疲れたので、投稿時間を、かなり、ずらしました。免。謝。拝。
 
 
  楽山のお気楽傍観2
 
 
まず、繰り返しになりますが、楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と批判され続けることに対して、自己愛性人格障害批判のツイートを長々と載せることで、ごまかせると判断し実行しました。
 
まさに、そのことこそが、病識のない楽山の、正常な理路の破綻と、病理を明らかにしています。それが、私の前の記事の終わりの部分です。ここに再掲しておきます。
 
批判対象となった楽山の記事は、自己愛性人格障害批判のツイッター引用の、とても長い記事になっていますが、楽山は、意見を殆ど書いていません。
 
楽山がその人、つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。楽山自身は病識がないものだから何も書けないのだろうと思います。つまりカムフラージュなのです。自分で書けば、当然、障害から除外されるだろうという狙いなのです。楽山の底知れない悪意の企みです。
 
その楽山の記事で、楽山が書いているのは
 
最初の
*話が通じない理由
SNS上において、まったく対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがあるが、先日、その原因と思われることを指摘しているツイートがあったので、ここに保存しておきたい。
最後の
個人的には、「なるほど、よく分かるわぁ…」というツイートばかりです。
同アカウントのブログはこちらです。興味ある方はご覧ください。
だけです。
 
「対話が成立しない相手と出くわして途方に暮れたことがある」「なるほど、よく分かるわぁ…」・・ならば、もっと詳しく書けるはずだし、書かずにはおれないはずです。経験したみたいな話ちょこっと、そして、大袈裟な褒め言葉だけ、とか・・、本当に被害者なら、これで気が済むはずはないのです。
 
私としては、愚かだなと思います。既に、私が、楽山の自己愛性人格障害を3年以上批判しているのに、楽山が自己愛性人格障害批判を引用して記事を書けば、その白々しい意図と企みを知らせているようなものだからです。反省する意志がなく、ごまかすことしか考えない病質の因業なのです。
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集(ぽん吉論争)
 2021年08月05日 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
 
 
楽山は、自分から目を背けて、他者の口喧嘩を載せています。傍で眺めて、自分は何も言わない書かない楽山が、陰険な分、深い悪意が表れています。責任逃れの一環に過ぎない記事です。罵詈雑言の例のように並んでいるコメントは、抜粋にとどめます。
 
長いだけの記事にうんざりしながら、読んでいるうちに、コメント者に同情したくなります。何故なら、楽山が、コメントをそのまま載せて、HNもさらして、楽山自身は何も書く気がないのに、傍で笑っているイメージだけが浮かんでくるからです。
 
あいつら、こんなこと書いて、おかしいですね・・と言いたいのでしょうか。楽山は、自分の意見が整わないために、言えなくて、代わりに、他者の罵詈雑言をさらして、悪い印象を刷り込み、自分が中立に俯瞰していることをアピールしたいのでしょうか。
 
コメント欄にリンクの設定していないURLが書いてあるのは何故でしょう。自分は詳しいんだというアピールでしょうか。楽山は、このようにして、知恵者を気取ってきたのでしょう。見かけ倒しは、見かけが命なのでしょう。
 
いちばんおかしいのは、楽山であり、本気がないから、傍観して、自分は、こんなことはしない・・と笑って見物していられるのです。この記事、楽山は、前置き以外、一言も書いていません。元々、自我の居心地のみに執着しているために、他者に関心がないのでしょう。
 
いかなることも、自分のこととして受け止められず、傍観して評論家を気取りたいが、罵詈雑言が並んでいるために、自分の意見は書かないでいるのでしょう。そういう傍観が出来てしまうのが、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
今回、この騒動における発言をまとめてみました。まず初回は、ぽん吉氏に関連した発言です。編集方針は下記の通り。
ネタ元は、楽山日記の「ブログ村騒動」関連記事であり、場合によってはさらにその元記事も確認した。
発言を時系列にならべたり、前後のつながりを保つことより、発言者の個性、考え方を明らかにし、また論争全体の雰囲気を再現することにつとめた。
 
数年前だそうです。退屈しのぎに掘り出してみたのでしょう。自分が批判されていることを考えたくないものだから、他者の口で、退屈しのぎをしているのです。あらゆる自身の問題を無視する人は、こういう性向を持つらしい、ということだけが伝わってきます。
 
