楽山の聖書曲解3
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっていると、自分を誇るためでしかないのです。楽山は、何も理解できないのに、聖書とキリスト教をおとしめているつもりのサディストに過ぎません。
 
 
第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。
 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書)
 
ヨブは、神に近づいてはいません。
背きそうな心情を、神に向かって、正直に訴えているのです。
 
例えば、自分は、神にとって、何なのか、監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ救ってくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをするしかありません。楽山は、神を知らず、信仰を知らないので、いい加減なことを言って、反信仰を表しているだけです。
 
楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、楽山が部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。
 
 
第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。
 
悔い改めも知らず、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもないなら、黙っておればよいものを、分かったふうに、キリスト教に、ちょっかいだけを出してくる楽山という悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。
 
楽山の言は、悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分をも、見ようとしてはいません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、信仰から、いかに遠いかという実例となっています。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書)
 
ビルダデは、パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。正しいことをすれば栄える・・これは結果として表れることだとしても、正しい人など、一人もいないのです。
 
 
アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
誰にとっても、この聖句は、理想であり、あるいは、神の愛を表しているのであって、全部否定形にすれば人の現実となります。ゆえに、相当な戒めの言葉になるでしょう。ここを読んで、いい気持になるだけでは、読んだことにならないと思います。楽山は浅はかです。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、自分以外、何も信じていません。
 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、愛の賛歌と呼ばれるコリント13章を挙げるのは、笑止であり、愛の対極にいる典型が、学習も反省もしない楽山であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、神と人に復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパスであり、凶暴で執拗な反キリストです。上に書いたように、愛の賛歌の言葉を、すべて否定形にしたところに、楽山がいます。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、今だけ無視して、聖書について厚かましく書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。楽山は、罠をかけようとして罠にはまってしまう例です。
 
 
ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。
 
楽山は、この記事のように、あたかも、神の側にいるかのような記事を書くことで、本心ではなく、嘘だとバレており、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人ですから、キリストからも決して赦されることのない偽善者です。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけの自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、真っ向からのキリストとキリスト者の敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。楽山の今までの履歴が、楽山が反キリストであることを示し、この楽山の言を否定しています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っているだけの人です。
 
 
もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。
 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語れば、似たような教条の上辺だけになってしまうのです。中身のない評論家気取りに過ぎません。
 
楽山の、今までの、神義論(弁神論)の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家がでっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
今回も、反省もなく、自粛もせず、キリスト教と聖書を知っているかのような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していており、偽善者に相当する楽山です。
 
 
三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。
 
楽山は、人を誘導し巻き込みますから、そこは、蜘蛛の巣のような、罠に満たされます。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。嘘を吐くことへの罪悪感のない証拠です。
 
楽山は、精神の詐欺師であること以外に、何を伝えたつもりでいるのでしょう。ここまで白々しい者に掛ける言葉は、どこからも、あっちに行け!・・以外には、ありません。
 
 
これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。
 
「穴があったら入りたい心持ち」ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そして、今も、侮って裁いていることが、このペテンの敬虔芝居に表れています。
 
そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきたのです。そして、また、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。そのようにして、楽山は、自らを、高みへ高みへと上げるつもりで、実は、闇へ闇へと転げ落ちてゆくのです。
 
楽山が、聖書とキリスト教の記事を書けば書くほど、だまされる人は増えるかもしれません。しかし、楽山が、神とキリスト教に対して、無反省に暴言を放っておきながら、あとになって「反省」と書き、ほめ言葉を書いて、まるで、物質のように中和できると思うのは、愚かな企みであります。
 
むしろ、中和も平和もなく、逆に、偽りに偽りを重ねることで、楽山の性根の腐れ具合が尋常ではないという証拠になってゆくのです。いずれ、ひきつった笑い顔で、鏡を見ることになるでしょう。情緒面が、ますます壊れてゆくでしょう。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、子供だましのレベルです。文章表現が、ますます壊れてゆくでしょう。
 
楽山を批判している理由は、内村鑑三のような有名人の本を引用して、字面だけ読んでも、心の無い者にキリスト教を語ることは出来ないのに、無理解と自己愛と自己顕示欲で語れば、さらに、嘘を吐き、偽りを広めることになるからです。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、勝手すぎて、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰は、活性をもって、働いているのです。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に、あっさり賛同しました。何も理解していない証拠です。さらに、何も考えていない証拠でもあります。
 
このことは、楽山が、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となるだけでなく、無反省に反信仰を語り続けるケダモノでもあるということです。反省して、正直な祈りによって、悔い改めるのが、信仰であり、悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得しようなどという意図は既にありません。楽山は、シャロームと、恐らく、同一か、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、元々する気のない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、楽山は、また、理解を装って書いてきます。恐らく、理解を示したつもりのうえで、否定したいからでしょう。
 
この自己顕示欲の醜い有り様こそが、楽山の、おぞましい正体であり、実際には、宗教と信仰への根深い怨念による悪意が、逆に、表れている結果となっているのです。人間は、ここまで腐ってしまう、という悍ましい有り様を見ています。
 
楽山は、情感も共感も理路も人生の学習を怠ってきたゆえに、宗教・信仰・思想が不可能になっている自身について、考えもせずに、悔いもせずに、白々しくあたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いてきます。三文芝居で出来ている仮面の人生です。
 
それで、何か言えることがあると考え、何とかなると思っていることが、何よりも、現実におけるホラーの異常性となって表れているのです。楽山の自己愛と自己満悦は、今後、さらに、異様な様態を表してゆくでしょう。
 
 
粉のように 無理解だから書いてくる

粉のように 無理解だから書いてくる
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月01日、再録+加筆)
 
 
 
悪魔については、自分にも当てはめて考える必要があります。超常の化け物としてより、怖い悪魔が、人の心には、棲んでいるのです。それに気づきもせず、笑っているのが、楽山であります。感情と情緒に深みがなく、企みに満ちて、他者の不出来だけがエサとなっているケダモノです。
 
楽山は、今のところ、3つのブログと、3つのHNで、2つのツイッターを書いています。これから、また、さらに別のキャラに成りすましてくることが予想されます。誰も近づいてはいけないと思います。HNを変えれば分からなくなるでしょう。だから、自己中の筆致を覚えておくためでもあります。
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているもの
と考えてみる必要が常にあるだろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
 
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
 
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
 
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
 
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
 
前に載せましたが
2019年07月26日 22:53
楽山に送られたコメント
 
「 
隆くんへ 
・・・
嘘ばかり 重ねる君よ
保身だけの 卑怯者の君よ
そんな君は 魅力の欠片もないのに
・・・
失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
最大限の償いと 最大限の反省と共に
開いた出店を 畳むしかないんだよ
 」
 
これに対して楽山は、
 
「これも一種の、人間の性なんでしょうかね。」
と書いて、人間一般の話にすり替えています。
 
どうしようもない人です。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターですが
 ( 楽山から raku、隆から taka )
 
taka
@taka84156681
·2時間
物申す系YouTuberで誰かを追い込んで自殺させた例はまだいないとされる(シバターにはあるらしいが自殺とは断定されていない)
ただ今の時代は誰かを吊し上げて正義という名の集団リンチをなにかと目にするので将来的にそうなる可能性は十二分にある、そうなるとその物申す系は人を死なせたレッテルが
午前1:47 · 2021年8月17日·Twitter for Android
 
楽山は、悪事を好きなように続けさせないと自殺するぞ・・とでも言いたいのでしょうか。被害者のつもりなのでしょうか。通らないものは、通らないと言い続けるほかはないのです。誰も近づかないようにと批判しています。放置すれば、人格と人生を破壊されてしまう人が出てくるからです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害からの害を、自己愛性パーソナリティ障害者だから自覚できないということでしょうか。それとも、また、正義の味方気取りなのでしょうか。悲劇のヒーロー気取りなのでしょうか。加害者が、被害者面して、何を言っているのでしょう。
 
私は、楽山について、2年半の経過から言っています。罪悪感、後悔の念、羞恥心が、楽山にはありません。宗教・信仰など、真実の追求という大きなテーマを書く上で、楽山は、反省する気がなく、責任も負いません。言論の責任を負わない人に、言論の自由はありません。
 
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
·8月15日
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 
このように、人の意見を拾って他の宗教を、あざ笑うのが、楽山の趣味です。こういう人には、宗教心も信仰もありませんし、ありえないと思います。自分を見ることが出来ない人なのです。だから、自分の問題に気づくこともないし、そういう人は、宗教とも信仰とも、真逆の人生になります。
 
つまり、信仰を持つ人を、自分より劣った人と見なしているということです。こぼれ話で、信仰者の失敗や失言を漁り、それを笑うことに生きがいを感じるのでしょう。楽山を批判して、3年余り、そういう態度ばかりでした。
 
信仰者は、人生の問題として、信仰を考えます。楽山は、なんで悩んでいるの?、宗教なんて意味ないでしょ・・とばかり、笑っているのです。信じないなら信じなくていいけど、信じることを笑う人は、人間性に欠陥のある人です。楽山の実在は、そういうモデルとなっているのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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