共感性2
 
   (以前の記事を修正加筆しています。)
 
 
共感とは
共に感じること。
情緒や感動を共有すること。
相手の心情を全部でなくても理解すること。
相手と同じような心情を共有すること。
言葉だけではなく
相手を思いやること。
人間の最も大切な心です。
 
私のような者でも
少しは共感する性質があると思っています。
最近、台風が窓を破るのではと恐れましたが
自分が恐れるだけでなく
足らざるとはいえ
他者の無事を祈ってもいました。
我がことのように祈ったかは疑問ですが
全然気にならないわけではない
くらいのことは言えるでしょう。
 
特に、リアルな知り合いでなくても、
ほんの一部でも似た境遇だったりすると、
察している、察しているつもり、察していたい、
という気持ちが湧いてくるものです。
 
共感は人間の性質ですが
神様も人間に共感する御方です。
さらにキリストの人間への共感性は深く
鋭く悩み苦しみ悲しみを見抜いて
命を惜しまぬほどの共感と愛を表しました。
人間は、なかなか、そうはいきません。
 
知ったという発言だけなら誰にでもできるでしょう。
しかし神については、人には、思いこみが入ります。
入らないようにしましょう、ではなく
入るものだという自覚が必要です。
 
人は、ある時点においては思い込みの生きものです。
それを補うのは反省力です。
反省力も共感という土台の上に成り立ちます。
共感は信仰に近似してきます。
 
いつの日も
人は不完全です。
人の心は不完全です。
人の思考も不完全です。
人の言葉も不完全です。
人の信仰さえも不完全なのです。
 
ですから不完全な一人が
不完全なもう一人の心を
完全に理解することは出来ません。
 
ましてや不完全な一人が
完全で全能なる神の御心を理解するなど
到底できることではありません。
 
このことを理解しておかないと
カルト的な決めつけの信仰?になってしまうでしょう。
 
決めつけないことのベースには
人間の不完全つまり罪の性質への人間同士の共感があります。
それゆえに個別でありながら信仰の心を分かち合うことが
ある程度は可能になります。
 
福音書におけるキリストと救われた人々との交流は
物や肉体の奇跡とは比べものにならないくらい
福音書の最も重要なところです。
 
キリストは人を見抜き
人への惜しみない深い洞察と共感のために
特に悲しみを共にされます。
キリストが人生の同伴者と言われるゆえんです。
 
 
キリストに敵対するカルト思想の者たちは
殆ど共感性を持ちません。
ゆえに私たちも彼らに共感を覚えません。
そういったところ、つまり共感性の有無が
両方とも神を唱えているにもかかわらず
真の信仰と反信仰を分けるだろうと考えています。
 
 
共感は高等感情ですが素直な心です。
やさしい思いやりの心でもあります。
 
 
やさしげな言葉は使いまくるが共感性はゼロで
共感は必要ないとまで言っていた偽善者もいて
根拠は聖霊と神の啓示だと言い
議論の対象にならないと言っていましたが
元々まともな議論をしたことなど皆無なのです。
この人がキリスト者なら、この世は闇です。
 
信仰者めいたことを言い
別のときには否定的なことを言い
断定できないのだから
責任問題はないという者がいますが
学ぶ姿勢もなく
いい加減なことを人に言うのは人を惑わしたことになる
ということが分からないようです。
真実の追求において、
言論の責任を負わない者に言論の自由はない
ということを何度も突き付けるべきです。
 
自分が批判されて反論も弁明も返せない者は
別のところを批判する資格はない
ということは良心と常識があれば分かるはずです。
それが分からず批判されていることを無視して
正義の味方気取りで別のところを批判して平気でいる場合
次のようなことが考えられます。
1.常識的思考に欠陥がある。
2.良心が欠けているために共感性が身についていない。
3.最初から騙す目的と悪意のみである。
いずれにしても
受け取って反省し学習し成長する気がないわけですから
そのような者に他者を批判する資格はありません。
 
 
共感は、人間の場合
弱い人が弱さを自覚しているときに
おもに弱い人々の間で生まれます。
ふと思い出した聖句ですが
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間は、弱さを自覚しないとき
高ぶることが多く、共感することは難しくなります。
つまり、信仰者の共感は
自分の低さを知っている人間同士において生まれるものです。
それは信仰の態度でもあります。
 
共感は信仰を情緒的に成り立たせるものかもしれません。
また信仰の心を分かち合うときに必要なのかもしれません。
 
罪、低さ、弱さ、分かち合い、共感、信仰、
救われる人と救われない人を
人が区別するのは困難ではありますが
人を差別するためではなく
むしろ、自分が何を大切にして生きてゆくか
ということを考えるときヒントになるかもしれません。
少なくとも信仰の周辺事情ではないと思います。
 
このように、信仰については
教理的な言葉を駆使すれば語れるというものではなく
人間の日常の言葉の中に
信仰と切っても切り離せないものがある可能性を感じます。
 
信仰は人間のためにあります。
信仰は決して人間離れではありません。
 
すなわち信仰は
キリスト教の用語だけでは語れないところの
いわば懐(ふところ)の広さというような幅をもって
様々な境遇にある全ての人が
決して特別優秀になれるというのではなく
一人一人が個別なのだということを伝えています。
 
すなわち特別な悟りではなく
個別の事情において惹きつけ
私たちを招いているのでしょう。
 
ゆえに信仰において、
特別な学習・学問・能力によって獲得・規定されるものではなく、
良心からの敬虔と共感と反省と学習が可能な総ての人に
いかに不完全で罪深くても
信仰ゆえに人に与えられる恵みは
絶対の "神の義" とは異なるものとして
"信仰の義" と呼ばれます。
 
共感は、人間性に与えられた賜物です。
共感できる人は人間らしいのかもしれません。
欲望などと違って
信仰が支えて動かす良心の表れの一つであります。
 
良心については直観的に理解しているだけですが
良心の欠落をカルトなどに見ることが出来ます。
そこに欠けているものは、他に、
反省力、学習機能、自己修正機能、成長などがあります。
誰もが、自分で心がけるべきことで、誰にとっても必要なことです。
これらは、自己中心の自己愛やカルトなどに欠けていることです。
 
 
神を信じて、教理を学んで、
自分が特別になったなどと思わないでください。
また
自分が特別だから選ばれたなどとも思わないでください。
 
言ってみれば、上に書いたように、みな個別の恵みなのです。
個別だから違うところはありますが
優劣はないということが、信仰のもたらす恵みの特徴です。
 
信仰は、悔い改め、即ち、折々の正直な祈りによって成長します。
 
キリストに癒され、神によって赦されることは、
物や肉体に起こる奇跡よりもはるかに理解可能な、
悔い改めを通して起こる魂の奇跡に支えられる道であります。
 
 
深遠を

深遠を
  
              何となく敬意を表したい感じがしました。
             今は私がこのご老人くらいに年を取りました。
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年10月15日、再録+加筆)
 
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
 
  ハンカチ
 
自分のために
誰も傷ついて欲しくない
と君は語った
しばらくの間そのことを語った
私は一枚のハンカチを渡した
もらい物であった
私が使っていた
いくたびか汚れ
いくたびか濡れ
ときにはちり紙の代わりとなり
犬が噛んだこともあった
そのたびに洗って干した
少しは汚れや
唾液や涙液が残っているかもしれない
しかし君よ
今はそのハンカチで拭くのがふさわしい
私らの歩む先に
真っ青なだけの空があるだろうか
真っ暗なだけの夜があるだろうか
うつくしさだけで住める町もなければ
みにくさだけで去れる町もないのだ
君は語り私は聞いた
海鳴りのように遠く
耳鳴りのように近く それくらい
明らかではない私らの出会いの後
いずれ君は私を忘れ
私は君を忘れるだろう
だから君よ
この一枚のハンカチを君に渡すのは
今唯一明らかな約束の在り方として
その捨て方を君にまかせるためだ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
「人間の性なんでしょうかね」と嘯(うそぶい)いて、みんないっしょでしょ・・とばかり、正当化する楽山に、騙されないでください。反省の出来ない人は、人間ではありません。楽山は、一種の、非人間です。人間離れです。気取りだけで出来ている男です。近づいてはいけません。
 
「自分もそんな風です」・・楽山も、ではなく、楽山が、異常ということです。正常ならば、人間ならば、反省しないということはないのです。何を考えて生きてきたのでしょう。恐らく、笑い、怒り、しかし、悲しみを知らない、罪悪感がない、反省しない、・・これで、人間のつもりでしょうか。
 
 
 
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