楽山は、演劇の設定をするみたいに「雰囲気を再現」するそうです。いかなる問題も、自分の問題として考えることのできない者の、プロデューサー気取りなのでしょう。それで、記事をしっかり書いている中立アピールをしてくるのです。
 
そういうことだから、私は、前に、いつか楽山はぶん殴られるだろう・・と書いたことがあります。傷害~殺人事件にならないことを祈ります。非暴力の議論から見て、いちばん恨まれるのは、このような、関わっておきながら、責任を負わず、傍観者を気取っている者なのです。
 
 
本記事の目的は、「HSとは何なのか」「HS信者とはどのような人たちなのか」を探ることにある。
 
自分を探ることだけはしない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)である楽山の、インテリ気取りの優越感がうかがえる自慢話となっています。楽山は、いつも他者を問題視して、非を認めず、自分を省みない体質です。
 
 
発言者の名前などは太字にし、その立場によって色付けした。
空行は詰めてコピペした。
HS信者だけでなく、退会者、アンチ、第三者の発言も一部掲載している。
天使の羽根はブリュンヒルデ氏、何処野独逸および湘南のガンレオはぽん吉氏の変名らしい。
名前のない発言もあるが、文体、アドレス等から発言者は容易に推測可能であろうから、そのままにしておいた。
以上。
 
人の醜態やゴシップを書いて、自分は違うと満悦する楽山が、いちばん、醜いのですが、楽山だけは、気づかないのです。書いてないけど、全体に、楽山の「(笑)」が付いているような記事になっています。
 
自分を圏外に置いて、楽山は、・・こんなに悪口言ってますよ・・と他者を笑いたいのでしょう。まさに、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDが表れています。これだけ、自分の意見を書かずに、他者をディスる人も珍しいです。現実は、楽山が超然たる "神芝居" をしているときではないのです。
 
 
*発言集
では、以下にぽん吉氏に関連した発言を貼ります。
(注意 ひどい悪口が多いです。汚い言葉が苦手の人はお気をつけください)
 
酷い悪口より、自分だけ中立を装い、整った思考の理路もなく、鋭い感性も無く、傍観して笑っているような、宗教をオモチャにする楽山こそ、最悪だと思います。この2年余りの経過が、如実に示していることです。「汚い言葉」よりも、汚い底意地で生きているのが、楽山という偽善者なのです。
 
楽山の無視と傍観と無反省と無責任が、裏返しのように現れていること、楽山だけは気づかないのでしょう。楽山によって引用されたコメントは省略しますが、楽山の、婉曲的な当てつけや侮辱や嘲笑いや詭弁よりはマシだと感じます。
 
自分が批判されていることを無視して、このように、かき乱された有り様を、平気で見物するのが、いつも冷静を気取る楽山の生き甲斐なのでしょうか。そういう生き方をする楽山は、人間として生きていないと思います。
 
このような有り様の自分を表してしまう楽山は、自爆して裸の肉片が飛び散っているようなものですが、楽山は、気づいて反省するだけの感性がないのです。人の立場を思いやって人に共感することが出来ないのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDの特徴です。
 
人の醜さ、スキャンダル、悪口を、ピーナツでも食べながら見物して、自分が裸であることだけは気づかないで、机上にタラタラ失禁しているの王様のイメージが楽山です。楽山に関わる人は、心が荒れてきます。コメント全体は省略しますが、コメントの中にある雑言を集めてみると、
 
 
「(抜粋)
重度の霊障者、キチガイ、エゴ丸出し、地獄霊、死んでも治らん、でっち上げ、悪霊憑き、地獄霊憑き、反省ゼロ、でたらめ、捏造、悪口雑言、妄想、外道な大理石人間、ファシズム、ウソっパチ、悪霊にやられている、ウソ、でたらめ、捏造、悪口雑言、妄想、キチガイ発言、ゴキブリ野郎、ゴキブリ以下、最早 「人」ではない、ムシケラ、脳タリン、トカゲ バカレオ ww、超頭悪い、貪獣、実践0のトーシロー、惨めだな ww、クズ、ムシケラ、中傷・誹謗は出来ても、反省・謝罪は出来ない、永遠のぶら下がり、悲しき壁蝨、活動しない仏弟子、嫌われ者のブロガー、悪想念ばかり垂れ流している地獄ブロガー、バカ丸出し、阿呆の極み、ほんっと、アホ丸出し、誰にも相手にされていない、投稿中毒ブロガー、異常者、邪見、外道の輩、悪霊に常時憑依されている、悪霊体質、卑怯を通り越して<病気>といって過言ではない、妬む者、判断力など無いに等しい、悪霊体質者、
 」
 
これらは、まさに、楽山の心を表すような荒れ方で、かつ、楽山に向けられても仕方ないような雑言であります。「汚い言葉」と楽山は言っていますが、雑言の直接表現よりも、悪口よりも、最も悪質なのは、婉曲的に当てつけて、かつ、関わっておきながら責任を負わない楽山であります。
 
傍観者の利己主義による見物であり、観察者気取りであり、自分は何も言えないくらい気が小さくて臆病で、責任から逃げてばかりの偽善者である楽山の日常であります。こうなってはいけないよ・・という道徳でもあります。楽山は他者の心を荒れさせて楽しむサディストと言ってよいでしょう。
 
私も似たような気持ちになったことがあります。それで、楽山との直接の遣り取りを避けることにしました。そして、楽山を出禁として、サディスト、サイコパス、病的ナルシストの楽山に対して、記事で批判を続けています。罵詈雑言の代わりに、辛辣な比喩を書いています。
 
この記事に並んでいる人々よりも、誰よりも、卑怯で醜いのは、眺めて、笑いを隠しながら、こんなこと言ってるよ・・と、勝手に楽しんでいる観察者気取り・批評家気取りの楽山です。決定的なことから、日々の雑言に至るまで、楽山の精神の汚れきっている生き方なのです。
 
雑言からは、言った人の、どうしようもない叫びのような感情は感じられます。それを、笑って記事にして、何も責任を負わない楽山からは、人間の思いを何も受け取れない体質、自分は違うという自己満悦の悪臭、見物人以上に邪悪な偽善を感じます。霊障と言うなら、楽山のほうなのです。
 
 
冷酷な閲覧と優越感

冷酷な閲覧と優越感
 
 
(2021年)
(2022年08月13日、再録+加筆)
 
 
 
 (昔の話です)
 
クリスチャンのMLに参加している
昨今では聖霊体験なるものを
重視するのが主流らしいが
聖霊と友だちのように
直接交わる体験の記事に
抵抗を覚えてしまう
 
父・子・御霊(みたま)という神格
即ち神様とキリストと聖霊のうち
人格となって語られ
人間の永遠の友でありうるのは
イエス・キリストだけではないのか
キリスト教はいつから
聖霊教になったのか
キリストはいつから教義上の
贖罪仲介者になってしまったのか
 
神と聖霊は恐れ多い御方であり
神の導きや聖霊の働きは
聖なる領域からの
秘められた賜物(たまもの)であり
もっと心に恐れを
口に慎(つつし)みを
持ちたいと思うのだが…
 
キリストの神格について
わかっているわけではないし
これも独り善がりの独り納得の
信仰観に過ぎないのだろうか
 
嘆息よ
レスポンスのない
置き去りにした課題
何ひとつ解決していない
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
  虫
 
許してくれ
幾度お前は
焼けるような
熱い光を浴びようとして
その手を伸ばしたことだろう
私はお前を
汚れた筆箱の中に
手垢のついた革の袋に
閉じ込めたのだ
 
私は今
しおれた雑草の捨ててある
湿った日陰に来てしまって
小さな手のふるえにも
くずれていきそうな
お前の屍を抱いて
 
まっすぐな国道が見える
あそこに私の車がある
扉(ドア)が開(あ)いたままだ
 
 
  椅子(いす)
 
他人(ひと)の作ってくれた椅子に
腰掛けていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
立ち上がり
椅子を打ち壊す
人は驚いていなくなり
誰もいなくなった
扉をあけ
扉を閉めた
長い廊下がつづいた
長い廊下が続いた
 
長い廊下の終わりには
錆びた扉がしまっていた
外では何やら
がやがやと音が聞こえた
戻ろうか と思っていると
誰かが笑いながら声をかけてくる
あわてて扉をこじあけた
するとまたたく間に
彼をとらえた光の中に
彼はいなくなり
誰もいなくなった
 
彼のを行方を
たずねてはならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、趣味のように、和みのメッセージを送りながら、逆らった者には、お得意の、混乱させる理路や、嘲りや責める言葉を投げつけて、疲れさせ、次第に、逆らう者がいなくなるように誘導してきました。手ごわい論客として見られることに自己満悦する人生なのでしょう。最も卑怯な弱虫です。
 
 
 
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