楽山のよいしょ倒れ2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(3)信仰について
 2021年09月15日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
病識がなく、自分を見ることの出来ない楽山が、いつものように、得意気に書いてきます。楽山の言は、論になっていません。言論に必要な、語る節操も、聞く耳も、持っていないからです。どれだけの有名人を巻き添えにして、詭弁を弄するのでしょう。病の根深さを思わずにはいられません。
 
単純に言って、無反省と無責任で、訂正不能であれば、言論する資格はないのです。他にも、楽山の病質については書いてきましたが、病質のために、どこまでも舐めてかかって、まともな話は通じないし、交流ができない以上、だましてくるだけですから、楽山に未来はないと思います。
 
 
*つづき
前記事に続いて、ドーキンスの名言についての感想を書いてみたい。
 
一日も早く、楽山が何も書かなくなる日を待っています。あらゆる言論の害悪です。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の弊害の典型例となっています。
 
 
*信仰と無責任
信仰とは、根拠について考え評価することからのご立派な責任回避の口実である。信仰とは、証拠の欠如にもかかわらず、あるいはそれゆえの、信念のことである。
 」
これらは随分と辛辣な批判だが、前者については、自分かかつて所属していた宗教団体では、長く信者を続けている人は、信仰の根拠について深く考えることを放棄した人ばかりだったことを思えば合点がゆく。
 
無神教カルトとは、共感が分からないために、信仰の根拠を、事実や理屈だけで追って、何も見出せないことを、根拠が無いと切り捨ててしまう短絡であります。前から言っていますが、証拠があれば、信じる必要はないのです。信仰は、信じ込む信念ではなく、共感の絆です。
 
カルトと、宗教を、混同した楽山の幼稚な決めつけです。そこを分かっていない人たちもいるのでしょう。理屈をこねていますが、言い方も高慢で、理路も間違っており、かつ、共感が皆無であります。繰り返しますが、証拠があれば、信じる必要はないのです。信仰の根拠は、事実ではなく、心にあります。
 
信仰は、心に響いて、共感することだから、心のない楽山のような人には、分からないのでしょう。心がないと思考も短絡しやすく、そのせいで、理路は短絡し、共感がなく、表面的な事実との辻褄だけを追って決めつけることになる、という特徴が表れていることにも、楽山は、気づいていないようです。
 
信仰の根拠は、心にあります。ゆえに、表面的で幼稚な理屈屋に届くことはないでしょう。一部のカルト批判から、信仰そのものへの批判と否定を企んでいる楽山は、自己愛性人格障害の宿命のように、偽物の標識を持って廃棄される詭弁の果ての異土の吊り橋へ向かっているようです。
 
 
後者については、司馬遼太郎も似たようなことを言っていたと記憶している。思想や宗教というものは、その出発点は空であり、嘘である云々と…。
率直に言って、信仰というものは本来あるのかないのか分からない神をあると断言するものであろうし、その根本は空言、もしくは嘘といわれても致し方ないものではある。
 
楽山は、また、有名人の口を悪用しています。楽山には、自らを空しくする"空" という思想は分からないと思います。私も、完全に分かったわけではないですが、分からないという自覚はあります。自覚がないのが、楽山です。だから、どこまでも、嘘吐きという評価しか生まれないのです。
 
本来が、あるのかないのか分からない神であるなら、どうして信じ仰ぐに至るのでしょう。考察と共感の出来ない楽山の幼稚な短絡です。信ずるに至る切っ掛けと動機が当然あるわけです。信じないだけでなく、あっさり否定してしまう楽山の軽口こそ、本質的に、嘘そして空疎なのです。
 
思想と宗教の出発点には、現実の苦難に際しての必要があり、必然があります。苦難の時の、心の回復と平安は、人生を支える力があり、信仰に必要不可欠のことでしょう。そこを全く考察する意志も能力も持っていないのが、楽山であり、まことに、実のない、余計な雑言ばかり吐いています。
 
心のない楽山には、心の必要と必然がなく、ゆえに、共感することが出来ず、考えて整える理路も育っていないのでしょう。それで、評論家気取りだけが過剰にあれば、目も当てられない見掛け倒しの悲惨な経過と結果となって表れ、末路への転落が予感されるばかりであります。
 
 
*信仰批判
今こそ、信仰に対し批判をしていくべきときだ。
午後7:39 · 2021年9月2日
 」
 
シュプレヒコールでしょうか。信仰が人類の敵だという悪意の前提が見え見えです。
 
ドーキンスの言葉には共感することは多いが、さすがにこういうところは扇情的にすぎるようだ。
自分は、信仰は人の性であり、撲滅することはできぬものであろうし、それならば信仰にはさまざまな難点があるにしても、違法行為や人権侵害がない限りはさして批判する必要はなく、人それぞれ自由でよいとする他なかろうと思う。
 
楽山の、撲滅できないから、批判する必要がない、というのは、理路として、完全に間違っています。相変わらず理路の整わない楽山です。嘘も詭弁も、無反省も無責任も、思いやりがなく、反省せず、不祥事をみんな人のせいにする病質者の業(ごう)であり、糾弾されるべきは楽山その人です。
 
このように、有名人の言を利用しながら、宥めるかのように、自分はそれよりも上だという満悦からの印象操作を忘れないのが、評論家気取りの楽山です。それによって、全ての言論者の敵であることが明らかになってきました。書けば書くほど、楽山の我欲と傲慢と卑怯さが、あらわになるでしょう。
 
道徳や人間の尊厳を無視した訂正不能の妄想的な、宙ぶらりんの思い付きを、得々と語ってきたのが、楽山です。違法行為の取り締まりは警察の仕事です。犯罪歴の不明か未遂かの、楽山のような、節操と道徳に反する非人間には、徹底した批判を続けるしかありません。
 
楽山には独自の思想はありません。その時その場の、よさそうなことを、自分がひけらかすことによって、自分だけを高めているつもりなのです。楽山の、ボクはこんなに善い人アピール・・を受け入れてしまうと、楽山の従属物となって、自分を見失ったまま、良心を失ってゆく病魔が待っています。
 
楽山は、誰にも共感することはないでしょう。ただ、病質のエゴのために悪用しているのです。だから、人を人とも思っておらず、無視と裏切りは当たり前なのです。無自覚で無反省で無責任の楽山には、最終的に何らかの圧力か強制力をもって排除されるしかない必然が付きまといます。
 
 
*信仰と癒やし、議論
それが「慰めになる」という理由で何かを信じようとする人を、どうして真剣に取り合えるというのだ。
 」
これには、その信仰は真実であるかどうかという議論と、その信仰による効果はどのようなものかという議論をごちゃまぜにしているがゆえの混乱がある。
 
楽山に、そういう分別があったなら、今までの単方向で訂正不能で、随時忘却によって責任逃れしながら惑わしてくるような災いはなかったはずです。混乱をもたらしているのは、他者を好きなように悪用する楽山その人であります。有名無名に関わらず、悪用の犠牲となってはいけません。
 
表面的な辻褄だけを追いかけているような、心のない者たちには、信仰は永遠に理解不能のままでしょう。人間は、修正可能であることを信じたいけれど、楽山を見ていると落胆せざるを得ません。無神教カルトは、多く、信仰の慰めも、癒しも、感受できない自尊過大の者たちのようです。
 
 
信仰に関する議論は、大雑把に言えば、①その信仰は真実であるかどうか? ②その信仰は真実であると感じられるかどうか? ③その信仰による効果はどのようなものか? というものがあり、それぞれまったく別の問題である。
 
何という幼稚な詭弁の理路でしょう。信仰に、効果を問うとは、まるで実験マニュアルのような書き方です。科学のような普遍的な法則や真理ではなく、信仰に必要なのは、個人の心を支えるための、人間的温熱を持った真実なのです。生きている人間について、楽山は、どこまで暴言を吐くのでしょう。
 
信仰が真実であるかどうか、救いとは何か、これは主観的に受け取られる感慨であり、最終的には、神が裁くことです。信仰の真実とは、真実であると感じることです。楽山は分けることの出来ないものを、言葉だけで分けて混乱させる詭弁です。できないことを要求して否定する詭弁です。
 
楽山は、箇条書きにして論理的に見せかけてきますが、信仰の、真実性も、感受性も、効果も、何も分かっていない楽山の言は、屁理屈の詭弁です。決して相手にしてはいけません。楽山は、受け入れられるような文章の体を装うだけで、何度も言いますが、何の実質もなく、責任も負う気はないのです。
 
「それぞれ」「別の問題」ではありません。信仰者は、その人生において無責任ではありません。いかなる罪も認めず、いかなる責任も負わずに済まそうとするのは、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDの業であり、いずれ、想像を絶する重さをもって、楽山にのしかかり追いつめるでしょう。
 
信仰は、その真実も、感受も、効果も、信じた者に暗示されるだけです。どうして、神の意志が、人に、手を取るように分かるでしょう。本質的な不可知、未知、不明を、分かるものであるかのような安い言質によって、悪用してきたのが楽山です。頭がカチカチ山の楽山です。
 
 
それにも関わらず、信仰者の中にはこれらの問題をごちゃまぜにして、「この信仰によって大きな慰めを得たから、これは真実に間違いありません」とか、「この信仰は真実です。もし真実でないなら、これほど人々の心に訴えかけ、感動を起こさせるわけがないのです」とか主張する者が多い。信仰者は②③を持ち出すことで①について語っているつもりになりがちなのだ。
①についての議論が困難なのは、こういう混乱に原因があると思う。
 
上に述べたように、②③は成り立たない詭弁ですから、信仰については無意味です。効果が証明され保証されて信じるような信仰は存在しません。楽山が、なぜ、信仰に縁がないかが、楽山によって、説明され、証明されたのです。詭弁で文句ばかり言う人には、言論の資格はありません。
 
だから、信仰には、信じるか信じないかの自由があるのですが、それを認識できない楽山は、全部を、いちゃもんの材料にしてしまうのです。一部の体験について、全部であるという言いかがりで責めています。つまり、信仰の自由の、最も凶悪な迫害者は、楽山であります。
 
信仰者は、相手を安心させるために、自身の体験を語ることがあります。それを揚げ足取りに悪用する楽山は、無知と無教養という揚げ足を取られて、さらに詭弁と嘘を重ねて保身を図ることで、人の世界で赦されず、神の世界ではさらに赦されない害毒の泥沼をさまよう者となりました。
 
 
*信仰は悪である!
本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。 信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
 」
 
著者は、議論を許されなかった恨みがあるのでしょうか。前の記事のように人をマヌケ呼ばわりして許されると思うほうが無理でしょう。さらに、それを、楽山というペテン師に、まんまと悪用されています。クレームが来ないことをいいことに、楽山は、悪用の罪業だけを積み重ねてきました。
 
信仰についても、共感に基づく議論は可能ですが、楽山のような反キリストで訂正不能の変質者とは永遠に議論不可です。楽山は、糞尿を引っ掛ける者、そして、善悪と正邪だけでなく、精神衛生において、楽山は極めて不潔です。
 
 
子供の宗教教育は程度問題ではなかろうか? その土地や民族の宗教的な文化伝統が自然な形で子供に伝わるのは必ずしも悪ではなかろうが、あまりに厳格な宗教教義を子供の頭に刷り込もうとするのは児童虐待であろうし、明らかに悪である。
 
程度問題ということで、いい加減がいちばん、という詭弁に誘導するのが、楽山です。信仰の真実も感受性も効果も、楽山は何も分かっていないからです。そして、強引に、児童虐待に結びつけています。悪魔性が明らかです。善を装う悪の醜形が、ここで暗躍しています。
 
むしろ、楽山のような詭弁屋が、カルトでも始めたら、いかなる悲惨を招くかが、楽山によって、表されているのです。そして、今までの記事に、楽山は、霊能者気取りで、教祖願望があると思われることを私は書いてきました。楽山は、人間に対して自己中からの虐待を切望する異常者です。
 
 
信仰と議論については、まったくその通りだ。特定の信仰を絶対視し、その妥当性について議論することさえもゆるさないというのではあまりに高慢で独善的にすぎてまったくお話にならない。
 
神そして信仰の妥当性が、人間に分かるわけはないのです。人間は不完全だからです。楽山が、上のように言うのは、妄想的な全能意識と最終的な審判者に成り上がった人間の、最も醜い姿なのです。丁寧語で人をだまされると、人格破壊の地獄が待っていることを知っていてください。
 
楽山の、曖昧さと、いい加減さでは、病原となるだけで、誰も救うことは出来ません。楽山の言論のベースには、何でも分かるつもりの傲慢があります。専門用語も、日常語さえも、理解せずに使いまくって、単方向に暴発を繰り返す悪魔性が、一日も早く消滅することを祈っています。
 
楽山の自己愛性パーソナリティ障害では、誰に教える資格もないと思います。本人が、それを自覚できないのも、この障害の症状ですが、巻き込まれる側にとっては、死活問題です。危険な圏内に入らないことだけが予防策となります。楽山こそ、全くお話にならない人です。
 
楽山の言は、質の悪い睡眠薬のようなもので幻覚剤併用みたいなペテンです。毒物ですから、副作用として、知情意が鈍麻し、人格の鈍麻~破壊が起きてきます。付き合えば、楽山と同じように、嘘と詭弁で人をだまして平気でいるような、うっすら、ぼんやり、どんよりした不感不応の自己中になるでしょう。
 
楽山は、アンチとしてカルト批判をしているつもりのようですが、宗教と信仰についての見識が、あまりに杜撰(ずさん)で視野狭小で偏屈で、未熟なのに、反面、自尊だけが過大であるために、妄想性になっていて、自己愛性人格障害のインテリ気取りの危険な症例となっています。
 
楽山は、何もうまくいかない人生だから、芝居を覚えたのでしょう。しかし楽山は大根です。さらに、嘘と詭弁と一体となるゆえに、ますます害悪となってきました。しかし、自我の弱い人は、だまされるかもしれません。それに味を占めた楽山が、好都合な言葉を漁り続けているという現状です。
 
肯定と否定を両方言ったら責任問題は生じないというのが楽山の言論の姿勢です。言論にプラマイゼロはありません。責任を負わず、反省もせず、訂正もしない病質者が楽山です。何度も言いますが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、全否定され続ける無法者です。
 
 
虚空に干上がる心

虚空に干上がる心
 
 
(2021年)
(2022年09月24日、再録+加筆)
 
 
 
  責める
 
書いた文字が
起き上がって
僕を責める
何と言って責めているのかわからないが
書けば書くほど責める
立ち上がった文字が
二人寄り三人寄って
言葉になって責める
しまいには
まわりいっぱいになって
うるさく責め続けるので
紙を破って
丸めて捨てる
書きかけの文章を捨てる
静かになった
と思ったら
捨てた紙の間から
はい上がった一人が
弱々しい声で言った
うそつき・・・
 
 
  さぐる
 
時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
 
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を
 
自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる
 
紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
 
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
 
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗と涙に濡れている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
自分には自分の臭いは分からないというけど、Pさんもそれだね。Pさんからは自分教の臭いがぷんぷんしてるから、自分教といわれる。一字一句を吟味した上でそう結論づけてるわけではない。
一字一句にこだわってるのは、鉤括弧を多用するPさんの方ですよ。Pさんは自分教の教条主義者みたいです。
午前6:53 · 2021年9月16日
 
「自分の臭いが分からない」のも、「自分教」も、楽山にぴったり当てはまることです。アンチであるかどうかの問題よりも、楽山は異常者です。しかも、体質的な自己愛性パーソナリティ障害NPDです。無反省、無責任のままで、一生過ごせるとでも思っているのでしょうか。
 
ちなみに、楽山は、とても臭い男です。見せかけだけの楽山は、とてつもない量の汚い香水?を自らに、振り、塗りたくりながら、いつからおれが・・と、臭い野望を燃やしている変質者であり妄想狂であり、反社会性の人格です。決して関わらないでください。
 
