「確信」3
 
 2018年04月30日
  かなり前に書いた記事、一部加筆修正。
 
 
神については全知全能と信じています。
神の詳細は不明です。
聖書に書いてあっても神は人知を超えているから
人には分からないはずですが、
それを弁えない人もいるようです。
 
 
人間は全知でも全能でもありません。
信仰について
人が確信を持つとはどういうことでしょう。
 
確信をもって、ということが信仰でも言われます。
しかし私は、以前から、
神の意志について、どうして人が確信を持てるんだ、
と言ってきました。
 
神の意志について人が確信を持ったら
それは訂正不能になってしまう、という危惧であります。
それは神の完全を自らに当てはめてしまうという背教です。
 
神を信じるということは
神ではない人が
神を信じ仰ぐことによって
人としての立場を弁えるということです。
 
信仰によって
超常に近づいた気分になるなら
人間性を疎かにしてしまう危険があります。
 
私たちが大事にするべきは神聖ではありません。
神聖を大事にできるのは神聖ご自身だけであります。
 
信仰が人間性のために与えられることを忘れてはいけません。
 
 
神様は完全なのだから
御自らは訂正する必要はないということになります。
 
しかし
人は不完全なので
神の完全を知ることはないのです。
 
つまり本質的に
人は神のもとにある不完全な民ですから
訂正不能にしてよいものは何もないのです。
 
ましてや
神事を人が訂正不能に信じ込む?なんて
とんでもないということです。
 
そんな能力は人にはないから、
神のみを絶対と仰ぐなら、
訂正不能は信仰の敵だとさえ思うわけです。
 
言葉で言うなら、私は現時点の判断を語っています。
修正可能の一点をもって確信ではない
ということですが、
何らかの行為に結び付くときには、
今は他にないという一点をもって確信に近くなる、
という微妙さもあります。
 
つまり確信を持つことは
訂正不能にすることではない
と言いたいわけです。
 
このことを言うのは
広く一般に
人が確信を持てと言われると
訂正してはいけない
と思い込む傾向があるからです。
 
ここで申し上げます。
確信を持て
と言われたとき
信仰者が考えるべき確信は、
信じ込み思い込むことではなく
何よりも
今は、これしかないだろうという確認です。
 
何かの決断のとき
このことを弁えておけば
結果の導きと
反省の祈りにおいて
私たちは
先へ進むことも
本来の道へ返ることも出来るでしょう。
 
訂正不能は反省不能に結び付き
神を心の偶像に固定することです。
 
修正可能は
いつでも神からの新たな導きに反応できるように
人間の側が弁えるべき節操であります。
 
 
※ 
 
ここで、誤解しやすい一つの聖句をあげておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
16:10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 
16:11
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
 (ルカ16:10-13、新約聖書)
 
10節は分かるけれど、11節の、不正の富に忠実ということが、分かりにくいところです。結局、13節の、二人の主人、即ち、神と富とに両方仕えることは出来ない、神に仕えよ、神を主とせよ、という教えに帰結するわけです。
 
神に忠実ということが、この世の富という観点から見れば、しきたりや馴れ合いなどに従わないことで不忠実や不正に見えることがあるから、そういうことに惑わされることなく、神に忠実であることを勧めています。
 
そのためにも、信仰者は、反省し学習できる人でなければいけません。人間は不完全ゆえに罪深いからです。楽山、シャロームshalom、易坊という3人は、忌むべき訂正不能のナルシストです。同一人物の成りすまし、即ち、今の、楽山ではないかと疑っています。
 
つまり、それは、詭弁屋のペテン師の反キリストである楽山のように、表面的で短絡した妄想的な曲解で教えてきて、その実は、利己のために、だまそうとする者がいるということです。そういう者の甘い言葉に惑わされてはいけないという意味に受け取ります。
 
不正の富に忠実、というのは、一つは、地上に在っては、富の世界において、富を求めることもあるだろうということ。つまり、勤勉に働いて富を得ること、という解釈です。
 
もう一つは、信仰に忠実であることが、この世では不正であるかのように言われることもあるだろう、ということだと暫定的に解釈しておきます。よい解釈があれば教えてください。
 
 
※ 
 
訂正不能と言えば、10年批判した偽牧師シャロームや、荒らしの易坊や、3年以上批判しているペテン師の楽山に、常態として見られることです。有頂天の慢心が著しく、何を言っても無駄、話にならない人、こちらの言うことを聞いていない、という人物になってしまっています。
 
また、"信仰に確信を得た" などという奇妙な言い方を聞くこともあります。これは、他に道はないという確認や決断としてはあり得ます。信仰は、神との関係です。しかし、確信は、人間がすることですから訂正不能にしてはいけないことだと弁えなければいけません。
 
このように、地上を生きる上において、保留があり、訂正・修正が可能ということは、必須だと思います。今は、これしかないと、決断して実行しても、反省して、考え、修正も出来るようにしておく心の余裕が必要だと思います。誰も、神には、なれないのです。それを知ることが信仰です。
 
 
訂正不能の末路

訂正不能の末路
 
 
(2018年)
(2021年)
(2022年10月21日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山の悪だくみツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
あなたはこれらの神々を信じますか?あなたが、人々がかつて信じてきた神々のうち、どれに関して「無神論者」なのかのチェックです。ぜひ信仰者の方々に試してあげてください。
午後9:52 · 2021年10月12日 (画像省略)
 
神なんて、こんなにいっぱいいるんだよ、いい加減だね・・とでも言っているようなリストが載っています。でも、画像が不鮮明で、良く見えません。いっぱいいるから当てにならないよ・・とでも言いたいのでしょうか。いかにも、楽山が好みそうな乱暴な話です。
 
楽山は、神を知りません。知性と理路において知りません。感性と情緒において知りません。考えることも、感じることも、できません。楽山は、いつも、超常のお伽噺か作り話で、神?を語ったつもりになります。楽山は、感動などの深い情緒を持っていないのです。
 
信仰者にとって、出会ったと思っている神が、そんなにはっきり確定できているわけではありません。何故なら、神は全能だとしても、私たち人間は全能ではないからです。だから、神に付けられた名前を並べて、どれを信じている?・・と聞くことにはほとんど意味がありません。
 
人間にとっての、神は、その意志と行為は、不確定です。だとしても、無神論者が何も福音をもたらさない現実において、神の全能の存在から、人の不全を知ることは、生きるために大切なことです。自らの人並み外れた不全を、知ろうともしない楽山のような者もいるからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
  旧約・イザヤ・20~21
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて灰だけが残る者よ
家の鍵を失う者よ
開けて閉じることなく
閉じて開くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈んで聞くに堪えず
見るに堪えない
 
憧れた黄昏は
もはや戦きとなった
頭を禿にし
荒布を纏うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
--------------------------------------
※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。
 
屈む(かがむ)
戦く(おののく)
禿(かぶろ、(はげ))
纏う(まとう)
何時(なんどき、(いつ、なんじ))
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は「人間の性」で自己正当化をしたいようですが、反省をしない人間は、いつでも、どこでも、正当ではあり得ません。そこには、成長も進歩もないからです。ずっと無反省であったなら、ずっと成長せず、訂正不能に固定して今に至っているということです。
 
その通りに、楽山は、勉強せず、成長せず、学習経過としての知能・理路・感性が、極めて未発達であることが、何か書くたびに表れてきました。つまり、今も幼稚です。今も全か無かで判断し、人に反省を促すが、それが、自分を高みに置いている証拠となっているわけです。
 
 
 
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