楽山の無視スルー
 
 批判をスルーすることについて【追記3あり】
 2020年07月26日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
楽山の記事を抜粋して、その言い分の卑怯さを考えてみます。楽山の病的体質・異常性が表れていると思います。
 
「時は金なり、命なり」を書いて、あちこちのブログを見てまわることを止めることを書いた途端に、信者ブログから批判記事らしきものをいくつも発表されるとは奇妙な偶然であるし、なんだかおかしくてたまらない。
 
「時は金なり、命なり」で、無視スルーを正当化するとは、楽山らしい、ことわざの乱用です。上の「信者」はHS信者のことのようですが、責任負わされると逃げ回り、正当化して言い逃れしまくる楽山らしい詭弁です。「おかしくてたまらない」・・楽山の体質として、あざ笑いの習性です。
 
 
批判内容については、ざっと眺めただけではあるが、正直言って興味をひかれるものはなかった。
 
批判には弁明か反論が必要であります。「興味をひかれる」かどうかで、無視スルーするかどうかを決めるのは、いかにも暴力的な筆致で、弁明にも反論にもなっていません。乱暴でで悪意ある言葉で済ませようと楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が表れています。
 
 
・時間…リアルの議論であれば、せいぜい二、三時間もすれば一段落できるだろうが、ネット上の議論であれば、何日も、何週間も続くことがある。人によってはこちらが何も書かなくなっても何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける者もいる。これには付き合いきれない。
 
リアルの議論であろうと2~3時間で終わることはなく、継続になることが多いでしょう。楽山の手には負えないと思います。いかに、いい加減に終わらせてきたか、都合が悪くなると雑言か無視スルーが武器の楽山の、いい加減さが表れています。
 
ネットの議論となると、さらに、楽山のような丁寧語の高慢な暴言者がはびこってくるのです。楽山が書けなくなって、書いたものも意味がなければ、批判は長く続きます。何故なら、合意に至ることがなくなり、議論者として欠陥だらけの楽山には、追放以外、待ってはいないからです。
 
その場合の批判は、合意を目指すためではなく、卑怯者を追放するために、批判が継続するわけですが、楽山は「何カ月も何年もねちねち悪口を書き続ける」と言っていますが、自己絶対で、悪いことを、みな、相手のせいにしてゆく体質の表れであり、ゆえに、否定するための批判が続くのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害者は、自己中にしか話を進めないので、議論そのものが不可能なのに、自分の言い分だけは控えることをしないのだから、無視スルーの卑怯者は、議論において有害でしかなく、よって追放相当の否定をし続けることになるわけです。楽山は、紛れ込んだニセ論者であります。
 
「付き合い切れない」・・その通り、付き合わなくていいから、出て行きなさいということです。それくらい、自己中の妄想ベースのことばかり言って、人の話を受け取らない者は、議論を混乱させるだけ、論者を疲弊させるだけの無礼者~無法者ということです。
 
 
・ケチ…真理を求めての議論なら意味もあるだろうが、無暗な人格批判だとか、否定のための否定だとか、ただ相手にケチをつけたいがための難癖などにはいちいち付き合う気にはなれない。
 
楽山は、真実追求の議論などしたことはないと思います。人格に異常があり、そのために有害であるならば、人格批判は当然です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、それだけで批判対象、否定対象になります。いてはならない公共の敵なのです。付き合うのではなく、出て行きなさいということです。
 
 
・テーマ…事実関係についての議論であれば、思想、主義、信仰、感性などが異なっていても可能だろう。でも、「神とは何か?」「信仰とは何か?」「いかに生きるべきか?」という答えのない問題については、思想、主義、信仰、感性が異なる相手と議論しても平行線に終わるだけであまり意味はない。
 
まさに、答えを出すことの難しい宗教と信仰の問題について、信仰に必要な心を持たないのに、奇跡や事実関係だけを問題として、偏見と先入観だけから否定してきたのが、楽山です。そのような嘘と詭弁ばかりで話にならないからこそ、どこまでも不成立の無資格者として根底から否定するしかないのです。
 
 
プライドが高く、何かというとすぐに怒り、逆恨みし、粘着してくる人がいる
 
楽山は、怒りを笑いや無視スルーに形だけ変えて、この記事のように、決めつけてきます。楽山は、ただ、不快になると放り出しているだけです。それが自己愛の自己中の自分勝手なのです。言い換えれば、楽山は、自分の快感を求めているだけで、冷静な真実の追求などしたことはないのです。
 
