印象操作と陰謀2
 
   楽山日記(a)
 
 
HSを脱会したと言い、アドラー教を宣伝し、似たような体質を持ち、クリスチャン芝居をし、一方で、キリスト教に、幼稚な疑問を当てつける否定の印象操作をする、という、とても、いい加減な楽山が、また、反省もなく、訂正もなく、よりによって、カルトとマインドコントロールについて書いてきました。
 
自己正当化の言い逃れであることは言うまでもありません。このように、自己中で、何を言われても無視して平気でいられるのが、楽山やシャロームなどの軟派カルトであります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だろうと思っています。
 
 
>・【書評】「カルト宗教信じてました。」を、カルト教祖の息子が解説します!<
 
楽山は、こういうところを、利用して、カルトはひどいですね、などと言う感じで、アンチカルトに共感があるかのような文章を書いて、自分は安心で大丈夫と、カルトとは無関係を装うのでしょう。そのための賛同の受けねらいの意図のようです。
 
 
*カルトはどこも一緒
この本はまだ未見なので、こういう動画を見ると読みたい気持ちが高まってくるなあ。
「カルトはどこも一緒…」という言葉については大いに共感する。紹介されてる書籍はまだ読んでないけど、他のカルト関連の本を読んでても、元信者さんらの言葉を聞いてても、そういう感想はもちますね。
カルトによって、その程度、言葉遣い、信仰対象などに違いがあったとしても、基本的なところは同じだなあと。
 
楽山の「気持ちが高まってくるなあ」は悪意が興奮することだろうと思います。楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分かないっぽいのに驚いたと言ったことがあります。心霊や超常の話に興味があることを表し、仏様や霊の気持ちが分かるみたいなことを言っています。
 
カルトなどの超常現象に惹かれるゆえに、カルト寄りの楽山が、今回は、硬派カルトの、うるささや汚さや体罰的なことを表している動画を見て賛同し、ヤバいことをする奴らは特別だからと、共感を装いながら、自分は全然違うという印象を吹き込もうとしています。
 
つまり、カルトはどこも一緒で、おかしいところがすぐ分かる、という印象操作をしています。実際は、硬派カルトだけでなく、友だち関係を求めてくるような、やさしさを装う詐欺みたいな、軟派カルトというのもいると思います。そして、その典型が、無神教カルトの楽山です。
 
楽山の主張は、自己中、身勝手、訂正不能で、広まれば社会悪になる可能性を持っていると思います。そして、楽山は、遣り取りや、交流が、全く成り立たない人です。相手にすると、とても異常は疲労を与えてきます。関わってはいけない人です。楽山は、理路も感性も偽物で、有害だと思います。
 
つまり、カルトが、どこも一緒ではないことは、楽山とシャロームを見れば分かるわけです。つまり、この二人は、先ず、受け入れられるために、やさしい人柄を装ってきます。それが、シャロームの丁寧語と、楽山のボンヤリ言語なのです。
 
しかし、よく見て考えながら付き合っているうちに、宗教についての記事やコメントから、宗教と信仰についての無理解や、社会悪につながりやすい性質、つまり、自己中心、訂正不能、無反省、自尊過剰、理路の単方向、他者への軽蔑と上から目線などが見られます。
 
表面的なものや法制度上のことに話をすり替える意図ですから、それに乗って騙されてはいけないのです。カルトは、犯罪が明らかになるまで、カルトではない、と言いたい楽山は、その発言からカルトに甘いこと、むしろ、カルト寄りであることを明らかにしているわけです。
 
カルト批判ではなく、自分は違うと見せかけるための、カルトのひどいイメージを借りて批判に見せかける偽装なのです。カルトの定義を、警察につかまらなきゃカルトじゃないよ、と印象付けたいのです。直ちに取り締まることは出来ませんが、批判するのは自由です。
 
 
*にがい顔
エホバの証人については、自分は、二、三の思い出がある。一つは社会見学のつもりで、王国会館に行ってみたときに、自分の隣りでにがい顔をして座ってた男性に「信者ですか」と聞いたら、ぶすっとして首を振っていたことだ。
そのときは、信者の奥さんに無理矢理つきあわされて、ぶすっとしてるんだろうと想像しただけだったが、今にして思うと、いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態というのは、よほどのことだったろうなと、前以上にこの男性に同情してしまう…。
 
