不完全以下
 
 『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』
 更科功著 2022年08月24日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が読書をすると、どういう短絡が症状として表れてくるかを見ることになります。何かを伝えたくて書いてはいません。自慢化インテリ気取りか、自己顕示欲だけで読んで書いて、結局、自己満悦したいだけなのです。
 
なぜ人間が不完全なのかを、進化論的にはそうなるだろうということがあり、キリスト教的には完全なのは神のみであるから人は不完全ということで分かるわけです。大事なことです。楽山が自分という人間が完全だと思っているなら、それこそNPDの症状でしょう。
 
人間が完全である根拠など、どこにもないということです。さらに、楽山について言えば、不完全というより、一般的な人間理解による判断での正常な人格よりも、良心がないぶん、最低限も成り立っていない、つまり、不完全より、不全と言ってもいいくらいです。
 
 
*万物の霊長?
人は万物の霊長であり、地上でもっとも優れた存在であるとする考え方があるが、本書ではこれは間違いであることを豊富な事例によって明らかにしている。これを読むと、人は動物とは別個に、はじめから完成品として、この形で出現したのではなく、両者は連続していることがよく分かる。
 
人が万物の霊長であることを間違いとしている本を読んで「明らかにしている」と書いて、説明しなれば、理解していないということですから、読んでいないということにもなるでしょう。今までの、楽山の読書も、おおよそ、理解したとは言えないものばかりでした。
 
楽山にとって読書は都合のよい言葉集めなのです。この本も、その域を出ていません。「明らかにしている」「よく分かる」・・なのに、何一つ、説明できていない楽山です。本を、反省と学習と成長の糧に出来ないのは自己愛性人格障害の特徴で、自慢し満悦するために、整わないまま記事にするのです。
 
人類を、万物の霊長と言うのは、人類が、本能で活動する動物よりも、知能が高く、生活様式も内容も高等であり、より深い情緒を持っているということから言われることでしょう。そうでない楽山みたいな霊長とは言えない人も、例外として、人類の歴史の中に登場しているわけです。
 
聖書から、アダムとイブのように、人間が、最初から神によって霊長として作られているというのは、実存的に解釈した場合であり、そこに罪の起源もあるという重要な話です。罪も救いも分かっていない楽山のように、創世記を、科学的事実や歴史と対抗させるのは、反キリストの企みに過ぎません。
 
楽山は、ヒトという哺乳類の話と、人間の存在という宗教的な話を、どっちだ!・・という話にして、結局、以前からの楽山の反キリストの宣伝にしたいだけでしょう。しかし、これは、楽山に、科学や歴史、そして、宗教と信仰、どちらも語るに相応しい思慮がないということでしかありません。
 
聖書は、信仰による救いの教科書です。歴史的事実の教科書になるかどうかは、歴史学や考古学が考えることであり、恐らく歴史の事実そのままとは考えにくいと思います。その区別が、ごっちゃになっていると、楽山のように、とんでもないことを言い出す者が出てくるということです。
 
 
*死と生
また本書の末尾では、死があるからこそ淘汰が作用して進化が生まれるが、もし死がなければ淘汰も進化もなく多用な生物が生まれることもないとして、死による生というある意味残酷な見方が語られている。
 
恐ろしく長い永い時間にわたる進化というテーマですが、楽山は「死がなければ淘汰も進化もなく多用な生物が生まれることもない」ということを「残酷な味方」と言っています。楽山は、生と死に触れずに、趣味的に、心地よく、進化を知って物知りになりたいのでしょうか。感性の歪みを感じます。
 
進化の意味を知っているのでしょうか。死によって受け継がれるものを考えられないのでしょうか。「ある意味」は楽山の自己愛の狭い領域のことのようです。知りたいという興味で本を読むことが出来ていないのでしょう。楽山の趣向は、一気に展開する超常であり、現実ではないからでしょうか。
 
 
この辺りの理屈は分かり難くはあるが、生あるものは必ず死ぬ、死と無縁の生はないということは分からないでもない。でももしこれが真実であるとすると、「宗教で言われるような『永遠の生』なるものは、果たして本当の生と言えるのか? むしろそれこそが死ではないか?」という気がしてくる。もっともこれは答えのない問いであり、考えても詮無いことだろうけど。
 
楽山は、いつまでも、小学生レベルの疑問のままで、また、愚痴を言っています。日常的な時間でないことが分からないのでしょうか。まだ、宗教なら時間の永遠をくれとでも言うのでしょうか。キリスト教の言う「永遠の命」は、寿命の時間の長さではないし、手に取るように分かることではありません。
 
