楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、根拠もなく自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労します。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、神を信じるというのもいろいろですし、十把一からげに言うのは乱暴なのです。何より、信仰は、霊格などという格の話ではありません。さらに、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格が最低という人もいるわけです。
 
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
まず、宗教や思想は、人を決めつけるためではなく、人を癒し救うためにあります。さらに、人が、宗教や神を決めつけてはいけないことのほうが大事です。何故なら、現に、楽山のように、宗教も、神も、人も、自身の貧相な偏見で決めつける輩(やから)がいるからです。
 
つまり、宗教や思想ではなく、楽山のように、病的人格によって、人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者がいるということです。そういう者は理路も感性も無いので、そういう者に過大評価あるいは過小評価されることには何の意味もありません。
 
楽山は、理路が整っておらず、感性は殆ど皆無であり、さらに、人間にとって大切な、高等感情の、思いやり、羞恥心、罪悪感などが、育っていないのです。評価そのものが出来ない人であり、さらに楽山の宗教は、霊格でも何でもなく、ただの無反省な自分信仰でしかないのです。
 
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的立場が保守だから信仰宗教というのは、政治と宗教を混同した見方であります。さらに、楽山には政治的立ち位置などありません。自らを過大評価しているだけの者には、保守どころか、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。楽山は、ナルシズムが自分信仰に没入しているだけです。
 
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
体のいいことを書いたつもりで、実際は、何も書かないより悪い、というのが、楽山の記事です。今まで表れてきたことは、楽山の「公平」は、上から見下ろして悪口を言うことです。それに、楽山は「努力」しない人です。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な別の分野です。字面だけで、理解していないから「など」と軽く扱います。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる楽山の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように並ぶという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしてくる詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき劣悪なナルシストです。
 
楽山には、無反省の自己中の軸しかないので、公平どころではなく、字面だけを振り回します。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っていて、それが、ああでもないこうでもない、という、婉曲的な言い方の、ボンヤリ言語となっているのでしょう。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。推測ですが、例えば、一般の論理としては、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、何も語っていないし、また、解説も出来ていないということです。
 
楽山は、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間の必然だという視野を持たないのです。要するに、怠慢で、考えるのが嫌で、そこから、柔和で広い視野を捏造し、うわべだけの空っぽ思想になって、しかも、それを自慢しようとするから迷惑なだけになります。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、どっちつかずだったり、成り立たないことを主張したり、知っているふりをして、中庸かつ冷静な言論者気取りの慢心で書いてきます。書いた文章の量だけ、楽山は、読者に対して徒労~堕落を生産し促進しているのです。
 
楽山は、一見よさそうで曖昧な言葉を並べているので、読者が刷り込まれてゆく可能性があり、読者が、楽山自身と同じような鈍化のプロセスを通して、人格の鈍化~破壊の被害者から病因となってゆくでしょう。早く、中身は何もないことに気づいてほしいと思います。
 
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
ならば、早く、書くのをやめることが、世の中のためです。面倒くさいと言いながら、笑いながら、人を困らせるのは、赦されないことです。
 
「生き神様信仰」や、人間に対する「個人崇拝」は、あり得ません。人間は不完全だからです。「師に学ぶ」というのは、受け取って学習することであり、楽山が、全然、やってこなかったことです。
 
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、いちばん自分を客観視できない楽山が言っています。今まで見てきて、楽山は、信じることと、証明することの区別も出来ず、先入観や偏見から、訂正不能の主観が見解となって固定しています。曖昧な筆致で、狡猾さらに悪質です。
 
信仰は、個人的な体験がベースとなりますから、完全な客観視は出来ないと思います。かといって、主観で決めつけてはいけないのだから、祈りが必要であり、考えることも必要です。どちらも、楽山には全く認められないものです。
 
 
カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているふうの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。以下の( )内は、補足のつもりでしょうか。
 
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・楽山の持ち物です。楽山は、結局、否定しているのではなく、つまり、アンチHSではなく、教祖願望から書いているのでしょう。自分の教えが正しいつもりなのでしょう。しかし、楽山の否定でも肯定でもない心無い理屈は、誰も救うことなど出来ません。
 
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
ここが、楽山の無神教カルトの要点であり、不成立の証拠であります。宗教と信仰が人を救うのは、証明されたからではなく、心が動かされ、共感し、忘れられなくなるからです。楽山の言説には皆無のことです。「信仰が真であることをを証明」・・ここで、楽山はアウトです。
 
それに、楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。そういう人に、証明を・・・と要求される人は、気の毒、不運としか言いようがありません。つまり、楽山は、宗教と信仰の性質を考えもせずに、自分の論理=詭弁を自慢して、困らせるだけの存在です。
 
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
楽山は、自分が解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。対話のズレ、と言っている楽山は、誰よりも先入観と偏見によって、ズレが固定しており、殆ど対話が成り立たないレベルであり、偏見と先入観で出来ているような人です。
 
カルト批判は、まず、訂正不能の自分信仰者である楽山自身に向けるべきテーマなのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞ)ましさが表れています。楽山の対話は、楽山が話し始めた時点で甚だしくズレているのです。
 
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。楽山の言うこと、教えてくることは、誰も救えないような、曖昧で、陳腐な、擦り切れた道徳のようなものです。楽山は、宗教を、楽山風味の退屈さに貶めるだけの、退屈で怠慢な男です。
 
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。恐らく両方です。必要もなくお節介に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分勝手は、他ならぬ楽山なのです。
 
今まで、それこそ自分勝手な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。楽山は、理路が整わず、理路を乱してゆくような書き方ですから、結局、ブーメランを、誰よりも食らう人なのです。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解していません。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。病質の症状です。ブーメランの痛みも感じないのでしょう。
 
対話になっていないような気がします。どっちが批判者なのでしょう。全部、楽山の独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、自慰行為として、独り芝居をして代償しているのではないだろうかということも考えています。
 
楽山は誰からも相手にされないのが当然とは前から思っていました。こちらが批判しているからか、楽山ブログは、最近ずっと・・いいね、拍手、コメントは、殆どないようです。もし賛成している人がいたら、楽山の詭弁に嵌っている人でしょう。楽山を受け入れる価値は皆無です。
 
 
 
偽牧師シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同も頷(うなず)ける。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また一方、否定の証明もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の、自己中妄想ペテン師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して近寄らないでください。楽山に関わっても、待っているのは、異常な疲労と、人格の鈍麻と破壊だけです。
 
 
人格がゴースト

人格がゴースト
 
 
(2020年)
(2022年09月12日、再録+加筆)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
見て見ぬふりのあなた
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔

外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、人格はないのかもしれません。嘘と詭弁の悪い作用しか見ることが出来ません。出力だけで、入力がないのです。言われたことは、記憶にも耳にも入っていないと思います。記憶の、記銘+保持+想起が、自己愛性人格障害のために出来なくなっているのでしょう。これは人格として異様です。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
相手の意見を認めないということは、
まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
<<
 
ドラえもんに事寄せて、また、卑怯なことを言っています。楽山は「自分の意見をしっかり持つ」ことが全く出来ない人です。いちゃもんを書いて、実際は、責任を負う気もないのです。能力の問題以上に、人格と良心の問題において、楽山は、言論において失格です。楽山を相手にしないでください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ただ棒氏は、なんでも知ってると言うわりには、修行者として第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということは知らないようで、そのせいで増長慢という陥穽にはまっているようだ。残念🙏
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカ
 
楽山は、「謙虚」さを微塵も持っていません。楽山は、客観を持たず、自分は整っている、反論できる、という、内実のない妄想的確信で書いてきます。楽山が、どんどん醜く卑怯になっていることに気づかないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は傲慢キャラだとは思ってたが、さすがに、すべてを経験し、すべてを知ってると言い切るほどだとは想像もしてなかったよ(笑
>>※
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
<<
午後10:45 · 2022年9月1日·Twitter Web App
 
「(笑 」と書いてあるのは、相手に対する軽蔑と侮辱のしるしです。楽山は、勉強嫌いと怠慢を隠して、間違いははなく知らないこともないという訂正不能の病的な前提から書いているので、気に障ると、笑いと怒りしか返せないのです。怒りを隠して「笑」を入れてくるほうが多いようです。
 
「すべてを経験し、すべてを知ってる」という慢心は、楽山の書いていることを3年以上見てきて、楽山について、ずっと感じることです。また、いつものように、ブーメランとなって、楽山の雑言が、楽山に返ってきています。楽山がアカウントを制限されている理由に関係しているのでしょうか。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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