今度は、カルトは愛想が悪い、ぶすっとしている、などと言う印象を与えようとしています。自分は全然違うでしょ・・と言いたいのでしょう。典型的な印象操作です。それと「みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌」云々・・は、先入観による乱暴な決めつけでしょう。
 
「いい年した大人の男性が、みなが笑顔でいるところで、一人だけ不機嫌を隠そうともしない状態」
 
いい年した大人の男性は、みなが笑顔でいるところでは、笑顔でなければいけないでしょうか。楽山の見方は、一面的で、人それぞれの事情をかえりみない、みんな井戸端会議か社交みたいに見なして、笑い合い世辞を言い合うというのは、相当、偏った奇妙な考え方だと思います。
 
ぶすっとしていることは、カルトを示すこととは関係ないでしょう。こういうところにも、印象操作と刷り込みの意図を感じます。このように、楽山の理路というのは、根拠と成りえないことを決め手のように語ってくるので、真に受けてはいけないのです。
 
カルトが、誘導する目的を持っているなら、柔和そうな、パリピのような、楽しそうな、友達みたいな、物わかりのよさそうな、にこやかに近づいてくるキャラを装っても不思議はない。まさに、楽山とシャロームは、薄っぺらに表面的に、そういう柔和芝居のキャラで近づいてきます。
 
楽山の「だなあ」「ていうか」といった若い人に共感があるかのような書き方や、以前の、いかにも、共に自分も考えています的な、共感ありげな「自分も気をつけなくてはならないことではあるけど」、「やっぱり正しいように思える」などという婉曲的な言い方も、共感芝居の刷り込みでしょう。
 
 
*マイコン
もう一つの思い出は、近所の本屋の店員さんがエホバの証人だったので、「輸血拒否っておかしくないですか」と聞いたら、微笑を浮かべつつ、ゆったりと頷き、「勉強すれば分かりますよ」と言ってたことだ。
 
これも、カルトの極端な主張です。誰もが、おかしいと感じることを書いて、自分はそんなことは言いませんよ、という暗示によって、楽山は、カルトと対極にあり、カルトを分析しているかのような態度をアピールしてきます。
 
しかし、このような、あざとい、戦術的な言論の持っていき方が、既に、十分に怪しいのです。これは、今までの経過の中で、シャロームの肩を持ったり、当たり前や幼稚なことを、さもキーポイントであるかのように語る楽山の口車に表れてきたことです。楽山は、策士なのです。
 
楽山もシャロームも、世辞以外に、非を認めたことがありません。弱さ、不完全さを実感しているような文章を書いたことがありません。見せかけで書くのは、動機が分からないような文脈での、わざとらしく謙虚ぶる態度でしかありません。
 
楽山は、ペテンの芝居をするので、要注意です。自己顕示欲が強いために、陶酔するような芝居もありますが、心の感性が鈍麻しているために、子供だましの下手さ加減が分からないのです。文脈の流れで読むと、気色が悪く、わざとらしい大根役者でしかありません。
 
 
ちなみに先の記事に取り上げた本だと、疑問に対して「今にわかるよ! もっと勉強せねば!」というのは、マインド・コントロールで使われる常套句らしい。常識的にはおかしいことに思えるかもしれないが、教義を学ぶと真実だと分かりますという風に、教義を学び、その通りに思考することを促す言葉。
 
楽山の、友だちのように親し気に近づいて、勉強しなくても分かります、分かるでしょ、みたいな、ねちねちした誘導の仕方も要注意~恐怖なのです。楽山は、カルトの特徴の目立つところだけを書いています。目立たないところに潜ませる誘導や印象操作や詭弁が、本当は怖いものだと知ってほしいです。
 
 
当たり前に考えてみれば、その宗教の教義を学ばなければ分からないというのは、ようするにマイコンされなければ分からないということなんだから、そんなことは分からないままでいるのが正解なんだけども、教団の中にどっぷりつかっていると、この辺りの常識を見失ってしまうのが悲しいところだ。
 
