楽山の悪あがき2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想が続いています。楽山には、恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、楽山という人は、平気で投稿できるのでしょう。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足の手段と言えば否定しやすいだろうという楽山の陰気な顔貌~願望~欲望が表れています。深いところが見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、など考えることが多いのですが、楽山は自分のイドのレベルに合わせて単純な願望充足だと決めつけます。
 
信仰によって、楽山が言うような願望が、はたして充足されるでしょうか。楽山が言っているのはご利益宗教です。それは、折々の願いの動機にはなって、人生を支える救いにはならないのです。楽山は、どこまでも、宗教、特にキリスト教を安っぽく語ってくる知恵足らずなのです。
 
低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取れないために起こることです。
 
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん低くなり、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
欲望の集積というのは、宗教ではなく、楽山の自我なのです。宗教を貶したつもりで、ブーメランとして、楽山が楽山を表しています。なにせ、楽山には、他には何もないのですから。理性もなく、感性もなく、節操もなく、人と宗教を貶めることに集中して、自分を貶めて、破壊しつつあるのです。
 
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういう、すり替えか刷り込みしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。短絡や詭弁が、日常語になっているようです。
 
争いをもたらしているのは、楽山のようなサイコパスが宗教に関わることから起こってきます。自己愛の病質のために、教祖願望があり、それこそ、神と同値になりたくて、神を対象物のように扱い、語り、自らの惨めさの代償としています。
 
そして、傲慢不遜となって、自分を絶対正義、他者を不全という決めつけで、上から見下ろして、愚にもつかぬ嘘と詭弁で、人々を操ろうとするのです。その醜い欲望を、丁寧語で糊塗して、印象を刷り込んでくるのが楽山です。決して関わってはいけません。
 
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
まず、信仰は、超自然ではありません。一部の、自己顕示欲の強い妄想家が、超常話を豪語するかもしれませんが、信仰は、現実をどう生きるかという問題に、人間理解と共感によって、思いやりの温もりを与え、静かに反省する潤いを与えて、人生を支えるものです。
 
信仰は、楽山のような心の醜い者が悪さをするような生きにくい現実世界にあっても、勇気をもって生きるためにあります。超自然的なものを求める欲望の典型は、楽山です。ずっと、空想の超常に生きて、現実に生きていないのも、楽山です。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な力、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えません。空想を書いて排泄してくるだけなのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とだけみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。神の敵、そして、下種の極みらしい発言が明らかになってきました。
 
義人はいないのです。信仰は、正義を得るのではなく、正義ではない不完全を自覚して生きる道です。捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となります。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないことを、自ら証明しています。
 
宗教と信仰の悪い例をもって、全体を否定する楽山の詭弁には、無神教カルトの教祖願望が潜んでいます。楽山がもたらすのは、救いではなく、疲労と徒労と人格破壊です。粘液のような悪意が、蛇のように首に巻き付いてくるので、決して近づかないでください。
 
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
無神教カルトの奴隷となっている楽山は、何も学んでいないし、理解していない人です。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、学習することが出来ない人です。そのために訂正不能になって、日常的に、醜態を演じています。
 
楽山は、奇妙な化粧をして、学者気取りで、実は、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せようとします。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。おめいているだけの、精神暴走族、あるいは、ネットという路上の狂人でしかありません。
 
何も学ぼうとしない楽山の「知らないだけなら学べば済む」という気安い誘い文句に乗らないでください。無信仰カルトの発想に、単純に賛同して、都合のよい文献を漁って、引用して褒めまくっています。自分の発想も意見も理路も感性も、どこまでも、まとまったことのない楽山です。
 
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「そう言われてみれば、たしかにその通りだ」・・こういう賛同を示すしかない楽山です。まるで、太鼓持ちです。「存在するかどうか分からぬ神」だからと、愛と共感の感受性のない楽山が、いくら否定しても、不細工なピエロの失敗芸にしかならないのです。みにくいです。
 
無神教カルトは、科学をひけらかします。しかし、宗教と信仰は、科学ではありません。精神世界の救いの話であり、つまり、心の救いなのです。それ以上のことについては、神にお任せすることです。だから、科学的事実を持ち出してきても、話は何も進んでいません。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。構造が単純すぎるのです。天動説にも劣るという言い回しで、宗教は愚かだと決めつけています。この根拠の薄弱な決めつけこそ、愚かなのです。いわゆる都合の悪そうな言葉面をもって否定する詭弁です。
 
なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。人には見えませんし聞こえません。聖書と思いを含めた人生の出来事を通して、その存在を暗示しますが、自己中人格には受け皿がないのです。
 
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどは、ひどい徒労であり、関わっている間、人生は無駄です。
 
宗教と信仰を、科学で否定できるという考えが、まず、幼稚な無理解であります。科学をどんなに追及しても、愛に到達することは出来ません。楽山は、何か、物質的なもので愛を測りたいのでしょうか。それこそ、ひどい詐欺になるでしょう。つまり、楽山は、感性の欠陥を白状しているに過ぎません。
 
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。楽山は、動物に近い人です。だから、謙虚さが皆無です。分からないと気が済まず、結論の出ないことまで、分かったふうに唾を飛ばします。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。無神教カルトに賛同して、そのメンバーになりたいのでしょうか。自分がいちばん偉いと思っている、とても醜い人。
 
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
人間の成長と人生を、進化論で片づけようとしています。人間は、一人一人違います。人生も、一人一人違います。腹を立ててもしょうがないですが、楽山のような体質的な傲慢な無理解に対しては、当然、怒りも覚えます。早く退散してほしいと思います。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状として「精神性が低い」ため「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと、自分で慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのは、楽山その人です。次元の低い八つ当たりなのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。病質の結果として、あらゆる感受性が鈍くなってきたということです。ますます、酷いことになりつつあるのでしょう。楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、「人を裁くな」を引用したものです。どういう曲解なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという教えです。
 
楽山は、批判と混同する詭弁で、批判するなと言いたいのでしょうか。誰も批判しなかったら、楽山には都合が良いでしょう。しかし、それは、邪悪な自己中の罪を養うようなものです。裁きは、最終的には神に任されます。その成り行きでは、楽山は、批判される・・どころではなくなるでしょう。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
裁くのは、地上では裁判所、最終と天上では、神であります。しかし、楽山は、この分別さえ持っておらず、自分を裁くな、好きにさせろ、と言っているわけです。楽山は、自分が特別に悪質であることに、指摘されても気づかない人です。だから私は、楽山に読者が近づかないように、批判しています。
 
 
どこまでも寒い人

どこまでも寒い人
 
 
(2021年)
(2022年09月29日、再録+加筆)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。
 
しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば自分の信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山であり、見せかけだけの学者気取りも、楽山において顕著なことであります。楽山こそ、何らかの教祖願望ではないかと思われます。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に醜いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、引用が多く、しかも、言葉だけ、べた褒めして、なぞるように、へつらいます。自分の文章が書けず、いつも、都合のよさそうなものに、飛びつくこと、なびくことしか出来ません。独立した人格ではなく、どこまでも、孤立した病質なのです。書くことで明らかになってきたのに、気づかないのです。
 
 
 
風珍について:ヤフーQ&A
 
徴兵が来たら、露者の人は、素直に応じて、獣と弾丸を受け取ってください。そして、一人または複数で、何処を、誰を、狙うべきかを、じっくり考えてください。他国にはどうしようもありません。世界大戦~核戦争になる恐れがあると思います。風珍は、人格障害だと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング