楽山のアドラー教2
 
   アドラー心理学サロン
   より抜粋。改めて批判。
 
 
楽山は、アドラー教(アドラー心理学?)の宣伝をしていました。自己中製造カルトだと判断しています。前に書いたアドラー教批判の記事に、楽山批判を加えて再録します。
 
私がアドラー教と呼んでカルトだと思っているアドラー心理学は、誤用や悪用が起こりやすいのです。実際、自己中心になって、人の話を聞かなくなった者がいて、批判を続けています。楽山のことです。アドラー教は、不感不応の自己中を促進することになります。
 
 
1. 自分と他人を区別する
2. 人がどう思うかは、相手の課題だと割り切る
 
どう思われるかを気にしないことを勧めています。自分という存在に、他者は関係ないのでしょうか。違います。別人格同士は、影響しあって進むという正常な部分を無視しています。
 
 
3. 他人の課題に介入しない
4. 自分の課題に、他人を介入させない
 
課題は、それほど、分離しやすいようにはできていません。特殊な場合を、全体に当てはめようとする詭弁です。他人が何か言ってきて、不快なら無視するアドラー教に従うと、原始的な反応が対人関係を支配するようになり、人格は未熟なままだけでなく、鈍化し、破壊されてゆくでしょう。
 
 
5. 他人への優しさは忘れない
6. 利己主義にならない
 
上ではまずいと思ったのか、小学校レベルの道徳を歯止めにしてきました。この深みのなさが、アドラー教の、いい加減さなのです。
 
人には好きなように言って、人の言うことは原始的な判断で聞かない、という対話不能の人間を作り、それでいて、優しく思いやりのある人間になりなさいという継ぎはぎを当ててきていることを見逃さないでください。
 
 
7. 結果の責任を自分が引き受けることは自分の課題
 
どういう結果でしょう。一般的に言ってよいのでしょうか。自分と他人が一緒に関わった課題をどう区別するのでしょう。なお、アドラー教を宣伝していた楽山は、全くの無反省・無責任です。
 
 
1. 他人との課題を分離する
 
分離できない課題はないのでしょうか。課題に相手のことが含まれることはないでしょうか。無理して、この部分は私、その部分はあなた、と言い張るのでしょうか。常識的に課題の認識に無理があるのです。
 
 
2. 承認欲求を否定する
 
承認欲求だけではいけませんが、承認欲求を否定することは簡単ではありません。さらに、承認欲求を全否定すると、自分で勝手に事を運び、結果については無視して無視して無視して・・不感不応の人生を過ごすことになります。そういう人間を自己中心そして人間離れと言います。
 
人それぞれ、自分を貫く、という生きる方向の自由選択の精神を表す言葉を、勝手に拡大解釈して、自己中の正当化に悪用していたのが楽山です。自由選択に、他者への害悪は含まれず、徹底して無視し続けます。これは、人間ではありません。
 
 
3. 劣等感を健全に克服する
 
当たり前の結論だけです。きれいごとの飾り、「健全に」としか言えない思想の貧困です。そう言って済ませるしかないほど、劣等感を克服すること自体が、そんなに易しいことではないということです。
 
 
4. 家族も他人だと割り切る
 
言葉が乱暴です。筆者は専門家ではないようです。このままでは、家庭崩壊を招きかねないことを平気で勧めています。別人格ですが、他人と違って、関係性は否定できません。
 
さっきから、出来そうもないことを勧めています。それこそ、オウム真理教みたいに解脱(げだつ)して悟りを開けと言ってるようなものでしょう。心を理屈で考えるとこうなる、という例でしょう。
 
 
5. 人への優しさを持つ
 
言うだけなら、当たり前の結論だけです。飾りです。実際には、優しい人間になることは、そんなに易しくはありません。今までの筆致から、筆者は、全然、優しくない人です。
 
 
6. 人に期待し過ぎない
7. 主張すべきは主張する
 
当たり前のことですが、容易ではなく、整合性を持たせようとする強迫観念による辻褄合わせでしょう。結局、そんな難しいこと言うてもしょうがないやろ、好きなようにやれ、という感じになってしまいそうです。苦し紛れの責任逃れの言い訳になりそうです。
 
 
1. 人は人を誤解する生き物
 
人は人を理解しようと努力する生き物でもあります。否定だけを、歯切れよく書いて、気持ちいいのは筆者だけ。
 
 
2. 客観性は存在せず、全ては主観
3. 正解も間違いも存在しない
 
絶対に間違いのない客観は困難でも、人間として、より客観的に考えることは大切であり、時々の正解を求めることをやめるように教えるのは、トンデモ説教です。
 
 
4. 人の記憶なんて曖昧でいい加減
5. 人は他人に興味が無い
 
筆者は、いったい、どんな世界に生きているのでしょう。いったい、人を、どう決めつけるのでしょう。カルトが、辻褄合わせが出来なくなって潰れてゆくときの台詞か。
 
 
6. 論理性には限界がある
7. 感情や主観がある限り、他人の理解と意見は当てにならない
 
感情や主観はあるわけですから、他人は理解も出来ないし意見も当てにするな、と言っているのと同じです。これで自己中じゃなくて何なのでしょう。カルト臭。
 
 
好きな人、嫌いな人なんて存在しない。
あるのは、自分に合う人か合わない人かです。
 
合う人は好きになるだろう、合わない人は好きにならないだろう、という常識的な推測が欠けている発言でしょう。
 
筆者は、ロボットなのでしょうか。ロボットになることを勧めているのでしょうか。筆者は、人間の良識を全く信頼していないようです。しかし、一方では、当たり前の常識を書いているという矛盾だらけの有り様です。
 
 
どんな人であっても、誰かにとっては良い人であり悪い人なのです。人が他人の良し悪しを決める道理はありません。誰かが良い人間なのか悪い人間なのかを論じるよりも、自分はどういう人間なのかに集中しよう。
 
人間は、不完全、そして絶対ではなく、相対的と言うべき存在です。他者の良し悪しの判断をしないで、自分に集中しようと言っています。日常の様々なことについて真実か虚偽かの判断をしないで自分の楽だけを考えるのは、進歩しない人類になろうという勧めになってしまいます。
 
自分という存在に、どれほど、他者の影響があり、それは、余計なこともあれば、必要なこともある、というようなことは考えないようです。
 
 
いじめをするような人たちは、心が貧しい。
 
念のため、この「心が貧しい」は、精神が貧困だという意味で使っているようです。聖書とは違う意味ですから、キリスト教の信仰といっしょにしないようにしてください。
 
私は、
心貧しい =余計な先入観を持っていない。
精神が貧困=余計な先入観しか持っていない。
・・というような区別をしています。
 
聖書の「心貧しい」というのは、高ぶらせるものを持たない、先入観や思い込みがない、お金よりも物よりも自己満足よりも、心を満たす救いを求めている、謙虚である、などという意味で、救いにつながります。この2つを混同しないでほしいところです。
 
 
人のアラを探して、いじめて自分の劣等感を穴埋めしようとしているだけ。
そんな人の心が理解できない、読もうともしない人たちは落ちぶれる。
 
「そんな、人の心が・・」と書きたかったのでしょうが、それにしても、決めつけから、呪いになってきました。
 
 
更生してもらうことなんて考えず、あなたまで落ちぶれてしまうので「関わらない・距離を取る」を徹底しよう。
 
嫌われる勇気と同様のことを言っています。これで、平気で、気持ちいいなら、異常です。
「あなたまで落ちぶれてしまう」は、分からないことですから、呪いと脅迫の付け足しです。
 
