煽動者楽山2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
 2021年09月12日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
「見てみた」と軽く読書をして、無神教カルトの学者らしい人を、べた褒めする楽山の記事です。大袈裟に賛同するだけで、何の洞察力も直観力も理路もない楽山の稚拙な筆致と貧相な中身を見てほしいと思います。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の暗夜を徘徊する楽山です。
 
 
*ドーキンスの名言
「リチャード・ドーキンスbot」を見ていたら、名言がたくさんあったので、自分なりの感想をメモしておきたいと思う。
*超越者としての神
もし神が存在したとしても、それはどんな宗教のどんな神学者が提唱してきたどんなものよりも、はるかに巨大で、はるかに理解しがたい存在だろう。
 」
これはまったくその通り。神は人を超えた存在であるなら、人の思念の外にはみ出しており、その全体像はおろか、一部でさえも認識するのは困難だろう。
 
神の不可知と不思議は、当たり前のことです。何人も、神をこの世の事物のように対象には出来ません。人間に、さらに、楽山ごときに、分かる存在ではないのです。だから信じないのなら、黙っておればよいのに、欲求不満と自尊過大から、文句ばかり言っているのが楽山であります。
 
楽山は、神に会うこともなく、神を感じることもないでしょう。いくら、楽山が、自然の驚異や超常話で、神を語ったことにしようとしても、この2年半、全く、罪を認めず、敬虔も皆無なのは、神を知るための感受性がないということだから、何を言っても無駄なのです。
 
楽山には、宗教など語らず、それよりも、小学校の道徳を身に着けてほしいです。そこが、無反省・無責任のために出来ていないから、今も、厚かましく口出しをするわけでしょう。楽山は、書くたびに外れ、書くたびに醜く、書くたびに知能が低下してゆくようです。
 
神は不可知ということをもって、単純に短絡して、神を否定したい楽山ですが、この主張こそが、信じて、仰ぐ、という希望のスタンスを、全く、理解できない証拠として、これからも、無神教カルトの醜態は続くのでしょう。
 
 
*旧約の神
『旧約聖書』の神は、おそらく間違いなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である…血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをする弱い者いじめだ
 」
自分の第一印象も大体このようなものだった。旧約の神は、当時の絶対権力をもった王様がモデルになっているという指摘も、さもありなんと思える。
 
自らの不遇を、あらゆる災難を、神のせいにばかりする人もいるんですね。実際は、歴史の悲劇も、昔の物語も、皆、人のわざを見たからこそ書かれているのです。これを、不愉快だというのは、自分の不完全さも罪も欠点も、何も見ないで、他者を責めるような人物だと思います。
 
 
ただ自分は繰り返し聖書を読むうちに、神は人に何度裏切られても、その度にゆるし続けていることに気付かされ、その慈悲深さに涙がこぼれる思いをしたことがあるので、旧約の神を峻厳だが人を慈しむ存在だと信じる人がいたとしても、その気持ちは理解できなくもない。
 
「ゆるし続けて」「慈悲深さに涙がこぼれる」・・これは、楽山の自己正当化の嘘だと思います。楽山の涙を信用してはいけません。もはや、楽山が書いても、あざ笑いの履歴から、全く信用できなくなってしまっているところの、感動とか涙とかいう大根役者の大袈裟なセリフなのです。
 
昔も今も、信仰者にとって、神は、この世の成り行きを支配する御方として、その全能の権威を恐れ、罪深く病んでもいる人間に共感するキリストとして、その救い主の慈しみに癒され、ゆえに、祈り、人間らしい共感という愛の、同伴にに支えられて生きる恵みであります。
 
 
*神様いろいろ
ありえそうにない話ではあるが、もし仮に死後に神に会ったとしら、最初に私が尋ねるのは、そうだね、「あなたはどの神さんですか?」ということだろうね
 」
これは笑える。巷には各宗教の神々はもちろん、神を自称する人々も無数にいて、神様のおしくらまんじゅう状態であることを思えば、こういう挨拶もやむなしだ。
とある人は「石を投げれば神様に当たる」と言っていたけれども、これは至言だ。
 
神を自称する人と、神は違います。楽山のように神を笑う人と、信仰者も違います。楽山が、いくら石を投げても、当たるのは、楽山が妄想している偽物の紙細工だけであります。神を、十把一絡げにして遊んでいる楽山は、やがて、紙屑になるだけだからです。
 
楽山は、その思念の中で、自分独りで、おしくらまんじゅうをしているのです。それで、神がどうのと言うのだから、全く話になりません。神の大安売りをしている楽山には、決して、関わらないでください。楽山というペテン師の安物の伝道者気取りの被害に遭わないように。
 
 
*個人的な体験による神の存在証明
個人的な体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、最も説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、最も説得力のないものである
 」
かつて自分が所属していた宗教団体でも、大体このような論法がされていた。信者が語る奇跡体験によって、「神の存在が証明された」「この宗教が本物であることが証明された」と結論づけるわけである。
 
心理学は、基本的に、神については語らない、そして、語れないと思います。全く分野の違うところから、神について語る者を信用してはいけないです。心理学の心理は、あくまで、人間の心理であります。まさか、心理と真理をごっちゃにしようというような安い詭弁ではないでしょうね。
 
個人の人生の必要と、個人の妄想的な思い込みを、ごっちゃにしている楽山の詭弁です。信仰を必要とする人は、神がいかに不可知でも、神を信じ仰ぐしかありません。そういう信仰者を、根こそぎ否定するのが、楽山であり、この者からは、何の助言も考察も真実も生まれることはありません。
 
 
人の記憶は書き換えられることがあるだとか、人は関係ない二つ以上のものを結びつけて因果関係があると思い込んだり、偶然にすぎない事柄にも自己流の意味を見出そうとする癖があるということにはまったく注意を払うことなく、自分の実感を最優先にして結論を出し宗教的喜悦に浸っていたのだ。
自分は心理学のことはよく知らないのではあるが、上のような信者の主張を聞く度に、その自我の強固さと、そのことに対する無自覚さに圧倒される思いがする。
 
人の記憶が書き換えられることがあっても、楽山の妄想は病理なので消えることがありません。これからも糞尿のように気色の悪い妄想的断定をしてくるでしょう。事実の意味付け、宗教的喜悦、自我の強固さ、無自覚さ、などは、皆、楽山において、訂正不能に強烈です。
 
「心理学のことはよく知らない」・・楽山は、何を知っているつもりで、図々しく書いてきたのでしょう。「自我の強固さと、そのことに対する無自覚さ」・・また人のことを言って、自己愛妄想の自分を見ない楽山です。またブーメランなのです。強固というより訂正不能なのが楽山です。
 
 
*おまけ
「新無神論bot」では、ドーキンスのこんな言葉が紹介している。
【無神論】我々は、かつて人類が信じてきたほとんどの神々について無神論者である。一部の人間はその信仰しない神が一つ多いだけだ―リチャード・ドーキンス
 」
これはたしかにその通りだ。無神論は悪とする人であっても、自分が信ずる宗教以外に対しては無神論者になっているものだ。
 
まず本質的に、どの神も信仰する宗教はありません。ここでは、神という名で、みんないっしょや・・とばかり、同質であるかのように扱っていることが、悪意ある詭弁であり、全く理路の欠片もなく、人間としての分別もない楽山の高い病害性と犯罪性の証拠となっています。
 
 
唯一の神は信じるが、その他の神々は信じないという者と、すべての神々を信じないという者とは、信じない神が一つ多いか少ないかということだけ…。この違いは大きいとするか小さいとするかは人それぞれであろうが、自分にはどうも後者のように感じられる。
 
楽山は、神を知らないので、恐ろしいことに、神を、物を数えるように、数えています。どの宗教についても勉強しない者が、黙する分別を持たず、偉そうに書いて、人それぞれの詭弁で、視野の狭小を、ごまかしています。見識皆無の証拠です。だから、神々という言葉が便利なのでしょう。
 
唯一神という言葉を書いておきながら、楽山は、「その他の神々」と言って、無理解を明らかにしています。万事こういう感じです。これで、キリスト教についてクレームを書いてくる身の程知らずなのです。楽山は、個人の信仰という視点が全くなくて、普通名詞で神を扱っているのです。
 
普通名詞で語るなら、楽山が、神と言うとき、それは、神ではないということです。神について、楽山は、何も語っていないということです。それを混乱させるのが楽山の悪だくみです。楽山は、ずっと、書くたびに嘘吐きなのだから、永久に物を言わなくなってほしいと思います。
 
信じないなら、信じなくて結構ですが、ならば、神も、信仰も、知らないということだから、実感も共感もないのです。そこから、知ってるつもりで神を云々することは、絵空事に悪意を含ませて、高く売りつけるような筋違いも甚だしいペテンです。
 
神を必要としないなら、信じる必要もありません。ゆえに、その人は、信仰の世界を知りません。だから、楽山が、必要としない存在について、知りもしないのに、即ち感受も理解もしていないのに、とやかく語ろうとするのは、児戯にも値せず、醜い自己顕示欲以外の何ものでもないのです。
 
 
(著者ドーキンスの笑った顔の写真、省略)
それはそうと、この画像はちょっと怖い。ハンサムな人だし、もっといい写真を使えばいいのに…。
 
酒でも飲んでいるのか、あざ笑っている悪魔のような顔にも見えてきます。楽山は、同じように笑っても、ぼんやりしているだけのような気がします。自分の顔を持たず、何も書けないものだから、また、他者の口を利用しているのが、卑怯で腰抜けの楽山です。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質によって、心の共感性がないのでしょう。だから、ホラーや超常などの話をたくさん書いて代償しているつもりですが、信仰は、心に受け取る賜物ですから、いくら書いても的が外れてしまうのは当然なのです。
 
楽山には、そういう不全の自覚がなく、自己顕示欲だけがあるために、ハナタカに書けば書くほど、顎が外れ、デタラメとなり、インチキとなり、害毒となり、迷惑となり、真実をけがすことになります。即ち、様になっていないのに、分かったふりをする、まさに、貧相な裸の王様なのです。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の唯一の希望の同伴と信じて、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 
笑っても怒っても締まりのない心

笑っても怒っても締まりのない心
 
 
(2021年)
(2022年09月21日、再録+加筆)
 
 
 
キーワード:卑怯
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗に濡れている
 
 
  遠ざかるもの
 
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
危うきものよ
あるいは君子でござるよ
君子が近寄らないのを
引き寄せようと焦ってはいないか
自業自得の危うさを
誰かの所為(せい)にしてはいないか
あるいは流れ
避けられぬ移ろいでござるよ
寒い朝と夜に震える間も
危うきものよ
森も山もこれから
枯れて華やかに色づくというに
一枚の落ち葉のゆえに
卑怯にも
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
近づくものから逃げようとしてはいないか
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、真の仲間はいませんが、言葉だけ勝手に引用する対象は多いのです。有名人でも、お構いなしに利用してきます。こういう節操のない態度で、宗教を語れば、荒らしレベルにしかならず、卑怯と非人間性を自ら証明しているようなものだと、楽山だけは気づかないようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
毒親のマイコンとは違うけど、
宗教の信者をやってた頃は、何に対しても「教祖はどう思うだろう」「これは悪霊の惑わしではないか」などと考えてました。
今は、退会して何年も経ってるから、もうそんなことはないけど…。
やっぱ、あれがマイコンだったんだな。こわっ😱
>>
穂野香
@TzGGYiSkTO0OkFO
9月18日
毒親のマインドコントロールが解けているかどうかが一番わかりやすいのは自分の【思考癖】だと思います。私の場合、何かあると『母がどう思うだろう…』と真っ先に考えます。自分の気持ちより無意識に母が優先になっているのです(>_<")↓
<<
午後9:38 · 2022年9月19日
 
毒親のような刷り込みでマインドコントロールの記事を書いている楽山が「毒親のマイコン」について書いています。「教祖はどう思うだろう」・・楽山こそ教祖願望の人です。「これは悪霊の惑わしではないか」・・楽山は悪霊の惑わしのようなことをする詭弁屋です。「こわっ」・・嘘です。
 
いかなる罪の責任も、まるで被害者であるかのような立場で語って、自己の正当をアピールする楽山です。自己愛病質というのは、ここまで、悪意に満ちてくるのです。意識も無意識もなく、病魔が顔を出してきます。また嘘を吐いた、という、いつものことで、赦されることはないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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