楽山は、カルトの教義と言うべきところを、宗教の教義を学ぶことが、マインドコントロールされることだと言っています。殆ど、カルトと宗教を区別しないところも、宗教は、みんな、いっしょに、ひっくるめている、いい加減さが、滲み出ているのでしょう。
 
マインドコントロールされて初めて宗教が分かるなどと言う楽山は、カルトではない本当の宗教の恵みと幸いを何一つ分かっていません。宗教もカルトも一緒にして、侮辱してくるのが楽山です。そして、楽山こそが、宗教をバカにしながら、自前の、一種異様な無神教カルトを広める教祖願望なのです。
 
楽山もシャロームも、宗教人ではなく、宗教を利用して、カルト的な教えを広め、自分の自尊心を満足させたい病的ナルシシストだと思っています。彼らは、基本は、宗教嫌いなのです。宗教嫌いが、カルトを広める、これは、宗教を舐めてかかっているゆえに最も陰険な恐怖の企みであります。
 
教義の鵜呑みが、いちばん、カルトへの近道になります。それは、硬派カルトだけでなく、誤った未熟な宗教理解をする者によって、硬派カルト以外でも遠回しに教えられているかもしれません。そういうところからは、勇気をもって、きっぱり縁を切り、完全に離れることが必要です。
 
それと同じくらいに、あたかも、みんなと同じ常識人であるかのように振る舞って、その奥底に、誰が何と言っても何も聞き入れない自尊の固まりによって暗躍しているのが、楽山とシャロームのような、汚らしい軟派カルトの悪意の産物なのです。
 
シャロームは、いつも、自分が正しいという前提で物を言い、もはや、なんの資格も正しさもないことが明らかになっても、修正が利かなくなっている廃人のような存在です。丁寧語で世辞を言って、それだけで、自分は柔和だと思い込んでいる人格の病人です。関わらないでください。
 
楽山も、自分が正しくて中立な立場でいる人、自分はまともなことを言う人、という固まっている前提があり、修正不能であり、人の言うことを聞きません。そういう心性のために、未熟なまま、大人になり、今も、神について同じ疑問を書いて、真実を語ったつもりでいるお粗末な自己愛が支配する人格です。
 
シャロームより、狡賢く、言い方を変えてくるのが特徴です。関わらないでください。そして、二人とも、結託しているかのように、ともにキリスト信仰の心を無視~否定し、ときには一緒に、嫌がらせを書いたりもしました。
 
楽山批判の文章にシャロームの名前が出ると、嫌がらせのコメントをライブドアの私のブログに書いてくるので、シャロームのほうは、楽山の手助けをしているつもりなのでしょう。二人とも、仲間意識で結び付いているようです。
 
その仲間同士の無条件同意以外では、理路も、共感も、成り立ったことがありません。彼らの仲間意識には、人を生かす共感がありません。彼らには、欠点のある人間同士、という共感による付き合いが、まるで成り立たないのです。宗教とは対極の自尊の固まりが寄り添っているようなものです。
 
そういうことから、楽山とシャロームは、同一人物の成りすましではないかと疑うようになりました。この疑惑は、ネットでは証明は困難ですが、その可能性を知っていることは必要だと思っています。誰が誰に化けているか、分からないのがネットなのです。
 
 
教団内では、教義に則って考え、行動する人ばかりなんで、そういう人たちに囲まれていると、自分からすすんで教義に染まり、みなと同じになりたいと思わないではいられなくなるとか。
 
楽山の話を、間違って受け容れると、やさしい人柄だから、きっと、バランスのとれた話をしてくれるんですよ・・みたいな感想を持つかもしれませんが、その時が、既に、危険信号なのです。その根底には、企みはあっても、ふつうに通用するような共感の素地が全くないからです。
 
楽山やシャロームのような、共感性の欠片もないのに、そのことを隠している危険人物に、間違っても、受け入れたり、同じになりたいなどという経過になってはならず、そのためにも、好意的に関わってはいけないと思います。
 
