、ランダムでインチキです。
 
 
*内村鑑三
まず本書には、師としての内村鑑三について次の証言がある。
Scan0047 内村鑑三と武士道、儒者
これは人によっては、封建的でけしからんだとか、古臭く堅苦しいととる人もいるかもしれないが、自分には非常にさっぱりしていて愉快に思える。
 
画像を出してこれだけです。何が "けしからん" のでしょう。これで、書籍の案内にもなりません。推測するに、内村鑑三、武士道、儒者のうち、武士道のことでしょうか。どう、さっぱりしているのでしょう。どうして愉快なのでしょう。楽山は愉快犯ということになってゆくだけでしょうか。
 
 
*日本語
二つ目は、日本語には「信ずる」という言葉はないという話。
Scan0048 日本語に「信ずる」はない
これは意外だが、「信ずる」は訓読みでなく、音読みであることを思えば合点が行く。
日本に無宗教者が多いのも、これと関係があるのかもしれぬ。
 
信だけでなく、愛、介、感、禁、高、講、察、・・等々、音読み+『する(ずる)』で出来ている言葉は多いですが、既に使われているのに、それが、どうして、日本語にないと合点が行くのでしょう。メチャクチャ雑な話です。さらに無宗教と結び付けるとは、言葉の現実的な中身を失っています。
 
 
*祈り
三つ目は、祈りについてである。
Scan0050 祈りの効果。カレル著「祈り」より。
祈りについては、良い効果があるという話を聞いたこともあれば、そうとばかりもいえないという話も聞いたことはある。たとえば入院患者たちを自分の病気平癒を祈ってくれている人々がいることを知らされたグループと、知らされないグループに分けて、その後の患者の様態を調べると、前者は後者よりもよくなかったという結果が出たという話など。
祈りは効果があるのかないのか、一体どちらが本当なのだろうなと思う。
 
楽山は、祈りについて、治癒したかどうか、つまりご利益の有無で判断しています。祈りの心が無い証拠なのです。祈りは治療効果があるから祈るのでしょうか、薬じゃあるまいし、祈りというものを効果の有無で判断する楽山の甚だしい無理解です。
 
もはや楽山の知能を疑いたくなりますが、ひょっとしたら悪質な揶揄かもしれません。判断の基準について、一般教養としても稚拙すぎます。上と併せて、もはや、マンガでしょう。しかも、面白くもなく、中身が、悪意の無思慮の揶揄以外、皆無です。
 
 
*藤井武
最後に本書中で、もっとも興味をひかれた箇所について保存しておきたい。内村鑑三の弟子の藤井武という人物は、次の主張をしていたという。
神の計画的な導き、思想展開
堕落した日本はいったん滅ぼされたあとに新生される神の計画によって、各時代、各地域において新たな教えが説かれた
 
神の計画を、人間は完全に走りえない、という分別を持つべきです。軽口で、しかも決めつけて豪語するから、このように、楽山のような外道の企みに利用されるのです。新生される神の計画など、誰も知っているとはいえず、毛ほども知る由もない楽山が、勝手な豪語に至っています。
 
 
キリスト教において来世問題(霊界? 転生?)を明らかにする
これらは一見したところでは新規なものにも思えるが、よく考えてみれば必ずしもそういうわけでもないことがわかる。たとえば一つ目についてはその根っ子にはキリスト教的な世界観があるのだろう。
 
キリスト教に折れる来世問題は、推測と創造であって、決定事項ではありません。おとぎ話的なところもあるでしょう。キリスト教の世界観を、キリストの愛と共感を知らずに考えてしまう楽山のような、無節操こそが、あらゆる宗教と信仰の敵となります。
 
 
また戦前の日本では大本教が、近々、世の中が立て直されることを予言し、騒ぎになっていたというからその影響もあるのかもしれない。あとの二つについては、スピリチュアリズム方面で語られていることだろう。よってこれらの考え方には目新しいところは特にない。
 
「新生」も「転生」も、キリスト教の中心ではありません。大本教は神道の一派でしょう。神の業は、神に任せる、という重要なポイントを抜きにして、心の問題を語れない楽山が、知ったかぶりで語る座談会は、もはや、楽山流に歪曲されたチープな雑言短絡のゴミ箱になっています。
 
宗教やスピリチュアルを気取って、ここまで、説得力のない詭弁を吐く人も珍しいでしょう。楽山の記事には、陳腐だったり、詭弁だったり、曲解だったりしますが、目新しい卓見のようなものはあった例がないのです。
 
宗教を知らない、神を知らない、聖霊を知らない、そして、人間を知らない、さらに、読書できない、理解できない、分別がない、理路がない、深い情緒がない、節操がない、立小便のようにメモと言って垂れ流す・・ネタにされた古本も気の毒です。
 
 
>思うに、宗教思想というものは個別に見ればあっと驚かされることがあったとしても、<
 
「あっと驚かされる」という、どこかで聞いたようなセリフでしか表せないことが、先ず、感想になっていないということです。この記事が、本の言葉とは思えなくなります。楽山は、知的にも、成人男性とは思えない遅れを、今回、あらわにしています。
 
 
横断的に広く見渡してみれば相互に影響されており、それぞれ単独で発生しているわけではないということがわかるものだ。新たな宗教は、神の啓示によって突然に説かれるのではなく、人と人の間から生まれてくるものなのだろう。
 
来世問題や世界観が、どう相互に影響しているのでしょう。楽山の説明が拙劣なために、宗教が、人と人の間から生まれるというのは、無神論が前提になった暴論に過ぎなくなっています。来世問題を語りながら、人と人の間?・・寄せ集めて、語ろうとして、滅裂です。
 
信じないなら、信じなくていいが、その無理解で、人を惑わすような、知ったかぶりをされては、たまりません。楽山は、宗教について、神と人の関係について、何も分かっていない。来世どころか、この地上、そして、人間について、何も分かっていません。真善美に、いちばん邪魔になる自己中です。
 
これも、憎まれ口として、楽山が、故意に言っているなら、その質と量が、そのまま、楽山の体質的な悪魔性だということです。理解できず、理解しようとも思わないで、迷惑な雑言だけをまき散らす楽山には、一日も早く黙ってほしいとだけ、切に思います。
 
 
信者にとっては自分の信じる宗教こそが絶対的なものに見えがちではあるが、実際のところはどの宗教も相対的ものにすぎないのである。
 
楽山が、そういう判断をするということは、自分は、絶対の立場に立っていると言っているようなものです。楽山は、絶対に絶対ではなく、人間としても、情けないほど、人間としての自立した思考を持っていない人です。偏見だけで、宗教をまとめたつもりでしょうか。・・病気です。
 
何が絶対ということなのか、全く分かっていないまま、軽口で絶対性を否定する楽山です。神の絶対性は、信じる前提ですが、絶対性自体を、人が理解することはありません。神に対しては、人は、絶対性ではなく、ただ、神と違う己の、人としての相対性を弁え、恐れ、正直に祈るべきなのです。
 
そういうことが全く理解できない楽山は、宗教を、ゆえに、神を、相対のオモチャ箱に入れようとするような、恐ろしい傲慢を表しています。やはり、この記事は、本の中の文章ではなく、楽山が歪曲した理解つまり曲解を書いているだけです。人間を見ないで宗教を語るとこうなります。
 
 
自分はこの辺りのことに気づくことができず、上の三つと同じようなことを説くとある宗教を絶対視し、のめり込んで失敗した過去があるのでひたすら反省である…。
 
それ以前に、このクズのような記事を反省してほしいと思います。こうやって、自己愛性人格障害の楽山は、宗教なんかクズだよ・・と、言いふらすつもりなのでしょうが、ここまで来ると、宗教と神に対する、楽山の病質からの、悪魔性に満ちた、あからさまで不細工な、自己破滅的な侮辱でしかありません。
 
よく、反省・・などと書けるものです。過去を反省した今の自分は正しいというニュアンスを読み取ってほしいと思います。楽山が、本当に悔いて反省することは、一度もなかったと思います。病質から言っても、記事を見ても、これからも、あるとは思えません。
 
自己愛性の病質とはこういうものなのか、進行すると、これほど人間離れして、人格が壊れてしまうものなのか、という感を新たにしています。澱(おり)のようなものになって、掬いようがなく、救いようがない、それほど、手の施しようのないものになっています。
 
 
干からびる無神教カルト

干からびる無神教カルト
 
 
(2021年06月29日)
(2022年07月01日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
最終2行は、そうでなければ、物や肉体の奇跡話だけでは長続きしないし、救われないと思うからです。現代、物や肉体の奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないわけだし・・、人間の心を疎かにするのは信仰ではないと思います。
 
超常の話が増えれば増えるほど、楽山のような、何も分かっていない部外者が、偽善者として蔓延り、霊能者気取りや学者気取りで、本来のキリスト信仰を、否定しようとするでしょう。それに対して、逐一、批判する以外に方法はないのです。
 
楽山の攻撃性は、罵詈雑言よりも、理路の散逸と、共感の欠如です。人間と遣り取りをしているとは思えないのです。自己愛性人格障害の怖いところは、罪悪感がなく、極めて諦めの悪い執拗さです。こちらの頭も心も、煙に巻かれたように、疲労しボンヤリしてきます。
 
 
あるカルトの人は、キリスト者であることを疑ったところ、ヒステリックになって、何やら書類のようなものを写真に撮って出してきました。それが信仰の証明になると思っているのです。役所の手続きか生命保険の契約のように信仰を考えているようです。
 
信仰の証しは、免許証でも保険証でもありません。信仰の救いは、神に向かって祈り、自分を見ていただく以外にありません。人が祈る時、既に、神によって全て見抜かれています。神は、人間からの正直な告白を待っておられます。人には、それ以上捧げるものは無いからです。
 
聖書において救われた人々を見ると、救われるためには、完全な正義ではなく、完全な善でもなく、神の前に、努めて正直であることだけが必要十分であります。正直以外、神には通用しません。神の前で人は生きていますから、常習的な神への嘘吐きは、救いから、最初に除外されます。
 
教条絶対を語る者は、言葉だけでなく心の底まで見抜かれる神の存在を信じていないと思います。私たち信仰者が地上を生きることは、神の前で生きることであり、神に向かって祈ることであり、人の体裁も善行も正義も誉れとはならず、正直な祈りだけが信仰の義となる生き方なのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
 
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深く
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
 
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
(※ 40歳頃の作)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の気楽さで宗教を考えていると、宗教も信仰も何の意味もないものになるでしょう。そういう刷り込みを楽山はしているのです。そうやって、楽山自身が、全く救いようのない前途を自ら表しています。楽山に期待するのは、とうに諦めています。楽山の影響を誰も受けることのないように願っています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
 > 長期間「攻撃的プロフィール」の被害に遭っています。
棒氏は、自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けているかのように書いてるけど、そういう嘘はよくない。
しっかりと霊的人生観をもち、閻魔様と向き合うときのことを想像し、反省して下さい。
 
楽山は、数えきれない嘘を吐き、詭弁を弄してきました。楽山こそ「自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けている」つもりで、自らへの批判を無視しているわけで、その時点で、楽山の発言の信頼度は、ゼロなのです。
 
「嘘はよくない」・・ブーメランです。楽山が、楽山に言われています。自分の嘘を省みず、よくも、そんなことが言えるものだ・・と、ブーメランは帰ってくるわけです。自分が言えば言うだけ、自分が落とされてゆきます。楽山は地獄の憑き物です。
 
人生観に「霊的」を付けるのも教祖願望の表れでしょうか。「閻魔様」と向き合うことになるのは誰でしょう。超常趣味で、嘘吐きで、詭弁屋の、楽山は、焼きが回って、いずれ、焼き切れるのでしょうか。良きものを、一度も、しっかり持ったことのない楽山が、身の程を知らずに、吹いています。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
(省略)
自分は間違ったと気づいても、だんまりを決め込み、うやむやにする人が多いですから、これだけでも立派なことだと思います。
 
「自分は間違ったと」気づかず、あるいは、認めず、隠して、無視するのが、「うやむや」人生の楽山です。人に「立派なこと」を教える資格など、あるはずもありません。堕ちてゆく楽山は、落山でしかありません。このブーメランは、隠し事の報いでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
では、HSの場合はどうかと言えば、他の方が提示してくれた画像を使わせてもらうと、こうなってます。
伝道目標は、教祖が期限を設けて決めていることが明らかになった時点で議論終了です。
 
教組みたいになって目立ちたいだけのペテン師、楽山の、議論に見せかけた自己中妄想語りは、楽山の嘘と詭弁と無反省と無責任と自己愛性パーソナリティ障害が明らかになった時点で、邪悪な言論無資格であり「終了」というより、始まってもいなかったということです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング