楽山の短絡宗教3
 
 『宗教座談』内村鑑三著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、弁明も反論もできないまま書き続けます。言論に耐えるだけの知性も感性も説得力もないからです。だから、嘘を吐き、詭弁を弄するしかなくなっています。毎度毎度、寒気がするようなことを、恐れも知らずに書いてくる楽山です。
 
この間の事情を知っている人からは、執拗で、妄想狂で、訂正不能で、病識のない、恐ろしく愚かな、自尊だけが突っ張っている醜い人としか見なされないでしょうに、なおも、書けば、誰か、だまされてくれるとでも思っているのでしょうか。
 
楽山は、病膏肓に入って、都合の良い文言を漁っては、なにやら、わめいているだけです。やさしそうな見かけの筆致に、どうか、だまされないでください。
 
恥というものを知らないと、楽山のようになります。どこまで愚かに悪あがきするのだろうと思える楽山の言動を、この記事の終わりのほうに書くことになりました。
 
 
タイトルから宗教全般についての話だろうと見当をつけたのだが、中身を確かめてみるとそれは全然違っていて、冒頭から最終ページまでキリスト教にほぼ限定した話になっている。テーマは、教会、真理、聖書、祈祷、奇跡、霊魂、復活、永生、天国である。語り口は、時に厳しくなるときもあるが、それは著者の信仰心の強さと真面目な人柄のためなのだろう。
 
内村鑑三と言えば、キリスト者、一部には、預言者的な人物と言われているとさえ聞きました。楽山に「信仰心の強さと真面目な人柄」など分からないと思います。信仰について、楽山が的を外してばかりだったことが証拠です。またしても、見当違いのことを、恥知らずに書いてきます。
 
今回も、また、的外れだけが表れています。つまり、キリストが伝えた、敬虔も、罪も、赦しも、癒しも、分からないまま、物知り顔に言っているのが、楽山です。神も、神のわざも、神の意志も、人が軽々しく分かった、理解した、見た、などと言ってはいけないのです。
 
 
本書の中で自分にとってもっとも興味をひかれた箇所を三つ挙げるとしたら、まず一つ目は復活についての話だった。キリスト教における復活とは、肉体をともなうものなのか、そうでないのか、前々から疑問だったのだが、著者は「永生とは肉体の死後に霊魂がその新たに授かりし霊体を以て生命を継続する事」(p.102)としている。どうやら復活するときは霊魂は肉体から新しくつくった霊体に移ると考えているらしい。
 
キリストの復活については、肉体を伴うものだと信じている人も少なくないでしょう。私のスタンスは、他の、物や肉体の奇跡と同様で、人知で理解できないものを、あった、なかった、などと云々することはしません。あえて言うなら、・・分かりません・・ということです。
 
しかし、楽山の言うところの、新たに授かる霊体、ということを、地上で理解できる人はいません。つまり、このことは、死後のことは神に任せよ、という、神を恐れる敬虔に結び付いているのです。楽山は、何を分かることのように言っているのでしょう。空っぽの霊体で。
 
肉体の復活は別として、魂の復活については、言いようがあります。死ぬしかないと思っていた人が、生きるほうを選ぶようになることがそうです。絶望の人が希望をもって動き出すことかもしれません。また、楽山は、分かりもしない超常の辻褄をいじくっていますが、何の意味もありません。
 
楽山は、この記事で分かったような気になるのでしょうか。このことこそ、楽山の言が、字面の概念を組み合わせて辻褄が合うとは "言えなくもない" と前に言ったような、ボンヤリ言語的短絡で慢心している空想~妄想の証拠なのです。
 
聖書の言葉も、他者の言葉も、有名人の言葉も、まるで、理解できず、おのれの皮相ワールドを讃える捏造言語表現に変えてしまう楽山であります。人生、こんな過ごし方だけは御免です。何も生まれない、何も解決しない、深くも高くもならない、楽山の空転する脳の皮です。
 
 
二つ目は動物には霊魂はないとしているところだ。著者は「霊魂は勿論肉体の生命ではありません。もしそうならば、犬にも馬にも鶏にも烏にも霊魂があるはずでございます」(p.77)としている。また「我々が犬や馬や猫や牛などの責任を問わないのは彼らに肉体あるも霊魂のある事を認めないからでございます」(p.80)ともいう。これからすると、著者は動物には肉体生命はあっても霊魂はないと考えているらしく、いわゆる三魂説のような立場に立っているようだ。
 
いったい誰が、霊魂について、見たかのように、物体のように、語れるというのでしょう。三魂説というのはネットには見つけられませんでした。魂の三分説というのがありました。それにしても、霊魂について、楽山は、分かったふうなことを言わないと気が済まないのでしょうか。
 
(ネットより)
魂の三分説とは
魂の三分説(さんぶんせつ)とは、古代ギリシアの哲学者であるプラトンが提唱した、人間の魂を3つの性質に分ける考え方のことです。
プラトンは『国家』の中で、魂を以下の3つの区分に分けました。
①理知(ロゴス)
②欲望(エピテュメーテース)
③気概(テュモス)
 
私は、例えば知情意は、はっきり3つに分かれてなどおらず、この分け方は多分に便宜的なものであり、複雑に連動するものだと思っています。楽山には、理知と、情緒面で、明らかに欠陥があるようです。
 
楽山は、難しそうに見える言葉を、わざわざ使って、説明せず、おのれの知性を誇るために利用する、という、無能で無反省な、身の程を知らない自己愛者の特徴を持っています。何の参考にもなりません。
 
 
三つ目は人は神と同化可能としているところだ。著者は永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」(p.109)としている。自分はキリスト教は神と人とを創造主と被造物とに分けていて両者は別個のものとしているというイメージを持っていたので、上のように両者を同化可能とするかのような考え方には良い意味で驚かされた。
本書にはこの他にも興味深いことが沢山語られているので、また折をみて再読したい本である。
 
「永生とは「キリストに顕われたる神の愛を信仰を以て我が霊魂に同化するという義であります」」という言葉は、地上で当たり前に起こることみたいに言っていますが、恐らく、神の側の、人に対する見なしを推測しているに過ぎないと思います。
 
神と人の同化可能という幼稚で乱暴な、神霊物語にしているところが、楽山らしいと思います。意味を、自分の妄想世界に短絡して受け取っています。もう一度言いますが、無能で無反省な自己愛者は、こういうことを平気で言えるほど、厚かましい高慢と気取りがあります。
 
キリスト信仰において、永遠の命とは、地上において、神の永遠性を持つことではなく、神との合一や一体化でもなく、また、地上で永遠に生きることでもありません。地上のこととしては、比喩以上ではないと思います。地上で超常の説明をするような説明を、私は信用しません。
 
永遠は、地上では、現象として表れませんし、表れても、誰も理解はできないでしょう。つまり、神の全能から考えて可能ということであって、信じれば起こる・・などという、楽山がやるような安っぽいカルト的短絡をしてはいけないということです。
 
内村鑑三は、何らかの結論のようなものを書く必要か使命感があったのだろうと思われますが、その意図は、今、わけも道理も弁えぬ楽山という偽善者によって、無遠慮に不細工に悪用され、けがされています。有名人を引用することによって、楽山は妄想し、そして、愚昧の馬脚をあらわしてゆきます。
 
この楽山のような曲解は、一気にスーパーな者になりたいという欲望を持つ者に見られます。楽山は、その典型です。その執拗さは、もはや人間のものとは思えません。興味深いなどと、楽山がいくら書いても、楽山は、言葉一つも理解などしていないのです。
 
 
 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著
 2020年07月23日 楽山日記(LD)
  改めて批判。
 
キリスト教も仏教も、楽山にとっては、世辞が通用すれば取り入って、いい気分になり、批判されれば、疲労しか与えない小学生レベルの詭弁を、難しい言葉を、執拗に使って、結局、おのれの学者気取りを自慢したがるネタに過ぎません。
 