腹黒いシャローム、陰謀家の病的ナルシスト楽山、という印象を持っています。その判断を改めさせるような彼らの言論は、今まで、一度も見たことが無いという現状です。
 
 
マイコンはカルトに限らず、大なり小なり至るところに存在するという見方もあるけれども、カルトのように一般常識から極端にズレたことを正当と思わせるというのは、巷によくある誤解、偏見、先入観の類とは大分ちがうし、本人にとっても社会にとっても悲劇だし、ここは気をつけなければならんと改めて思う。
 
また、楽山は、この記事で、重ねて、カルトのマインドコントロールというものを、ホラー的に常識からズレたものであるとして、自らが行っている誘導、詭弁、ボンヤリ言語による刷り込み、印象操作を、それに比べさせて、大丈夫なものという暗示で、刷り込もうとしています。
 
いつも、文章を、企みの目的をもって書いてくるのが楽山です。暗示と刷り込みに遭わないためにも、決して関わらないでください。楽山がこの記事を書いたのは、社会にとっての悲劇としてカルトのことを語り、自分とは異なるものという印象を重ねることが目的なのでしょう。
 
ということは、既に、このような印象操作が功を奏したことがあるのかもしれません。そうして、気軽に、友達、お気に入り仲間として、付き合って、言葉を交わしているうちに、知らず知らず、楽山の言うことには、いつのまにか、頷(うなず)いてしまうようになってゆくのかもしれません。
 
どこかで、軽いぜ・・と、味を占めてきたのだろうか。従来の豪語する硬派カルトにも、楽山やシャロームのような軟派カルトにも、惑わされることのないように、祈っています。拝。
 
 
※ 
 
キリスト信仰も、キリスト教も、堕落して、カルトになることはあり得ます。それは、神に対する節操としての、人間の不完全、すなわち、罪の性質を自覚するのではなく、逆に、信仰?ゆえに、自分は大丈夫だと確信してしまうところから生じてきます。
 
そうして、恐らく、神の前にも、こんなことは言ってはいけないというタブーが生まれ、祈りを飾るようになるのかもしれません。そこさえ間違わなければ、信仰者は、いつでも、主のもとに帰ることが出来るでしょう。
 
人が自分で勝手に確信して信じ込んで訂正不能にしなければ、人は、いつも赦しと憐れみを必要とする神の民であるからです。
 
キリスト信仰者は、おもに、旧約聖書の神の存在によって、自らの不完全性と罪性を自覚し、神への恐れと敬虔を学びます。そして、おもに、新約聖書のキリストの存在によって、人生におけるその同伴という共感という愛を知るのだろうと思います。
 
キリスト教によって、私たちは、罪と恐れと敬虔を学び、
私たち一人一人は、キリスト信仰によって、罪と赦しと愛を知るのでしょう。
 
キリスト教は、キリスト信仰の知識のベースであり、キリスト信仰のためにキリスト教があると言えるでしょう。
 
聖書にある物や肉体の奇跡の話は、神の偉大さと、神聖への恐れを伝えています。
福音書にある心~魂の奇跡の話は、キリストの人に対する限りない共感を伝えています。
 
どういう人がキリストによって救われ、どういう人がキリストの敵となったかを読み取ることが、聖書を読むうえで一番大事なポイントだと思います。
 
救われた人は悲しみを知る人でした。
悲しみを持ちうるかどうかが、信仰と、反信仰を分けるのです。
 
キリストの敵となった人たちは、悲しみを知らず、不都合に際して、誰かに怒り、誰かを憎む人たちです。そのサイコパス的な憎しみがキリストを殺しました。
 
私たちは、キリストの死の意味を深く理解するべきです。キリストの死を思わず、キリストは復活したのだからと済まして、讃美に明け暮れるのは、信仰者の態度ではありません。
 
 
悲しみへのいつくしみは共感

悲しみへのいつくしみは共感
 
 
(2019年)
(2022年07月27日、再録+加筆) 
 
 
 
  ある人に
 
引くに引けない柵(しがらみ)の中で
無理に無理を重ねて働いて
過労で倒れることが
予め定められた神の御旨であるのなら
私のサタンは退き
人のことを思わず神のことを思い
あなたが天に積むであろう宝
に想いを馳せるでありましょう
 