 
・関心…人は自分に対する批判には敏感なものだ。だから批判があればどんなものかと興味を持ち、つい見てしまうし、反論してしまうこともある。でもあんまり下らぬ批判ばかりが続くなら、じきにバカバカしくなっていちいち確認することもなくなるだろう。
 
「下らぬ批判ばかりが続く」「バカバカしくなって」「確認することもなくなる」・・まさに、楽山の自己中からの短絡と、その場合、ただ不快になっているから無視スルーする、ということが明らかなのです。ここは、殆ど、罵詈雑言であります。
 
 
自分に対する批判はスルーを基本にした。そういうわけで、ずっと前は自分の意見が誤解、誤読されていると思えば、「それはちがう」とすぐに喰いついたりもしたけれども、今は誤解、誤読による批判があったとしても放置することが多くなった。
 
楽山は、誤解・誤読について説明したことなどありません。ただ、好きなように訂正不能に言ってきただけです。そして無視スルーを始めると、放置して、こちらからの楽山批判が積み重なるということです。楽山は、言いたいだけ言って、批判をむけられると弁明や説明ができないから、無視スルーになるのです。
 
 
漱石の田山花袋に対する対応を見習って、いちいち批判者のブログに出張したり、反論したりするつもりはない。
 
漱石を見習っているつもりなのでしょうか。思い上がりも、身の程知らずも、いい加減にしてほしい。楽山の書く文章に、文学の冴えた光など、一度も見えたことはありません。
 
 
コメ欄にでも書いてくれればよい。その場合は一応全部読むくらいのことはするつもりではある。
 
すっかり文豪気取りのようです。以前から、楽山には、評論家気取り、論客気取り、学者気取り、インテリ気取りなどの、高慢な気取りが、ついて回ります。説明もせず、学術用語や専門用語を使ったりするのも、そのせいでしょう。
 
 
自分の書いていることは、基本的には個人的な感想である。
感想に正しいも、正しくないもない
 
楽山は、何か文章を書くときに、正しさを考えずに書いているのでしょうか。楽山にとって、作文は、情動と衝動のお漏らしなのでしょうか。一般的には、何を書くにしても、書く人は、正しいと思って書いているのです。楽山の無責任の本質が表れています。
 
 
人間の認識には限界があるというものだ。だから自分は自分の判断に疑問を持っている。「神はこういうものだ!」「これが神だ!」ではなく、「自分には神はこのようなものに思われるのだが…」「自分にはこれが神であるように思われるのだが…」という具合になる。
 
それが、正しいと思っているわけです。楽山の主張というのは精神分裂しているのでしょうか、分裂したまま書いているのでしょうか。要は、確信度によりますが、楽山は、無神教カルトの意見を引用しましたし、キリスト教を否定したのです。醜い言い逃れです。
 
 
自分は正しく神を認識し、正しい信仰を持っていると称する信者が、自分には正しく神を認識し、正しい信仰に至る能力はないのじゃないかと疑いつつも、自分なりの努力を続けようとする楽山のことを傲慢であると糾弾するのだからおかしなものだ。
 
呆れます。キリスト教の神を否定し、キリスト信仰を侮辱しておいて、よく言います。楽山は、努力を続けているのではなく、思いつきの雑言をだらだら続けています。それを、努力と言って、ごまかしているのです。
 
 
自分の立ち位置は当ブログを見ればすぐに分かることだ。にもかかわらず、ああだこうだ的外れなことを言ってくるのであれば、こちらとしては申し訳ないけれども、まじめに相手をする気にはなれず、スルーすることにならざるを得ない。あしからず。
 
今までのことから、楽山に、人間としての適切な立ち位置はないと思います。「的外れ」は悪口です。今後も責任を負わないのなら、言論の場から退場するべきです。いつまでも、粘着した嫌らしい詭弁の言い訳、聞き飽きました。無責任に人の意見を無視スルーするのなら、楽山は卑怯者です。
 
 
・テーマ…真理というものは、いわば無限である。しかし紙幅は有限である。だから真理を語ろうとするときは、その一面について語ることになる。
 たとえば、真理には、A、B、C、D…というものがあったとして、その全部を書くわけにはゆかず、そのうちの一つであるAをテーマにして書くということになる。
「Aが真理だ」としたときに、「Bも真理だ」「Cも真理でしょう」「A2というのもあるよ」という意見があったとしても別に構わない。
 
楽山が、困ったときに出してくる、本質とはかけ離れたABC命題論理もどきです。実際問題から話をそらすために、時々使う手法です。殆ど意味はありません。テーマと題材から遊離した題材で理論家ぶっているだけで、実践的な説明・説得力の欠乏を表すだけです。
 
楽山は、真正面から考えて語ることが出来ないのでしょう。ここでABCなんぞに持っていく必要は全くないのです。論理学のように見せかけていますが、テーマをわざと難しく見せて、煩わしくして、こじらせて、楽山にとって苦手な人を、遠ざけようとしているだけです。
 
真理が、そんなにいっぱいあるでしょうか。いい加減でよいのでしょうか。真実の追求をする人は、集中して、考えて、精いっぱいの答えを求めますが、自己満悦だけを求める者は、面倒になると、わざと分散させて焦点をぼかして混乱を招くのです。元々、よく分かる話など、する気が無いからです。
 
 
自分は正しいと確信した上で、正義の怒りを爆発させていたり、相手のすべてを否定しなければ気が済まないというくらいに憎悪をたぎらせている人に対しては、可能な限り距離をおくという対応をとるしかない。
 
距離を置くことと無視スルーは違います。楽山は、実に平気で人を無視するのです。そして、迷路のようなABC話とか、捨て台詞や愚痴を言って混乱させてきます。このことが、既に、楽山が議論に不適であることを表しています。妄想と詭弁と嘘などで相手を混乱させて去らせるのが目的です。
 
楽山の理屈めいた話とは、誰も噛み合うことはないと思います。混乱を来たらせ、真に受ける人を疲れさせて、難を逃れるためでしょう。言ってることは、みな、自己正当化をベースにしているので、共有・共感できることが何もないのが、楽山の特徴です。楽山には、どうか関わらないでください。
 
 
詭弁と言い訳の長話

詭弁と言い訳の長話
 
 
(2022年08月15日)
 
 
 
  空しさ
 
空しくするのは人だけだ
道具は捨てたとき道具ではない
約束は捨てたとき約束と呼ばない
希望は捨てたときその名を失う
それ故さらに空しくする
鉄屑が黒い泡を吐いて沈んだ後
裏切りと報復のタールの沼に
溺れる言い訳
すくえる者が何処にいる
陸に干上がった解釈の尾ひれ
愛撫する者が何処にいる
尻の繰り言の磨ぎ汁
拭えるものが何処にある
それ故それでも横たわる
眠るばかり待つばかりか
過ぎると人が言うものを
訪れると人が言うものを
何も期待せずに
道具などない もはや
約束もない
それ故まだ知り尽くしてはいない
希望の汚名を被ったまま
底なしの沈殿が捨てきれずにいるものを
自分を空しくするのは自分だけだ
 
 
  祈り・神の法廷
 
人の法廷を恐れるよりも
いかなる嘘も言い訳も通用しない
神の法廷を恐れなさい
そこを仕切るのは全知全能
人は騙(だま)せても
神は騙されない
手練手管・戦略・弁舌・ディベート
あらゆる人の知恵の空しい所
なぜなら総ては余すところなく
すでに知られ見抜かれている
最も恐るべき神の法廷であるのに
ついに一円の宝も
天に積むことのなかった罪人は
しかし祈り願うのであった
救いを求めるかのように
喜びを求めるかのように
ただ一度かけられる
たった一言を
もうそろそろいいだろう寿命だ
迎えに従って昇ってきなさい
神の法廷が待っている
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
長々と言い訳めいた記事を、楽山は、書いたものですが、結局、自分は好きなようにやる、と言っているだけなのです。嘘と詭弁と、論理に見せかけた喩えと、結局は、他者が悪いと決めつける体質だけが表れてきました。混乱を招くだけなので、それこそ、無視スルーすべき楽山の雑言なのです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
供養とは、思いやりなのだろうと思う。死者の気持ちを想像し、共感し、手を合わせること。
ただあまり共感しすぎると、ついてこられることもあるそうです、恐怖体験談によれば。
>>
ryuho-okawa.org
供養とは「与える愛」
供養というものは、本来は「与える愛」であるにもかかわらず、子孫の側が、わが身かわいさ、浮世の生きやすさのために、「先祖が悪さをしないように」という思いで供養していると、そこに「奪う愛」が生じやすいのです。
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午後8:17 · 2022年8月14日·Twitter Web App
 
空しく飾ろうとしている楽山ですが、直接的な言葉「思いやり」「共感」としか書けない楽山です。そして、引用部分の「与える愛」にもかかわらず、楽山は恐怖体験談に結びつけていますから、誰にも供養してもらえないんじゃないかとさえ思えるわけです。恐らく愛が奪われたままなのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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