楽山は、A級戦犯の大川周明を讃える記事を書いたことがありますから、神道には、右翼的アプローチをしてくるかもしれません。鵜呑みは、いちばん危険です。楽山は人を食い物にする輩です。危険物と同様、注意警戒して、決して近寄らないでください。
 
 
神道のことを知りたいと思って本書を読んでみたが、なんだかますます神道が分からなくなってしまった(笑)。
まず著者は、神道は「開祖も、宗祖も、教義も、救済もなく、「ない宗教」というところにその本質がある」(p.69)と規定している。また元来、神道は「神殿はもうけられず、祭祀は屋外の岩のところでおこなわれていた」のであり、「社殿がないのが神道のもとの姿」(p.33)ともいう。さらには神道には「教えについて述べた聖典というものが存在しない」(p.151)、「はっきりとした規制がない」(p.158)という。
 
私は、神道のことは知りません。しかし、楽山が、人に勝りたい自己愛からの自己顕示欲によって自慢する材料にしているだけだということを知ってほしいと思います。その結果は、この二年余りで、楽山の低劣な詭弁と嘘が明らかになってきただけなのです。
 
分からないことを「(笑)」と書くのは、楽山の場合、謙譲というより、宗教をバカにして、とても軽く扱っているからでしょう。楽山は、人間らしい思慮がないために、足りないものに気づけず、読書家気取りで、推敲・考察・反省・学習・成長を全く抜きにして書いてきます。
 
 
これはもう無いない尽くしである。こういう説明を聞くと、神道の特殊性が際立って見えるようで面白いのではあるが、神道がますますつかみどころのないものに思えてきて混乱してしまう。これにはまいった。
 
混乱して、まいったなら、「つかみどころのないもの」なら、評価や考察めいた記事も、書かなければよいのです。しかし、楽山は、書いて自慢したい欲望と、無神教カルト&軟派カルトの因業のみによって、次には、面白い考察だと、説得力がある、などと書いています。
 
バラバラで、軸がありません。そういう人です、決して、コメントの遣り取りをしたり、近づいたりしてはいけません。関われば、吐き気のするような曖昧ボンヤリ言語で、執拗な嘘と短絡と詭弁で、心だけでなく、体も壊しそうなくらい刷り込んで、神経も精神も疲労するだけです。
 
 
とはいえ、著者が述べている神道と仏教とが共存できた理由は興味深いものがあった。神道は開祖も教義もない宗教である一方で、仏教は開祖も教義もある宗教だったので、正面衝突はまぬがれ、住み分けが可能だったのであり、また明治維新後に両者を分離できたのは双方ともに性質が異なり、混じり合うことなく並存してきたからだろうというのだ。これは面白い考察だと思う。
 
キリスト教については、禁教と迫害の長い歴史があり、明治時代になって、ようやく認められ、また、さらに、戦争の時代の言論統制によって、迫害を受けた歴史もあるわけです。
 
遠藤周作は、警察に、神と天皇とどちらが偉いかと聞かれ、どちらも尊敬いたしております、と答えて難を逃れたという話があります。氏の選択を、誰も責められないと思います。
 
楽山は、戦争当時の憲兵隊みたいなカルトに入って、おのれの権威を振りかざしたいのでしょう。敬語で呼ばれ、先生として、もてなされたいのでしょう。堂々巡りとブーメランで、歩いている芝居をしても、一歩も進んでいない、沈澱思考の楽山です。
 
開祖が違うと、正面衝突するものでしょうか。そこに共通するところの、人間らしい真善美というものを、楽山は考えないのでしょうか。恐らく、楽山は、考えられないのでしょう。字面の駆け引きだけで面白がる姿勢には、宗教と信仰への理解はありません。
 
 
両者が共存できた理由について、神道の寛容性のゆえだとか、神道は他宗教を神道に合う形に変容させるからだという意見もあるが、著者の考察も説得力がある。
 
このような、考察も説得力もない記事を、気取りと自己顕示欲だけで、平気で書いてくる人は、むしろ珍しいと思います。楽山には、自分信仰の訂正不能の自己愛を宗教化したいのではないかという軟派カルトの疑いがあります。
 
(ネットより)
神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象[1]。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。
 
結局、記事タイトルの『神道はなぜ教えがないのか』についての、結論も考察も書けない楽山です。感想も、「混乱」「まいった」「面白い」「説得力がある」などと、これは、作文の苦手な小学生が、何か感想を聞かれて、よかった、とだけ言って先生に叱られるのに似ています。
 
こういう傍迷惑なことを、著名人の名を引用して、自己正当化してくる楽山です。何を書いても、理路は拙劣で情緒は乏しく快楽原則だけで褒められるのを待っている自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山の言です。カルト臭満載の、疲労だけを与えてくる二年余りでした。
 
 
短絡して堕ちてゆく

短絡して堕ちてゆく
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月12日、再録+加筆)
 
 
※ 記事の終わりのほうに、楽山についての情報を載せています。自己愛性の害に遭わないために、読んでほしいと思っています。反省しない自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)である楽山の、因業、即ち、浅知恵による悪だくみです。
 
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
 
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった貝の殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  堕落の煮汁
 
昼も夜も
煮汁は堕落である
煮汁は有害である
煮汁は徒労の末に毒を齎(もたら)す
煮汁は濃縮する
屋根の下
蒲団の中
煮汁は乾燥する
灰汁(あく)と澱(おり)と滓(かす)
あるいは苦汁(にがり)
しかし迎える朝
鼻腔が熱の水の閉塞を訴えても
乾いた体は渇いた咽喉(のど)は
臭気と空気を放出しながら
まず最初に水分を要求する
一日分の煮汁の支度である
それが一日の
測れない量の
罪の始まりであり
糧(かて)である
 
 
  自信とは
 
自信とは自分の能力・価値を信じること
キリスト者でも
自信を持つことはあるだろうから
自信と信仰は別だろう
自信とは
努力と実績に裏打ちされた自惚(うぬぼ)れか
努力・実績・自惚れ
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
三つとも無いことがある
怠け者・役立たず・自己嫌悪
飲む打つ買うはしないものの
持たないものは持たないのだから
結果は堕落した暮らしで
せいぜい努力するよう努力して
少しばかり学び遊び
あとは与えられるものを
ありがたく頂いて
頂いたものは頂いたのだから
裏打ちも
裏も表も
あろうとなかろうと
例えば庭が自棄の荒野になり
マイホームが自虐の牢獄になろうとも
心ゆくまで悔いたい
自信喪失者
シアワセのスポンジになるまで
ただ幸か不幸か
やっぱり不幸か
悔いれば悔いるほど
心ゆくことなどないのだが・・・
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、嘘を吐きますが、そのために、本音が行方不明です。オオカミ少年のように、いつも狼が来たと言っていると、本当に狼が来たとき誰も信じてくれない、という報いを受けるわけですが、既に信頼度ゼロとなっている楽山は、これから、どうやって、生きるつもりなのでしょう。
 
 
 
 以下は、自己愛性人格障害である楽山の、どぎつい偽装・隠ぺい工作です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは詭弁だね。
いくらか表現はやわらげてるけど、従順さがないと、人の言うことを聞かない天狗になるかのように言うのは、
「全てか無かで途中を認めない」「勝手に極論化する」という詭弁だろう。
私見ながら、自分は従順さより、素直さの方がよほど大事だと思う。
「(引用)
ryuho-okawa.org
従順の美徳
従順の美徳がないと、いわゆる天狗になりやすいということです。天狗になるともう、人の言うことをきかなくて、自分が羽ばたくことしか考えなくなるので、やはり教えが入らなくなってきます。それと、一つの教えに収斂していく傾向がけっこう強いです。
 」
午後7:44 · 2022年8月10日·Twitter Web App
 
人格の偏りのために「従順さがないと、人の言うことを聞かない天狗」になっているのも「全てか無かで途中を認めない」「勝手に極論化する」のも、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、素直さを装う三文芝居の大根役者が、楽山その人です。
 