楽山が、誰かのことを言うたびに、ブーメランになって、楽山に返ってきていることに、楽山だけが気づかないのです。ここまで、自己愛性人格障害は、分からない人になってしまうから、それこそ "撲滅同盟" でも作らないと、解決しないことなのです。言論では、批判しか出来ません。
 
また、楽山には、「一字一句を吟味」どころか、他者の意見など、都合が悪ければ、一言も受け取らないし、覚えてもいないでしょう。それで、人に対して何か意見や批判をすることなど、決して、できません。それさえ分からない人ですから、けっして楽山を相手にしないでください。
 
 
人格障害というのは、昔、精神病質と呼ばれた体質の病気で、精神病と違って、有効な薬がありません。関わらないこと、相手にしないこと、批判するなら人格の異常を批判することが必須になるのです。つまり、不感不応の楽山を批判するなら、不感不応の病質を指摘するしかないわけです。
 
人格を批判してはいけないというのは正常人の病気の場合です。正常な関係性が成り立つ場合だけです。言論を慎んで、おとなしくしていることが必要な病質なのに、なおも、しゃしゃり出てくる楽山に対しては、病的な人格について、直接、批判してゆく以外ないのです。
 
楽山には、自慢できることも、客観的に評価できることも、全くありません。それをごまかすために、婉曲的な屁理屈のボンヤリ言語という丁寧語を使い、同情を誘うためにトホホ言語という謙虚芝居や嘘の弱音や世辞を言ったりします。楽山は、まとものつもりでも、寒気を感じるほど異常です。
 
しばしば、作為的に、自分が言われそうなことを相手に向けてきます。上のツイートもそうです。病質のために、人に言っても、自分が言われても、実感と実質がないのです。だから、何を言っても言われても、平気で無視して、罪悪感を感じないでいられるのです。
 
楽山の言は、嘘と詭弁に満たされ、良心の欠損を表すだけです。楽山の言には、三文芝居のセリフはあっても、人間らしい温もりと潤い、つまり、思いやりと悲しみへの共感が見られません。乾燥しボンヤリして焦点を外して良さそうに見せるだけの言葉面はあっても、真実の欠片もありません。
 
ですから、楽山の言は、何の参考にも糧にもなりません。こちらとしては、体質的異常者の劣悪さを例示して敷衍したいし、また、資料とするために、批判を続けています。楽山が書けば書いただけ、それは、悪い言論の例として、嘘と詭弁の具体例として、病質を表す資料となってゆくのです。
 
例えば、医者は、精神病でも、精神病質でも、ことを荒立てないことを優先します。説得して、表面的でも治まれば、それ以上は言わないでしょう。そういうことを、半端な知能で知っているところが、病質者の狡さなのです。だから、丁寧語、世辞、甘い言葉・・などを多用するわけです。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
もう何度も説明してることですが、aとbの議論は違います。
bの議論では、総裁の著書を引用は必須です。これなくして議論は成立しません。
a. 信仰とは何か?
b. 信仰について総裁は何と言ったか? 著書にはなんと書いているか?
 
a.について、HSは知りませんが、キリスト教と信仰について、楽山は何も知りません。にもかかわらず、キリスト教の神を否定したのが楽山です。つまり、何も気にせず、責任も負わず、言い捨てるのが、楽山です。後悔や罪悪感などの高等感情がないのだろうと思います。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、aの議論は正解は確認しようがないので、人それぞれということで終了かと思います。
ただ個人的には、信仰とは偶像崇拝であり神に対する冒涜である、神を信じる者より、信じない者の方が真の信仰者である場合も有り得ると考えます。
その理由はブログに書いてます。
 
信仰は、人それぞれ(でいい)と言いたいようです。楽山は、いかなる信仰も持っておらず、全く信仰というものを知らないと思います。「信仰とは偶像崇拝であり神に対する冒涜である」・・また暴言を吐いています。偶像崇拝になったら、信仰は、おしまいで、不信仰より悪いのです。
 
「神を信じる者より、信じない者の方が真の信仰者である場合も有り得ると考えます」・・信じていると言って実は信じていない者もいます。なお、楽山は反信仰です。「その理由はブログに書いてます」・・楽山は、何も書き得ていません。信仰など何も分かっていないことだけが表れてきました。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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