楽山の偽り方3
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命でしょうか。
 
私は、反キリスト楽山を資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。楽山の書く文章は、ちょうどよい世辞の対象になりがちですが、よく読めば、真善美につながる内実は、何もないのです。
 
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
楽山が断定しないと言っているのは、語尾を曖昧にしていて、それを免罪符のように思こ込んでいるに過ぎません。実際は、曖昧で婉曲的な書き方は、率直なのと比べて、はるかに、嫌らしく気持ち悪い印象になります。楽山が、断定しないからいいだろう・・と思っているなら、大間違いです。
 
霊言なるものや、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、甚だしい無理解を示す根拠として明らかであります。丁寧語で書いて、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。底意地の悪さは隠せません。
 
楽山は、断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、偏見を刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意の誘導であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方で、つまり、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。どこまでも無理解で、人の気持ちの分からない楽山です。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定のベースなのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しないので、断定できず、判断も出来ず、それを反省する代わりに、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
楽山の勘違いは、まず、意見をはっきり述べるということと断定して訂正不能にすることの違いが分かっていないことです。どう信じているかは、はっきり言わねばなりません。それが、真実でないならば、その信仰はカルトであります。
 
しかし、楽山の場合には、主張が靄の中のように明確さを欠いているので、何もはっきり言えないだけです。つまり、思想がないのです。したがって、何もはっきり言わないのがいい・・などという自己弁護の妄想に陥っています。何も本気で信仰したことがないからです。
 
信じていないなら何も言わないことです。自分が明確に言える何ものも持っていないから、その不明を人類に当てはめるというトンデモが楽山です。誰が不明確な主張を信じえましょうか。楽山は盲目を信じているカルトです。誰の助けにもなりません。楽山は主張すべき真実を何も持ってないのです。
 
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる悪知恵として、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、そえゆえ、中身がないぶん、いっそう醜く煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、今のままでいいと思っているなら、もう何も書くなと言っています。詭弁だらけの理路、虚言、無感性、無共感、無反省、そして無責任では、人間として、目も当てられないほど、欠格なのです。
 
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。何も読まず理解せずに、人真似をして、言葉だけ引用すると、このような無知蒙昧になってしまうのです。
 
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところでもあります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
絶望でも、希望でも、人が勝手に決めつけてよいことではなく、私たちは、一人一人の人生の中で、この言葉を味わうべきであります。少なくとも、お祭り騒ぎの香具師のような、野卑な楽山を参考にしてはいけません。キリストの絶望の言葉を補えるのは、神だけであります。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、ボクは総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・とか言っているようなものです。
 
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
部外者の楽山は「捨てる」などという選択の権威を、いったいどこで与えられたのでしょう。言った傍から「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、身の程知らずの権威主義も甚だしいのです。自分は頭がいいから有名になりたいというのが、楽山の悪い夢でしょう。楽山を「捨てる」べきです。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、小中学生の時に、私もいだきました。楽山の信仰理解はゼロです。楽山が書くことは災いです。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山は、神と取引して損得勘定するような身の程知らずの病魔に蝕まれているだけです。
 
楽山のような因果応報の惨劇と違って、原因も分からず打ち勝つことも出来ないような悲劇があります。そういう悲劇に共感するキリストは、御自らが、最も理不尽で悲惨な災いを受けることで、魂の不滅に共感することが、新しい命の世界を開くことを証ししたのです。
 
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無です。だから感動とは真逆の刷り込みしか出来ません。楽山にあるのは、屁理屈、詭弁、妄想などです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観的洞察は、心を解放です。楽山には皆無です。
 
理屈というのは、欲しく思って付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、何もないのです。
 
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
信仰として必要なものは、生きるための感動からの共感力であります。楽山の「無難、穏当、一般的」は嘘です。何も開かれるものがないからです。月並みだが否定するのも何だか、・・というような言など、何の役にも立たず、ほぼ、お世辞と同じなのです。楽山が理解されないことこそ幸いです。
 
トンデモを退けるなら楽山の言葉を退けるべきです。楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないトンデモです。既にバレているのです。楽山は、祭の夜店でインチキを売るペテン師です。
 
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
「ほどほどの理屈で満足できる」と、楽山が自白しています。何も真剣味のない自己愛者の、いい加減な、与太話です。楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものです。それで満足すること自体が、楽山の言論不適応の根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。
 
言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。結局、何も整っていない者が、自己顕示欲のために、でっち上げの、良さそうな話で組み立てているインチキであります。それを、真顔で、書いてくる身の程知らずが、楽山に他なりません。
 
人間は大方の生き方を言葉を通して学びます。言論は「ほどほどの理屈で満足できるもの」ではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していません。楽山の言は、参考にもなりません。ただただ、嘘と詭弁だらけで、迷惑で、害になるだけです。
 
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
楽山は「無難、穏当」以外は、トンデモという理路のようです。心の底に生き続ける真実の共感というものを除外しているか、見えないのです。ひどい怠け者が大切なものに触れる感性がないのが悔しいから、自己顕示だけはしたいという動機で、深い思慮もなく、口から出まかせを続けているのです。
 
「無難、穏当」は、命を支えません。だからトンデモを退けるなら、まず、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。楽山は、真実の追求に、いちばん邪魔な障害物~惑わしの危険物です。楽山は、感動という言葉を知っていても、感動体験を知りません。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の言うことは、大方、体験に基づかない屁理屈です。
 
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。屁理屈だけを振り回しているのは、楽山です。楽山自身が、いつも、無味乾燥の屁理屈だけを言っています。私の経験として、3年以上、それだけです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要になります。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないことです。
 
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。「常識的で穏当なもの」は、楽山のものでしかなく、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないものが多いのです。さらに、楽山には常識はありません。楽山こそ嘘と詭弁とリーダー妄想のトンデモです。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、穏当などではなく、信仰は、人の心をとらえる、縁のようなものです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け、成長をしない楽山は、人の言葉を食い、排尿、排ガス、排便しているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に真実はありません。
 
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の常習です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいても、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。それでも書き続けるのは、それが病質だからでしょう。
 
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、この世を、いい加減色に染めたいだけのペテン師です。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だからこそ、とても異常~狂気なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の自己中と無反省は「(笑)」だけを、結局、楽山にもたらしてゆきます。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症状をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、おぞましい醜さが付きまとうでしょう。
 
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は完全に排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない楽山であります。見せかけの柔和をもって、嘘と詭弁で誘導し、だますのが楽山です。
 
私が楽山に対して批判として書いた「感性」「良心」という言葉を、楽山が、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っておらず、代わりに、当てつけや皮肉で、笑っています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書くべきではありません。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。楽山は、感性と良心を虫食む病質人格です。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いをしながら進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、楽山は、人の好意を貪ります。誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
いちいち嘘ばっかり

いちいち嘘ばっかり
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月27日、再録+加筆)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
 
  永遠の友・共感信仰
 
(人格は
 人格を超えるものを
 理解できない)
 
(人間の心を動かせるのは
 あくまで人間的な体験であって
 人間を超えるものではない)
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい心の絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の投稿が、最近、少ないようです。3年余り、楽山が何か書けば、私が、その非道を指摘し、楽山を批判し、楽山の言を否定しているからでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識がないので、説得は無理です。批判し続けるしかないのです。
 
 
 
>(楽山リツイート)
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】教義がおかしくなくても、伝統的な宗教でも、指導者への絶対服従や偽装勧誘などを指示し、金銭的・身体的・精神的被害をもたらしてしまうカルト(化)教会は存在します。カルトかどうかは「何を信じているか」ではなく「何をやっているか」が判断する基準です。
午後9:33 · 2022年8月24日·Botbird tweets
 
キリスト教でも、おかしな教派や、さらには、キリストの名を悪用するカルトはいます。しかし、真実を大事にするキリスト教と信仰を知らずに、おかしな教派をもって、キリスト教全体を否定することはできないはずです。それを書きたがるのが、飢えたケダモノのような反キリスト、楽山です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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