従順に代わる良きものとは、ただ、正直さと率直さなのです。しかしながら、正直に最も背き、嘘と詭弁で他者をだまして遊んできたのが、楽山その人です。これほど悪だくみで、他者をもてあそんできた者は、これから、偽善の標本として、ブーメランの地獄を見る定めとなるでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
naru
@kokorodrugstore
自己愛性パーソナリティ障害に価値観の押し付けやジャッジを受けたら、「あなたはそう思うんですね」で終了です。
自己愛性パーソナリティ障害は自他境界が不全なので「お前は私になれ」と主張してきますが、あなたはあなたでしかありません。
同じ考えである必要なんて無いんです。
午前0:29 · 2022年8月11日·Twitter for Android
 
楽山は、隠れ蓑に、自己愛性パーソナリティ障害批判のツイートをリツイート引用してきました。しかし、楽山こそが批判の対象となる自己愛者です。あざとく引用することで、楽山の驚くべき悪意が表れていますが、今に始まったことではないと思っています。楽山は根腐れなのです。
 
「あなたはそう思うんですね」で終わってもいいのですが、楽山の悪意あるブログとツイートなので、私の批判記事は私のツイッターにもコピペしています。罪悪感がなく反省しない楽山には、言論からの追放が必要ですが、それができない分、こちらも、いろいろ考えないといけません。
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイート
naru
@kokorodrugstore
自己愛性PDの執着対象となってしまったら、もうまともな会話はできません。
徹底して「俺が正しい」「お前は間違ってるし価値がない」ことにするための会話です。
会話はねじまがり、記憶は改ざんされ、話が通じることはありません。
相手の障害を実感するでしょう。
午前11:44 · 2022年8月11日·Twitter for Android
 
自己愛性人格障害から受ける被害は、執着対象だけではありません。思考も自己中心になっているために、本人の主観が本人にとってだけ絶対正義となっており、訂正不能です。話せば分かるということがなく、説得不能であり、そのための時間は全て無駄となります。逃げるしかないのです。
 
会うことが不幸、話せば地獄、続ければ精神疲労から鈍麻さらに人格破壊へと進行する可能性があります。一切の交渉は無意味です。一刻も早く離れてください。そして、二度と会わないようにしてください。可哀想などと思ったら自己愛者の思うつぼです。同情に反応する感性はないのです。
 
自己愛性人格障害者には、思いやりや罪悪感がなく、相手の思いやりに反応できる良心がありません。いつも静かに微笑する柔和さなど通用しません。そういう道徳は自己愛者に対しては捨ててください。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に対して、寛容の精神は禁忌です。
 
 
 ※※※
 
楽山は「自己愛性パーソナリティ障害とは何だろう?」という記事を書いています。内容は、上記3つのような自己愛性パーソナリティ障害NPDについての批判リツイートを、楽山のツイッターにリツイートしたもので、多数集めて、とても長い記事になっていますが、楽山の意見は殆ど書いていません。
 
楽山が書いているのは
 
最初の
*話が通じない理由
SNS上において、まったく対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがあるが、先日、その原因と思われることを指摘しているツイートがあったので、ここに保存しておきたい。
 
最後の
個人的には、「なるほど、よく分かるわぁ…」というツイートばかりです。
同アカウントのブログはこちらです。興味ある方はご覧ください。
だけです。
 
楽山がその人、つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山自身は病識がないものだから何も書けないのだろうと思います。つまりカムフラージュなのです。自分で書けば、当然、自分は除外されるだろうという狙いなのです。楽山の底知れない悪意の企みを感じます。
 
「対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがある」「なるほど、よく分かるわぁ…」・・ならば、もっと詳しく書けるはずだし、書かずにはおれないはずです。経験したみたいな話ちょこっと、そして、大袈裟な褒め言葉だけ、被害者なら、これで気が済むはずはないのです。
 
私としては、愚かだな・・と思います。既に、私が、楽山の自己愛性人格障害を3年以上批判しているのに、楽山が自己愛性人格障害批判を引用して記事を書けば、その白々しい意図と企みを知らせているようなものだからです。反省する意志がなく、ごまかすことしか考えない病質の因業なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング