楽山の絶望宣伝2
 
 知ることと信じること
 (『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著)
 2021年07月26日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山は、また、学者の言を利用して、当てつけてきます。やりたい放題、利己のために、他者を悪用して平気な楽山です。自分の意見を組み立てられないからでしょう。なんて汚いんだろうという感想しか残らない文章です。
 
信じない人のための・・という前提で、いかなる福音も存在しません。まるで、希望を否定するような乾燥して実感のない筆致で、楽山は宗教を語ります。学問の名のもとに、キリストを磔にするのは、こういう者たちだと思います。絶望の伝道者、いや、中間宿主と言ってよいでしょう。
 
(ネットより)
中間宿主(ちゅうかんしゅくしゅ、intermediate host)とは、ある種の寄生虫において幼生期の発育を行い、成虫が有性生殖を行う宿主が別の動物である場合の宿主。
 
 
*新鮮な考え方
宗教では信じるか信じないかということは重要な論点ではあろうし、自分もそのように考えていた。
でも中村圭志氏の著書を読んでいたら、それとは正反対の考え方が提示されていたのでメモしておきたい。
一般的に言って、宗教に関してむしろわたしたちが気にすべきことは、「信じる/信じない」の境界線ではなく、宗教を構成する要素(教義、儀礼、歴史、開祖に関する事柄)を「知っている/知っていない」の境界線の方です。信じるか信じないかは、こう言ってよければ、主観的な問題です。しかし、基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう。
(『信じない人のためのイエスと福音書ガイド』中村圭志著、みすず書房、2010年、p.9)
 」
 
「基本的な情報を知っているか知っていないかは客観的な問題です。非信者の側として、注意すべきはこちらのほうでしょう」・・・基本的な情報などと、宗教をまとめてしまうところが、既に、無知と無恥だと思います。こういうのが大好きな楽山の、インテリ気取りの餌になっています。
 
つまり、信じるか信じないかが信仰の問題でありますが、情報を知っているかどうかだけなら、それは知識の問題であっても、信仰の問題ではないのです。知識だけを、どんなに詳しく語っても、信仰について、宗教について、触れたことにもならないのです。
 
キリスト教と信仰は、信じる者のためにあるのであって、信じない者にとって基本的な情報などはありません。一般教養としての宗教など、誰も救えはしないのです。まさに、著者は、キリスト教のことではなく、社会通念アーメンソーメンのことを言っています。何の意味があるでしょう。
 
 
著者が言うには、たとえばキリスト教を信じるといっても、福音書にある奇跡を文字通りに信じる人もいれば、それを信じない人もいるし、そもそもそんなことはどうでもいいという人もいる、イエスを超能力者か何かのような存在だと信じる人もいれば、イエスの徳の高さこそが神の証と信じる人もいるなど、その信じ方は様々で原理主義的なものもあれば、信じないに近いものもある、信じるか信じないかの間には明確な区分はなく連続している、それならばそこにこだわる必要はないのではないかということらしい。
 
信じるということは、生きる縁(よすが)にするということです。楽山は、種々の鼻くそのようなことを書いていますが、このような興味本位の、本気がどこにもなく、オモチャで遊んでいるような、ああでもないこうでもない先生気取りの楽山の、どこにも信はないのです。ずっと、そうです。
 
信仰は、趣味的に扱える問題ではありません。有か無かという人生そのものであり、命そのものであります。"信じない人のための福音" など存在しません。あざ笑うサイコパス楽山は、否定と軽視のための、絶好の餌を蒔いてくれるボンヤリ評論家を見つけたようです。
 
 
そう言われてみれば確かにその通りではある。信じるか信じないかという主観にこだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが、そこにはこだわらず客観的な情報を得たいと考える非信者にとっては信じるか信じないかはそこまで突き詰めて考えねばならぬ必然性はなく、それよりは知っているか知っていないかの方がよほど重要ではあるだろう。
 
何事もなかったかのように、へらっと軽く書いてくる、いつもの、罪悪感を持たない楽山の筆致です。「こだわりのある信者からすればこれに同意はできぬかもしれないが」・・最近、しばしば、楽山が書いてくる免罪符のセリフです。凄まじい "すっとぼけ" が隠されています。
 