しかし私は生きている限り人であり
しかも不信仰な怠け者であり
人の思いから離れられません
あなたのことについて私は
まだ悟ることができません
だから私は人として
あなたの健康を祈るばかり
 
引きっぱなしで籠もる明け暮れの中で
惰眠と不眠を重ねて貪って
日毎の目覚めに仰天することが
私であるなら
祈るがいい
信仰の薄い私よ
しるしも証も導きも悟らぬ者よ
 
人の健康を祈りながら
自らの不信仰告白によって
失うであろう数多(あまた)のもの
に気づくとき私の不幸とは
比べものにならない
沈黙のうちに愛されて
なお愛すべき栄光の
無償の賜物を知るだろう
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる
愛と呼ばれるものの
実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世に在って
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ祈りへ
 
 
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 
 (コリント1,13:4-8、新約聖書)
 
 
興味深いのは、この章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることです。知識があっても、信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということであります。
 
愛と、悲しみと、共感する心によって、信仰は成り立っています。キリストが、お手本なのです。しかし、キリストのようになることは出来ません。キリストを目指すのでもありません。私たち信仰者は、キリストの民であります。そして、しばしば反逆の民であります。
 
その反逆の罪を知り、折々に、悔い改めることが祈りです。感謝と讃美より、大切なのは、正直な告白です。神は、人の言動を、既に、余すところなく、ご存じなのですから、正直以外、神に通用することはありません。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏はまたストローマン論法を使ってる。
私の意見は①です。
①「『仏陀再誕』の仏陀への帰依は、HS信仰の基本だ」
②「HS信仰は、『仏陀再誕』の仏陀への信仰だけだ」
私の意見を②の形に歪めた上で、反論してもダメですよ。
 
(ネットより)
ストローマンとは英語で案山子のような「人間のフリをさせるための等身大藁人形」を指す。ストローマン論法とは、相手の主張を取り違えたり歪曲したりして出来上がった脆弱な主張をストローマン(相手の代理)として打倒し、そのことによって相手の主張を論破したことにしようとする論点すり替えによる詭弁である。ストロー(藁)マンを直訳して藁人形論法(わら人形論法)とも呼ぶ
ニコニコ大百科
 
楽山は、信仰を語れる人ではありません。なのに、HSも、キリスト教も、同じように扱い、揶揄してきます。正常な分別を持たず、詭弁に生きています。真実を求める気はなく、自分の優越感を満たすためだけに書いてきます。精神衛生のために、決して、直接の遣り取りをしてはいけない人です。
 
楽山は、論客気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど、気取りだけなのです。実際は、理路を組み立てることも理解することも共感することも出来ません。真実の追求などする意思も能力もありません。既に真理を得ているという腐った高慢の悪臭が、書くものに染みついて表れてきます。
 
楽山は、文脈の理解に至らず、ただ、相手をストローマン(藁人形)のように見なして、その端くれの汚れを、中心であるかのように指摘して否定してゆきます。しかし、楽山は、心が無いので、実際は、何も理解していないのです。相手にしようなどと思ってはいけません。
 
ブーメランのように、楽山から出たものは楽山に返ってきます。本人が気づかないだけで、楽山の言は、楽山を責めているのです。楽山は、良識と良心を持った人間ではなく、人の不備を突いて悦に入る自己満足が生き甲斐の、それこそ棘(とげ)付きのストローマンなのです。
 
人類の敵は、国家でも民族でも宗教でもありません。人類の敵は、良心と罪悪感を持たない楽山のような無反省で無責任な病質人格、つまり、反社会性人格障害≒自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、ひと言で言えば、サイコパス(精神病質者)なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘吐きで詭弁屋で無神教カルトの楽山が、悪意の文脈によって実に軽々しく決めつけて否定する神は、キリスト教の神とも、キリストとも、何の関係もありません。楽山は、自ら捏造したキリスト教?の神?の安っぽい概念を、神として否定したために、永い批判にさらされることになっています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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