レイプ犯のような楽山2
 
 祈りと平安(『アウトサイダー』スティーヴン・キング著)
 2021年08月08日 楽山日記(LD)
 
 
遠慮もなく、自らを弁えることもなく、あらゆる良心の働きを捨てて、とぼけた顔と態度で、信仰をおとしめてくる楽山ですが、今に始まったことではありません。やさしい言葉で侮辱する習性の楽山を信じてはいけません。
 
 
*祈りと信仰
キングの小説を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
ホリーは床に膝をついて目を閉じ、両手を組みあわせた。朝と夜に祈りを捧げるというのは、かかりつけの分析医のアドバイスだった。ホリーは、自分はかならずしも神を信じてはいないと抵抗したが、自分の不安や計画を声に出して仮想上の“高次の力”に語りかけることが――たとえ神を信じていなくとも――ホリーの役に立つといった。意外にも、その言葉どおりになったようだった。
(『アウトサイダー 下』スティーヴン・キング著、白石朗訳、文藝春秋、2021年、p.9)
 」
祈りは、もし仮に神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い話である。
 
楽山の言う、神を信じる・・ということは、訂正不能に思い込み信じ込むことですから、信仰とは全く異質で真逆のものです。したがって、この時点で、楽山の語る信仰なるものは、信仰とは無縁の妄想ということになります。信仰は、共感であり、心の絆であります。楽山は、何も知りません。
 
そのことを私はずっと書いてきたのですが、楽山は無視して、勝手に書き続けています。無反省、無責任の、感性鈍麻で、心の無い、人間としての節操のなさを表すだけの、楽山の執拗さの本質は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山は、人の言うことなど、聞いていません。聞いたふうを装っているだけです。結局、自説の妄想に戻ってゆき、自分の言い分に引き込もうとしてきます。見せかけの柔和だけを身に着けて、非人間性の精神病理を隠し続けているのです。一定期間、楽山を見ている人には分かるはずのことです。
 
楽山が祈りについて語るなど、笑止なのです。それこそ、信仰をレイプしているようなものです。かけがえのない信仰の祈りにまで、楽山の、荒々しく、侮辱の粗い荒い手を伸ばして、愚弄する作為を、どうして許すことが出来るでしょう。楽山ごときの興味とは何の関係もないのです。
 
「祈りは」「神を信じていなかったとしても、よいことだとしているところは興味深い」・・祈りは魔法ではありません。しかし、楽山は、祈りに込められるものまで、気安く「よいこと」と言えば済むというほどの鈍麻した獣性によって触れてきます。気遣いも共感もない不感不応の罪の鮫肌です。
 
楽山が、信仰と思っているのは、超常の、現実離れした奇跡のことで、それを「高次の力」と呼んで済ませています。そして、信じ込んでいなくてもいい・・みたいな話にしています。つまり、楽山の虫のよさは、信仰がなくても、超常の力だけ、もらいたいという欲望なのです。そんな神はいません。
 
信仰が薄くても、非信仰者でも、祈ることが可能になること、神が祈りを受け取ることはあると思います。しかしながら、悔い改めの心も、共感する心も、皆無であり、かつ、今まで、信仰を侮辱して笑うだけだった楽山のような者には、祈り芝居などしても、下されるのは裁きだけなのです。
 
 
*例1
では、その祈りとは具体的にはどういうものかといえば、こうある。
「こんにちは、またホリー・ギブニーです。いまも自分なりにベストをつくそうと努めています。
[省略]
あしたはデイトンへ行きます。車のなかでわたしがずっと安全でいられるように、あらゆる交通規則を護るように、わたしを見まもってください。そしてわたしが手もとの事実をもとにして、最善の行動がとれるように見まもってください。その事実がまた興味深いものなのです」ホリーは考えをめぐらせた。「いまでもビルのことが恋しいです。今夜はこのへんで」
ホリーはベッドにもぐりこみ、五秒後には寝入っていた。
(同上、p.10)
 」
ホリーの祈りは長いので一部省略したが、全体的な流れとしては、まず神に挨拶し、友人たちの安全と幸福を願い、その後で自分の話をするというものである。
 
祈りは、人から神への、精いっぱい正直な音信です。祈りの時と場を得ることによって、不完全で罪深い自分から、絶対孤独を逃れて、生きる動機となるキリストの共感と愛は、生きる縁(よすが)となるのです。嘘と詭弁の履歴の上に、祈りを載せることは、ただちに偽物だと見抜かれるのです。
 
祈りを、単に、神に報告して願うことのような、楽山の軽い見なしなどは、信仰へのレイプ行為であり、悪魔の好むところであります。楽山が何を書いても、嘘と欺瞞と偽善など、滅びの兆候だけが表れると書いたことがありますが、楽山は、その通りに進んでいるようです。
 
 
祈りの効果については、神経質な性格のホリーが五秒で寝入ったことからするととても良いと言えそうだ。でも亡くなったビルにふれた一言からはホリーの悲しさが溢れていて読むだけで辛くなる…。
 
寝つきがいいから、祈りの効果なのでしょうか、信仰なのでしょうか。信仰を、まるで薬の効能のように安易に結びつけて、心理的な気休めと決めつけている楽山の、信仰へのレイプの有り様は、楽山が語ることの隅から隅まで、臭い臭い三文芝居にしかなりません。
 
「とても良い」「辛くなる」などと、振幅だけ大袈裟にしたような感情の言葉で、何か言い得たつもりになる楽山の、繊細な情感を持たない嘘のお世辞は、白々しさによって正体がバレてゆきます。人を傷つけて快感を得るサイコパスの身の毛のよだつセリフです。
 
 
*例2
ホリーの祈りをもう一つ。
《こんにちは、またしてもホリー・ギブニーです。いまのわたしには、あなたのお力が必要です。もうご存知でしょうが、わたしは知らない人と話すのがたとえ一対一でも苦手です。それなのに今夜これから六人もの人を相手にしなくてはなりません。いえ、故テリー・メイトランドの妻が来れば七人です。震えあがっているわけではありませんが、怖気づいてないといえば嘘になります。ビルならこなせたはずですが、わたしはビルじゃありません。でもビルとおなじようにやり遂げたいので、ぜひお力をお貸しください。人々から信じてもらえないのも当然だと理解し、信じてもらえないことを畏れないようになりたいわたしに、どうかお力をお貸しください》
そして最後の部分だけは――ほんのささやきだったが――声に出して祈りをしめくくった。「神様、頭がいかれちゃわないようにお力をお貸しください」いったん言葉を切ってから、ホリーはこういい添えた。「わたし、タバコは吸ってません」
(pp.91-92)
 」
これは惨殺事件の犯人像を捜査関係者たちに話さねばならない時の祈りだけども、これらの言葉からホリーは自分と自分の置かれた状況とを正確に把握していることがわかる。こうしてみると祈りというのは自分を知るためにも、物事を整理するためにも良いことのように思えてくる。
 
白々しいことです。「自分と自分の置かれた状況」を全く把握していない楽山です。祈りを「良いことのように思えてくる」楽山は、祈り芝居をすることがありますが、正直さがなく、自己中なので、祈りにはなりません。祈りには、神に対して、心の正直さが何よりも必要であり、真似では成り立ちません。
 
 
*祈りのすすめ
四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが、夜、寝る前に「今日一日無事に過ごせました。ありがとうございました」と感謝したり、悩みを神に打ち明けるというのは、心の平安と安眠のためにはよさそうだ。何か大事なことをする前に祈るのも心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう。
 
「四六時中、神様と話してばかりでは大変だろうが」・・四六時中祈ることはないということを知りながら、笑いながら、信仰をレイプしてくる楽山です。いつか、世々の悪と同じように、楽山が無事に過ごす時間が終わるときに、楽山が直面するために、悪は、長く、長く、放置されるのでしょう。
 
楽山の嘘が続きます。ときに褒めても、今までの、汚らしい否定を覆い隠すことは出来ないのです。楽山は、ただ、心理的効果の範囲に収まることだけを「心を落ち着かせるには良い効果はあるだろう」と言っているだけなのです。信仰のレイプ魔、楽山に、くれぐれも、だまされないようにしてください。
 
 
自分は「心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん」と考えてしまうクチではあるが、ホリーの祈りを読んでいたら、祈りは自分が思っていた以上に良いことのように思えてきた。
 
(ネットより)
こころ【心】 だに 誠(まこと)の道(みち)にかないなば祈(いの)らずとても神(かみ)や守(まも)らん
心さえやましくないならば、ことさら神に祈らなくても、おのずから神の加護があるであろう。菅原道真の作と伝えられる歌。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について
コトバンク
 
「心だに誠の道にかないなば」=「心さえやましくないならば」・・つまり、楽山は、自分は誠の道にかなっており、やましくないから、神に祈らない、と考えているようです。このような、身の程を知らず、人を故意に怒らせるような白々しい嘘を、平気で書いてくるのが、楽山です。確信犯でしょう。
 
信仰をレイプするような侮辱を平気で言い、良心もなく自分信仰の姦淫の罪を悦ぶ楽山の在り方は、人生の経過ではなく、裁きを予定された荒廃の経過なのでしょう。次々に醜さだけを表してきます。それで、まともに思わせようとしてきます。その分、自業自得で、末路の悲惨さを暗示しています。
 
巻き添えを食わないように、決して楽山に関わらないでください。楽山は、多くを捨てた後、さらに、多くを失ってゆきます。既に、地獄なのです。嘘吐きには、嘘の報いしか与えられません。今がそうです。楽山の行き着く先は、もはや言うまでもなく、想像を絶するところでしょう。
 
楽山は、一度も、祈ったことはないと思います。心に闇を抱えたまま、祈ったつもりになっても、気味の悪い思い込みの儀式にしかなりません。祈りは、信仰者が、心を込めて正直に行うことであり、ペテン師の楽山に出来ることではありません。その都度に、物知り顔の無知と無恥が進行します。
 
滅びの貯蓄をしている楽山ですが、信仰に生きる人は、楽山に関わらないでおれば、楽山の偽善と嘘と詭弁の害は避けられるでしょう。私のような批判者は、時間の経過を歩むしかありません。楽山のような偽善者は、どこにも良い影響を与えることができず、さらに醜い悪臭の病巣となってゆきます。
 
 
※ 姦淫は、偶像崇拝や背教の比喩として使われることがあります。その延長として、この記事では、レイプという表現を使っています。
 
 
冷血の住むところ

冷血の住むところ
 
 
(2021年)
(2022年08月20日、再録+加筆)
 
 
 
  夕日と私
 
水平線のかなたに沈んでゆく夕日
太陽から見れば
地球の輪郭の上に
最初から見えない私
私は夕日と呼んでいる
夕日は名付けない 何も
 
人が物を表す
物が人を表す
 
やがて海は去り
道は流れ
街は近づき
光が増え
減って
いきなり
闇を脅かすものが侵入する
私の部屋だ
部屋の私だ
一日の終わりだ
誰のだ
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱は ふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
雲がわき
雲が飛び
雑多な雲が流れ
千々に流れて
虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
 
 2021年08月08日
 「ブログ村騒動」発言集(ピッポ論争)
 
楽山は、発作のように、"「ブログ村騒動」発言集" なる記事を、続けて書いています。計画性のない記事の編集ですから、現実を見たくない楽山が、過去を、我が功績とばかり懐かしんでいるのでしょう。総て、無駄であり、裏切りであり、自己正当化であり、自己顕示でしかありません。
 
あまり読む人もいないとは思いますが、間違っても、ちゃんと書ける人などと思わないでください。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、自分の意見が、ことごとく、不正直なはかりごとだとバレてゆくので、何でもいいから、書いたことにしたいのでしょう。惑わされないでください。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の理解は、見栄っ張りの小学生レベルです。つまり、楽山には信仰は分かりません。楽山は、人をだますために、知ったかぶりで、時に、賛同しているかのような書き方をしますが、全部、嘘です。楽山の主張は、受けねらいであり、一貫せず、浅く発散して、何も残りはしないのです。
 
楽山を顧みるものは、いなくなるでしょう。というより、今までも、本当は一人もいなかったと思います。楽山が、自らの本当の姿を、誰にも、見せたことがないからです。褒めれば世辞、語れば嘘、説けば詭弁、書けば雑言、誰の役にも立たず、良きものを真剣に求めない欺きの結果が表れるだけなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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