客観的な情報だけを得たつもりで、キリスト教を否定してみても、元々、そこには、役に立たない、生きていない、雑言のような知識があるだけで、人間を生かす命の話ではなく、世間話やゴシップで人を決めつけるような粗雑な意図しか表れていないのだから、救いなど何もないのです。
 
非信者にとっては、信じないのなら、何も突き詰めることなどないのです。非信・不信を前提に、信仰を考えることも論じることも、ありえません。楽山は、庭を見ながら、一生懸命、月の裏側のことを、まくしたてているようなものです。楽山は信仰について、何も語ってなどいません。
 
信じない者にとって、宗教は、極めて半端な知識であり、救いも癒しも含まない、歴史と文化の話に過ぎません。楽山も、引用元も、信仰を何も知らず、教養をひけらかす傲慢のぶん、偽善者であります。全くの部外者の余計なお世話なのです。
 
 
*愉快
知ることと信じることについては、自分なりにあれこれ考えてきたつもりではあったが、恥ずかしながら自分は上のようなことは思いつきもしなかった。
それだけに本書を読んでこういう考え方を知ることができたのは愉快である。近頃は読書欲が衰えてきていたのだが、やっぱり読書というものはいいものだと改めて感じた次第である。
 
楽山は、この2年余り、何も、考えてきた跡がありません。楽山は、人を、信仰者を、良心を、神を、あざ笑う術(すべ)だけを身に着けています。だから、読むたびに、吐き気がしていたのでしょう。楽山は、サイコパスだから、そうなることが、愉快なのでしょう。
 
読めない者が、理解できない者が、読書をすると、どうなるか・・、読んで何も受け取っていなくても、知ったかぶりをして、人を、あざ笑うようになるのだ、ということが分かります。楽山は、今まで、見てきただけでも、良いことを思いつくことなどない人だということです。
 
真(まこと)のものを、善きものを、美しいものを、何も提示できない楽山です。だから、自分で、「いいものだ」、また、今までも、これからも、「反省。とほほ」などという言葉だけを繰り返すしかないのです。楽山は、人が褒めてくれないものだから、自分で褒めるしかないのでしょう。
 
自分が優位だと見せかける言葉とともに、滅びを体現している楽山です。これこそ、ホラーなのです。今まで、批判記事を書いてきたのも、また、今、この、楽山の、異常な体質を書くのも、サイコパスのこの男に潜むホラー性を暴くためであります。
 
 
悲しいほど的外れ

悲しいほど的外れ
 
 
(2021年)
(2022年08月02日、再録+加筆)
 
 
 
  油断
 
ユーモアがペーソスを孕んで
並木道の希望を薄茶色に舞っている
そんな空気にのんびり吸われていると
いきなりビュッと
残酷なギャグが切っていく
切られたものが見当たらない
見えないところで切られて
見られないまま消えたのか
まぶしいのに曇っている
目の上にピッ
何かが撥ねた水滴
一滴だけの雨?
ひやっとする
あるいは血かと
ふと笑いすぎて昔
微笑むことを忘れたひととき
を思い出す
額に残る一筋の感覚
目を狙って
放たれた鋭いもの
少しく外れて
皮肉にも生き残る
 
 
  ろうそく
 
ふっ と
乱暴に吹き消されて
実はすすと煙でしたと見られる前に
黙って消えていくつもりかい
一二月には銀紙に包まれて
クリスマスケーキをきれいに飾っていた
小さい 赤い 細い ろうそく
季節外れの春の夜に見つけて
ほんの戯れに
今しがた火を灯した
クリスマスであろうとなかろうと
色が何であろうと
ろうそくは ろうそく
時がいつであれ
しずかに灯って
尽きれば静かに消えていく
その仕事をするためだけに
火をつけられるのを待っている
ろうそく
小さな 赤い
しずけさに耐える
 
 
  砂漠の雨
 
砂漠に雨が降る
土砂降りの雨が降る
骨の駱駝(らくだ)が立ち上がって跳ねる
渇いた旅人は喜ぶ
砂漠に海辺の雨が降る
砂漠に潮の雨が降る
風紋は崩れて流れだす
流砂は嵐の濁流になる
旅人は水を飲む
溺れる
塩を飲む
砂を飲む
砂漠に都会の雨が降る
砂漠に窓の雨が降る
河と川とがぶつかり合う
ガラス片の刃物があふれ出す
砂漠に粘性の雨が降る
砂漠に生臭い雨が降る
キャラバンは肉片になる
井戸は壊れて噴水になる
砂漠の噴水は落ちてこない
砂漠の炎が噴き上げる
手を広げた白骨の顎が外れる
こうして砂漠は出来上がる
こうして戦争は出来上がる
 
 
  黒の転調
 
うれしいときに笑う
かなしいときに泣く
うれしいときに泣く
かなしいときに笑う
仲間外れはどれでしょう
仲間外れはありません
かなしいときに泣けなくなると
脳ミソを脇に置いて
笑い始めるのです
腹の底から黒い息を
吐き出し吐き出し笑うのです
脳ミソは戻れるときを待っていますが
血迷うたか
と一喝でもしようものなら
笑いも脳ミソも吹き飛んで
四つが四つとも仲間外れです
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
 
 
 楽山の成りすましではないかと疑っているツイッターですが
 
taka
@taka84156681
·5時間
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
スルメ・デ・ラ・ロチャ
@surumelock「
(マンガですが省略、その中のセリフ))
人生を変えようとする人を叩くのは
人生を変えられない人だからな
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 」
 
引用元を批判するつもりはありません。
 
また、楽山は、人のことを言っているつもりで、自分を表しています。
 
他者の人生に破壊をもたらす楽山は、無反省、無責任で、訂正不能です。変わることなく、人に、自己中を吹き込み続けて、ますます、自分を変えられなくなっているのです。楽山にありがちな、何も持たないのに、物申す病質の宿命でしょう。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·13時間
HS信者さんは、他人から意見されると、すぐに逆ギレする人が多い印象があったが、
Takayukiさんはそうはならず、落ち着いて自分の考えを話してますね。
今でもそういうことができるHS信者がいたのかと、思わず感動してしまったよ!
引用ツイート
Takayukl太陽の光エルカンターレを信じよう
@E8tKm
返信先: 
@ryouran1011さん
ご指摘ありがとうございます。
正しい信仰を持つことは素晴らしいことです。
大川隆法総裁が地球神であるなら、すべての人類にはにはその教えが必要です。
幸福の科学を広めてはいますが、押し付けはしていません。
信仰は自らの手でつかみとるものです。
午後8:23 · 2021年7月24日·Twitter for iPhone
 」
午後10:12 · 2021年7月24日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。楽山批判です。
 
教理を批判していたのではなく、HSがおかしいと言っていたのではなく、落ち着いたHS信者なら、感動?するのが、楽山の軸?なのでしょう。宗教についてカルトについて一定の見解も批判軸なども持っていないことが表れています。
 
この軸のなさは、楽山が味方だと思うことの大きなリスクを表しており、楽山が批判あるいは無視されるべき人だということを、再認識することになります。こういう、いい加減さが、人々を、かき乱してゆき、本人だけが、正義の味方気取りで満悦することにつながっています。
 
私としては、楽山は、もちろん、神ではないし、良いものを広めてはいないし、嘘と詭弁で誘導していると思います。正論ぶっても、自分の手で何もつかみ取っていない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山は、どこまでも教える立場にしがみつくピエロなのです。悲惨です。
 
楽山は、キリスト信仰についても、神はいない、信じ過ぎてはいけない、などと言いながら、ある教会を褒めたり、賛同するような幼稚な詩のようなものを書いたりしています。しかも、他者の言や、有名人を引用して、箔をつけようとします。楽山は、軸のない病質発言者なのです。
 
楽山を、少しでも柔和だとか、ときには良いことを言うとか、部分でも、肯定してはいけません。そういうのを利用する男です。受け入れれば、振り回され、疲れ果てることになるでしょう。楽山は、まともな言論者ではありません。批判は、楽山を変えるためではなく、全否定するためです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないのが「人間の性」なら、人類は、とうに滅び去っていると思います。人類が、人間が、まだ生存し得ているのは、楽山のような著しい偽善者が稀であり、多くの人々は、不十分であっても、感じて考えて反省し成長しようとしているからでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング