油膜の視線3
 
 「第三講 ヨブの哀哭」(『ヨブ記講演』内村鑑三)
 2020年05月30日
   を改めて批判。
 
 
楽山は、信仰という重要なテーマについて、要点をメモしておくと言っているようですが、楽山の言う要点とは何なのでしょう。メモとは何なのでしょう。楽山は、油膜のように、ボンヤリした視野で、ボンヤリした言葉の筆致で、惑わしの無神教カルトを宣伝してきます。
 
個人的なメモならば楽山のノートにでも書いて自分だけ読めばよいのに、メモと言いながら、公開して人に見せようとする自己顕示欲と、さらに、メモと言いながら、易々と"タブー"に触れてしまうところに、今までの例のごとく、楽山の厚かましさが表れているのです。
 
 
内村鑑三の『ヨブ記講演』の第三講を読んだので、例のごとく、その要点をメモしておきたい。
・ヨブ記第三章の研究。
・七は完全を意味する。七つ目の艱難で、艱難はその極に達する。
・友の見舞いを受けて以後、七日七夜、言葉を発せず。
・ヨブは艱難にあっても、神も社会も他者も呪わず、「その生まれし日を詛った」。
・ヨブは死を思うも、自殺は考えなかった。
・聖書にある自殺の場面は四ヵ所。イスカリオテのユダ、サウル(サムエル前31)、アヒトベル(サムエル後17)、ジムリ(列王記略上16-18)。
・「人の苦痛は人の慰謝を以て慰めることは出来ない。ただ主キリストを知りてすべての苦難に耐え得るのである」。
・パウロはキリストを知っており、ヨブは知らなかった(コリント後4-8以降、ヨブ42)。
 
パウロは、新約聖書の人です。ヨブは、旧約聖書の登場人物です。ヨブが、イエス・キリストを知るはずはないのですが、ヨブはキリストを知らなかったと、わざわざ書いているのは、どういう意味でしょう。旧約で預言されたメシアを知らなかったという意味で言っているのでしょうか。
 
この、どこにも広がらない紛らわしいメモは、何なのでしょう。ひょっとして、デタラメなのでしょうか。口から出まかせなのでしょうか。要点にも、ヒントにも、記事の序文にも、まるで、なっていません。楽山は、「読んだ」と言って、読んでいません。理解せずに、悪口を書く人です。
 
 
キリスト教において自殺はタブーになっているという話はよく聞くけれども、キリスト教とホスピスの関係を思うと、自殺はタブーとはいえ、それは何が何でも生きられるだけ生き続けなければならぬというわけではなく、延命を拒否して死を受け入れることは必ずしも否定していないようにも思える。おそらくはこの辺りについては、外部からはうかがい知れない難しい議論はあるのだろうな。
 
楽山の気安さが表れています。「キリスト教において自殺はタブーになっている」ということを平気で言ってますが、実際には、キリスト者も自殺することがあります。そのことは、本人にとってはもちろん、関わった人々にとっても不幸としか言えません。
 
そのことを、恐らく、楽山は、キリスト教に従わなかった人という見なしで済ませてしまうのでしょうか。「難しい議論はある」と思うならば、書かないことです。それと、ホスピスや延命拒否のことは、自殺とは切り離すべきことです。なんでもかんでも、おとしめる材料にする楽山です。
 
タブーは、禁止事項とか禁忌ということですが、自殺というのは禁止されたら、しないものなのか、なぜ、自殺は禁止となっているのか、ということが、ふつうは、考えるべき問題となるのですが、禁止か、禁止でないか、ということしか、楽山は考えることが出来ないようです。
 
自殺してしまうと、この世からは手の伸ばしようがない、ゆえに、自殺だけはしてくれるな、という切実な思いが表れていることなども、楽山は気づかないのでしょう。タブーとか戒律ではなく、最も大きな悲しみとしてとらえている、という視点が、楽山にはないのです。
 
そして、楽山は、代わりに、ホスピスの話をしています。ホスピスの「病からの死を受け入れること」と、自らを殺すという自殺の問題は、決して、同じ問題として考えることは出来ないはずですが、楽山は、"死を受け容れる"という字面だけで、同列に考えてしまうのでしょう。
 
このように、問題意識がズレてゆくのが、楽山の、学習と成長のない、字面の連想だけの思考の特徴であります。そうして「うかがい知れない難しい議論はある」などと、実にお気楽に人任せにしてゆくのです。書く必要など、見せる必要など、考える必要など、どこにもないのが、楽山の文章です。
 
こうして、読む側にとってはメモにも要点にもならない文章を、書いて見せてくるのが、楽山の自己顕示欲の特徴です。こういう自己顕示欲だけで、いちゃもんを書いて、知識人を気取るのが、楽山ですから、楽山の相手をすることは、楽山の肴(さかな)になることに他なりません。
 
こういう楽山の主張を、何気なく読んで、何となく頷いてしまうと、受け取った側の思考も影響を受けてルーズになってゆくのです。かといって、反発すると、今度は、楽山の執拗さに疲労させられてしまうのです。関わらないこと、関わったら直ちに逃げること以外にはありません。
 
こういう意味で、楽山の文章は、キリスト教とキリスト信仰について、さらに宗教一般について、無意味で無益なだけでなく、有害だと判断しています。相手にしないでください。楽山は、ケチを付けているだけの、参考にならない、中身のない、いちゃもん屋に過ぎません。
 
 
ちなみに仏典では、悟りを開いた僧が自死する場面が描かれていたりするが、釈迦はこれについてはキリスト教一般とは異なる見解を語っている。当然のことながら、一つの事柄についての判断は、宗教によって異なるということなのだろう。
 
そして、異なる宗教を巻き込んで、釈迦の見解がキリスト教とが異なるとか、一つの事柄についての判断は宗教によって異なるとか、同じようなことを2回言ってるような書き方で、記事を終わるのです。これが、読者にとって、何の要点に、何のメモになるというのでしょう。
 
自らの汚水の中を、自らの濁った眼では見えないために、歪んだ角膜の表面だけで眺めているような楽山からの、雑で不鮮明で不透明で、かつ、無反省で無責任で、退屈で迷惑な思考・思想・宗教観の駄文に染まらないように、決して近づかないでください。
 
 
油膜の宣伝ビラ

油膜の宣伝ビラ
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月06日、再録+加筆)
 
 
 
  油膜
 
油膜を洗い落とす
別の油は塗らなくてもいい
濁ってしまうから
洗うだけでもいいから
落とせないと知りながら
洗い落とそうとする
顔の油膜
眼の油膜
視界の油膜
記憶の油膜
死んで猶(なお)
汚れて更に
水を含んで
湧いてくるから
 
 
  ぶっつけ問答
 
企みや謀(はかりごと)に対しては
 
人となりを見る そして
 
倶(とも)に天を戴(いただ)かず
血の果てまで続く復讐は
百代祟(たた)りて余り有る可し
 
これほどの憎しみを
そっくり神に委ねようというのだ
 
でも言ってしまった
 
鼬(いたち)の最後っ屁として
負け犬の遠吠えとして
 
今一番つらいことは?
眠りから覚めることだ
 
今一番後悔していることは?
生まれてきたことだ
 
生まれる前に戻りたいと?
戻れはしない既に生まれたのだから
 
ではどうしたいと?
今どうするわけではない しかし
いずれ最大の罪と知りながら
最大の罪を犯すことになるか
あるいは耐えるだけ耐えて
遊べるだけ遊んで学べるだけ学んで
糧食尽き果てて息絶えるか
 
委ねたお方に任せるのでは?
任せたいが肉体が弱すぎる
 
まだ信じてはいると?
信じていると思ってはもらえまい
しかしまだ拘(こだわ)ってはいる
 
では聞くが自らの憎しみに対しては?
ゆえに知る
罪があれば裁きがあり
いずれ罰が下ると
 
自らの悲しみに対しては?
ゆえに知る
一縷(いちる)の憐れみの絆あらば
いずれ覚めることのない眠りを賜(たまわ)るであろうと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
オネスト井上
@honest_inoue
自分の思想や信条が自分にとってはベストであっても、他の人には必ずしもそうではないということを世の中の人々は認めています。
でもカルトはそうではない。
自分の宗教こそ唯一正しく、それを他の人は知らないといけないと本気で信じている人々です。
そりゃ、相手していると疲れますよね。口を開けて冷や汗をかいた笑顔
午前2:18 · 2021年6月7日·Twitter Web App
https://twitter.com/honest_inoue/status/1401589427130888196
 
引用元を批判する気はありません。引用しているカルト思想の楽山を批判しています。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに、何を言われても、自分の思想と信条、つまり、自分は整っていて、分かっているという我執から逃れられず、都合の悪いことは無視し続けて、キリスト教否定など、同じことを、無反省・無根拠に繰り返してきます。
 
しかも、一切、責任を負う気がなく、学者気取り、知識人気取り、霊能者気取りで、丁寧語で書いてきますが、批判されると、嫌がらせのようなことを返すだけになります。楽山は、一種のカルト思想~妄想症と言ってよいでしょう。正直と誠意から、最も遠い人です。
 
楽山の相手をしていると、疲れるだけでなく、長期に及べば、人格を破壊される恐れがあります。楽山は、罪悪感や羞恥心がないので、成長のための学習能力が欠落していると言ってよいでしょう。ゆえに、粘着して訂正不能の他害性を持っています。丁寧語と婉曲表現にだまされないようにしてください。
 
なお、楽山は、体質的な精神の歪みのために、だましの詭弁は持っていても、能力においても、視野においても、誰かの助けになるようなこと、糧になるようなこと、ためになるようなことを、一切、提示することが出来ません。分かっているように見せかける芝居しか出来ない人です。
 
楽山のような最も悪質な詭弁屋は、まともな理路に見せかける体裁だけの詭弁と、訂正不能の妄想とを、組み合わせてきます。柔和芝居や謙虚芝居として、丁寧語、曖昧表現、若者言葉を使うこともあります。決して、真に受けないでください。楽山に関わらないでください。言論の敵です。
 
 
思いついたので書いておきますが、あるとき正しかったか、光る言葉を語ったか、何か良いことを言ったかということよりも、生きてゆく間、反省と修正と学習が可能であったか、勉強不足を自覚できているか、ということのほうが、はるかに大事だろうと思っています。
 
その見地から見ても、楽山には、受け取り方の幅がないということです。奇跡といえば、実際あったのかどうかだけにこだわり、いちばん大事なこと、人間の心に響くキリストの共感には、全くの無頓着で不感不応なのです。この視野の狭小化は、自己愛性人格障害によるものなのでしょう。
 
二千年前に物や肉体の奇跡があったことを聖書が書いてあるからといって、では今は?・・と考えると、そのような奇跡、先ず、めったに起こっていないわけです。キリスト者が生まれるには別の何かがあるのでは?という問いに、楽山は進めないのです。そこから進歩しない異常が病質なのです。
 
旧約と新約において、様々語られる超常現象としての奇跡が、あったかどうかにかかわらず、キリスト・イエスは、もっと大切な魂の奇跡において、充分に、救い主なのです。それを理解しない楽山は、学習も成長もしないまま、割れて捨てられ汚れた能面のように、醜い表現と表情をさらしています。
 
もっとも大事なこととして、脱落者あるいは被害者として、ひょっとして、ヤケクソから自殺か、犯罪者にでも落ちかねない人が、キリスト者になる、ということは、地上の理不尽によって生じた多くの怒りと憎しみを、キリストに、神に、預け任せるという魂の奇跡なのです。
 
こういう信仰者の決意の重さを、楽山は、まるで考えておらず、彼の多くの怒りと憎しみを狡い復讐だけに当てて、刹那的な悦楽だけを求めて、嘘と詭弁を弄している生業(なりわい)です。そういうことを続けているあいだ、キリストも神も、楽山が人間として理解することはないのです。
 
楽山は、心の傷の癒しも手当ても、何も持ち合わせないまま、ホラー趣味と、キリスト教へのいちゃもんに、現(うつつ)を抜かしているのです。誰も癒やせない、誰も立ち直らせ得ない、そういう人が、自己愛のためだけに書いているのが、楽山のブログとツイッターであります。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
残念ですとかガッカリしたなんてほとんどは「お前が私の思い通りに動いてくれないのがムカつく」の言い換えだからシカトでいいよ。理想押し付けガッカリクソ野郎の操り人形になるために生きてるわけじゃねえだろ?「そうですか。それは大変でしたね。ほなさいなら」で終わりでいいよ。気にしてたら損。
午前8:14 · 2021年6月8日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1402041246193913856
 
引用元ではなく、引用した楽山を批判しています。楽山の、わざとらしい丁寧語による悪意を連想します。「ほなさいなら」で終わるならいいけど、楽山は、いつまでも、いつまでも、減らず口で、ネチネチと書いてくるのです。気にしたら損です。誰の役にも立たないのですから。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
濁った眼で見ても、自分は見れない。ゆえに、ますます濁って、何を見ても、その真実に近づくこともなく、先入観と偏見と思いつきと妄想の奴隷となって、こう書いておけばいいじゃろ・・という、ごまかしと飾りで、うまくいっているつもりになってしまうのが、楽山の病気です。
 
楽山は、新しい意見を、受け取ることも、発想することも出来ないようです。だから、受けのよい丁寧語で書いて、既存の意見を、あたかも、広い視野を持っているかのように、しつこく繰り返してきます。そのように繰り返すことこそが、学習不能の病質であることを、さらに表す経過と結果です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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