そして、楽山は、分からないという代わりに、自己愛から、いつものように短絡して「それこそが死ではないか?」などと、対象のテーマごと否定してきます。共感を求めるつもりで言ったのなら、死の共感を求めていることになります。恐らく、宗教を否定したいから書き始めて、ズルズル滑っているのです。
 
そして、また短絡して、自分に分からないことは「答えのない問い」だと決めつけて「詮無い」のだそうです。「詮無い」だけなら、何の糧(かて)にもならないことを書くべきではないです。やはり、無責任に、自己中に、言いたいだけ言って、責任を負わない楽山が表れてくるのです。
 
しかし、生きていて、一瞬の中に、永遠を感じることはあるわけです。それが、何かに感動する時などです。そして、それで生き方が変わるならば、その人は、その解放感に出会った時を、永遠と呼んで不思議はないのです。つまり、感性によって受け取る永遠は、物理的な時間ではないということです。
 
知性が詭弁と嘘でしかなく、感性が育っていない楽山には、永遠という言葉一つとっても、何も理解できず、広がるものも無く、自己中に、自棄的に、短絡するしかないのでしょう。しかし、だんだん、自棄になる感じが増えてきて、知性も、元々成り立っていないのに、退化してゆくようです。
 
歴史上の事実は、過去にあり、現代の人々は、その真偽を推測しています。信仰上の真実は、現在の個人にあり、生きるために必要なこととして、信仰者は、考え続けるのです。そういう区別が全然できない楽山は、どちらを語るにも、失格です。世迷言ばかり言う楽山は、甚だ迷惑です。
 
 
学習と成長 怠慢と不全

学習と成長 怠慢と不全
 
 
(2022年08月26日)
 
 
 
  病と自殺
   ----虚無の力
 
病は試練であり
自殺は最大の罪である
というけれど
 
死後が楽だという保証はどこにもない
という教えは間違ってはいないけれど
助ける力にならないときもある
 
生きた方がよいか死んだ方がよいか
それは生きてみなければ分からないこと
という思いに変わりはないけれど
 
もう充分長く
試しに生きてみました
と察しを付けてしまった人には
無力なのかもしれない
 
生きるのに勇気は要らない
死を上回る死があればいい
と書いたことがある
 
見かけの関係や効率の叩き出す数が
人間の価値さえも決めてしまう時代
駆り立てる圧力に押されて
希死へ走り出そうとする速度は
急制動を掛けられた生産速度
と反比例するように
止めることは至難の業だろうか
 
死を上回る死とは
死ぬ前に死を殺すこと
死のうとする精神を殺すこと
精神は殺し肉体は生かしておくこと
生きながら屍への虚無の力動である
 
残された肉体は精神の遺物に従って
飲食と排泄と睡眠という
肉体の維持だけを行うことになる
そのとき目は虚となり
口は無となり
耳は空となるだろう
かかる虚無の精神世界において
人との関わりや柵(しがらみ)や
仕事や効率が齎(もたら)す圧力は
もはや何の形も意味も成すことはない
 
肉体は細胞であり
精神は機能である
肉体が死ねば精神も終わるだけだ
しかし
復活はしばしば
午睡のあとの目覚めのように
あるいは雪解けのように
緩やかに訪れる
例えば何かをしたい
と静かに語りかけてくる
 
なぜなら精神が死んだようでも
細胞という自然に抱かれており
自然は常に自動して
変転し再生しているからである
 
死を上回る死を生きる
それがどんなに怠け者と見られても
狂気を上回る狂気と見られても
未来永劫の死を背負い込むよりは
今日一日の
精神の死を過ごす方が負いやすい
 
明日は明日が過ごし
自然の変転のうちに
いつか与えられる死を迎えるだろう
 
肉体を殺すな殺してはならない
精神を殺せ殺してもかまわない
と許したくてたまらない人間が
少なくとも一人
自らが生きもせず
自らが死にもしないために
ここにいることを告げておきたい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、退行しつつあるのでしょうか。真善美や宗教・思想などの大きなテーマとして考えるべき理路や命題が、つながらなくなってきたようです。「考えても詮無い」のは、楽山にとってです。私たちは、健康な精神で、学習し成長してゆくために、不完全ゆえにこそ可能性を信じて努めていたいのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング