政教分離について2
    ・・信仰者の立場から
 
政治と
宗教さらには信仰は
別に考えるべきです。
 
「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」
という聖句もあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
イエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
 (マタイ22:21より、新約聖書)
 
神はキリストは信仰は正しい。
といっても
信仰によって政治的決定をすることは出来ません。
 
人は不完全なので神の正しさを知りえない
という節操が信仰にはあるからです。
 
政治は国と国民の関わることであり
信仰は、あくまで個人の関わりです。
その違いは弁えなくてはなりません。
 
キリスト教思想も
神に関わることですから
なおさら
キリスト教について
人が語ることが絶対的に正しいということはなく
むしろ人がキリスト教だから正しいと思い上がり
政治の知識と視野を無視すれば
それは、ピエロに過ぎません。
 
政治を信仰のようにシンプルに考えることは出来ず
それぞれについての思考と思想と視野を持つことが必要です。
 
政治の思考と思想は、他者と公に向かいます。そのベースに、知性、分析力、説得力が必要です。やさしいことではないと心得るべきです。
 
宗教と信仰の思考と思想は、先ず、自分が癒され救われるために、次に、福音伝道のために、努めることです。そのベースは、人間らしさがあればいいのです。
 
したがって逆に、政治と宗教において、
信仰によって、一方を肯定し、他方を否定するとか
どちらか一方に決めるとかいうことはありません。
 
キリスト者が政治を考え憂えて
さらには政治家になることは
一向に構わないことです。決して禁止ではありません。
聖句はそのことをも示しているように思います。
 
ただ重要な戒めとして
決して自らの主張と思想と政策にキリストの名を冠してはいけません。
 
その政策が正しいかどうか
ご存じなのは
その裁きを下せるのは
神だけだからです。
 
神が人を引き寄せるのであって
人が神を引き寄せるのではありません。
 
信仰は人のものでも
与えるのは神のわざであり
 
政治は与えるも受けるも人のわざであります。
 
 
ここで、もう一つの問題があります。
政治思想も
信仰についての考え方も
一人の人間から出ているならば
その人格と言動において不整合があってはならないということです。
 
つまり、嘘ばかり言っている人間が
政治の虚偽について批判する資格はありません。
 
自身が権威者のように横暴に振る舞いながら
政治の権威主義を批判する資格はありません。
それは嘘っぱちの言論になってしまうからです。
 
違うテーマだからいいじゃないか
なんてことはありません。
 
同じ一人の人間が
相反するに方向に行くという言論は
その人自身が嘘ということになります。
同時に人間が正反対の二つの方向に行くことはあり得ないからです。
 
権威主義者で人を人とも思わず
いつも上から教える立場に立ち
自己中心で
何か言われても聞かないのに
自己主張だけはする
というのは明らかな偽善です。
そういう偽善者は実際にいます。
 
そのような偽善のあり方は
政治的主張の内容がどうのこうのではなく
まず人間として不誠実であり虚偽であることを
人格と密接に結びついているところの
信仰に反する偽善として
誰よりも神によって
信仰の世界で否定されるからです。
そして社会においては人道によって否定されます。
 
 
権威主義で大嘘吐きの偽善者で
指摘されて批判されて弁明の余地がないのに
政治の不正を批判している者たちがいます。
他のブログにも図々しくコメントを書いていました。
 
自分で書けばボロクソ節かボンヤリ言語になって
理路が滅茶苦茶なので
しばしば自分のブログに転載記事を載せることもあります。
 
しかし、それは
盗人が防犯ポスターを貼るようなものです。
 
自分の罪と偽善の問題を棚に上げて
偽善をごまかすために善人ぶっているだけ
という、さらなる欺きにしかなりません。
 
悪と罪は
それを悔いて改めることでしか解決できません。
 
いくら良さそうな他者の意見を載せても
不正を批判するような意見を載せても
その分、自分の醜さと白々しさが際立つだけです。
偽善が重ねられるだけなのです。
こういうのをブーメランと言います。
 
罪を認めず
悔い改める気がなくて
ごまかすしかなくなって
反省も罪悪感も羞恥心も病識もない者ほど
虚偽をごまかす虚偽を重ねてゆくのです。
人の前で。
神の前で。
 
 
神への告白をするなら
祈るなら
神に対してだけは
人の精いっぱいの正直によって祈り
故意の嘘、飾り、隠し事、などしないように
本気で努めるのが信仰です。
 
私たち信仰者は
そのような主を知ったのですから。
 
祈る時は一人で祈ってください。
皆で祈るという形式はありますが
信仰に直結する祈りは一人でするべきものであります。
自分の罪も醜さも隠さず正直に祈るためです。
 
 
祈りは 問いなのです

祈りは 問いなのです
 
 
(2020年07月07日)
(2022年07月11日、再録+加筆)
 
 
 
 宗教と狂気(抜粋)
 
聖書を読むということは、それを書いた、あるいは書かざるを得なかった著者たちの目的とインスピレーションを信頼するということなのであろうか。
 
宗教は古い新しいを問わず狂気へ走る危険性と風俗習慣へ堕してしまう危険性を常にもっていると考えるべきであろう。それが、堕落した宗教に、また、反宗教に、偽善を隠し正義の仮面をつけることを可能にしている。
 
宗教だけから戦争が起こるということは、少なくともキリスト教においてはありえないことのように思われるのだが、利害関係や政治的な争いに宗教がからむと戦争は狂気とも言うべき残酷なものとなる。
 
 
  金をまわせ
 
資本は
投資されなければ
資本ではない
お金は
まわらなければ
お金ではない
お金がたまって
まわる予定もなく
資産という大きな塊になって
守られるとき
貧富は広がり
消費者は減る
そうして広がった
底辺から
お金をまわせ
金をよこせ
金を出せ、と
叫びが上がる
このように
ふくらみすぎて
動かない資産は
禿げたかを呼び
鷹を呼び
危機を呼ぶ
 
 
  テロリズム
 
テロが起こると
暴力には屈しないという類の
声明が発表される
でも国家は力で成り立っている
ときに暴力的でさえある
力でテロを抑えて
またテロが起こる
テロは窮鼠の手段だ
国家の力に対抗できるなら
内乱・戦争ということになる
それだけの武力がないから
窮鼠は猫をかむ
テロが起こる
テロを封じ込めようとしても
なかなか難しい
鼠はすばしこくて
どこにでも現れる
人が追いつめられて
窮鼠になる原因がなくならない限り
テロはなくならない
多くは貧困または貧困+α
あるいはα+貧困の脅威ないし危機感
つまり窮鼠をつくらないのが
よい政治家ということになる
 
 
 
 イザヤ書53抜粋
 
53:2
彼は主の前に若木のように、
かわいた土から出る根のように育った。
彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
われわれの慕うべき美しさもない。
53:3
彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
 
 
 イザヤの預言について(抜粋)
 
イスラエル人が
期待していたメシアは
ダビデ王の再来ではなかったか
つまり武勇と知略によって
イスラエル統一国家を再興する
政治的宗教指導者
なのに預言者イザヤは
虐げられた末の
弱気でもあるかのように
屠(ほふ)り場に引かれてゆく小羊
の道を説いている
 
もしメシアがダビデのように現れ
敵を粉砕し王国を成していたなら
(少なくとも私という)
クリスチャンは今この世にいない
 
神の御旨によって
侮られ捨てられ打たれ
砕かれる悲しみの人を
敢えて預言したイザヤ
それを成就し
人の不義と罪を負われ許される
主イエス・キリストゆえに
主の打たれた傷によって
癒された人々の一人として…
 
今一本の蝋燭(ろうそく)を灯し
小皿に立てて祈るだけの
クリスマスを過ごす
(私という)
クリスチャンの端くれがいる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自己顕示欲によって、気安く世辞を言い、読書しましたと、学者の名前を出し、引用して、自分も同格であるかのような口調で書いてきます。理路が整わないので、感想は、安っぽくて、感動したとか言ってきますが、その感動を表す独自の言論を持ちません。全て自慢したいだけの芝居なのです。
 
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒:今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となったパリサイ人や、多くの偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
 自己愛が強く自己中である。
 自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
 平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
 深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
 後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
 罪悪感、羞恥心が見られない。
 アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
 中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
議論:
 議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
 相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
 理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
 自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
 読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
 様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
 分かっているという我執から離れられない。
 非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
 人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
 真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
 ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
 トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
 しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
 「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
宗教:
 反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
 キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
 HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
立花氏は、ずいぶん熱心に、幸福実現党の政策を支持しているが、
それほどの支持者からも、幸福の科学は拒絶される存在なんだね。これはちょっと可哀想。
2022年7月9日
 
「可哀想」は揶揄です。楽山が、上から眺めて、他者を侮辱するときのセリフです。こういう書き方をする人は、真剣に真実を追求する意志がないと思います。誰からも、ひどい人と思われておかしくないのが楽山という人です。上に列挙したように、まともな人ではありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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