「人のアラを探して、いじめ」をする人たちなら、場合によっては、批判し告発するべきです。
 
「関わらない・距離を取る」だけというのは、乱暴です。
それだけでは、解決せず、生きてゆけないことがあるからです。
 
 
心と身体が限界なら、全て投げ出してでもひと休みする。とても大切なことです。あなたが壊れてしまってはもっと重大な事態にも発展しかねません。上司や先輩、同僚からどう思われようが関係ありません。他人を気にかけて、あなたが必要以上に消耗してはいけません。
 
これは、当たり前のことです。付け足しの飾りです。こういう、言葉が荒くて粗い説教を聞いて消耗しないようにしてほしいものです。
 
心と身体が限界かどうか、自分で判断できない場合もあるでしょう。一見、まだできるようで、人に言われたり、自分も、そうかも・・と思う場合です。大事なことは省略して、言葉だけ、よさそうなことを言うのはやめましょう。
 
以上、注意深く読むと、ひどい話をしているのがアドラー教です。
 
全否定(肯定)と部分否定(肯定)など、理路全般に、日本語による文書作成が未熟で、
こう書いたら、誤解されてしまうのではないか、という気配りが働かない人のようです。
 
元々のアドラー心理学は、語られ広められているほど、単純ではないような気がします。
 
筆者たちは、
日常の言葉で書かれたところが、常識的におかしいから、というような指摘をしても、
ちゃんと読んでから言え、みたいな、貶めだけを書いてくる人たちのようです。
 
人間性において不自然なことを、新発見のように豪語する者たちを警戒してください。カルト的増長によって、人間性において不自然なことは通らないということが分からないでいるのかもしれません。
 
 
 楽山の惨劇
 
楽山は、アドラー教を宣伝していました。自己中のまま訂正していないから、今も信奉者のようです。楽山に当てはまるのは、気に入らないことは無視しましょう、ということで、まさに、善悪でもなく、正邪でも無く、真偽でもなく、楽山が気に入らないことは、つまり、都合の悪いことは、無視するのです。
 
この結果、自分の発言について、全く責任を負わない。無責任男になって、議論も、思考も、共感も成り立ちません。楽山だけは、相手にしてはいけません。
 
人格破壊は、本人には分からず、自覚がありません。破壊が進んでいるのに、不都合を無視することで、何か邪魔なものがなくなって気が楽になったような気分になるのでしょうか。本人が楽になる分、関わる他者にとっては苦が増すということが起こります。
 
それは、一種の身勝手な合理化であり、自分を取り巻く状況は、少しも合理にはなっていないのです。まわりの誰もが感じて知っていることを、自分だけは感じない知らない、という世界に妄想没入することです。自他の不一致、主観と客観の不一致は、いずれトラブルを招きます。
 
楽山を真似ると、無視によって、解決も処理もされないことが、自分にはなくなり、人には増えて、その関係の下で、自分と自分を取り巻く世界が妄想的に再構築されてゆきます。しかも、その摩擦は、生涯にわたって、増え続けることになります。いずれ、破局点を迎えるでしょう。
 
気に入らないことを無視する力が、良心や罪悪感よりもまさって、それにも気づかないでおれば、楽でしょうか。その時点で、もはや、人間ではなくなっているのですが。
 
楽山は、楽なのでしょう。楽山は、人間でいたくないのでしょう。楽山は超常趣味なので、一足飛びに、心霊?か神霊?になりたいのでしょうか。化け物のほうが、偉そうに見えるのでしょうか。確かに、楽山は、ホラーの化け物です。
 
このように、アドラー心理学から、アドラー教カルトになって、宣伝者になって、元々霊能者気取りの思い上がり体質もあって、楽山は、自己中、自己愛、無反省、無責任が、人間性を失わせているのに、気づくことがありません。
 
楽山は、今も、まともな人間であるかのように、それこそ、学者気取りか評論家気取りで物を言っています。それだけの詐欺的な嘘吐きになっています。自己愛性人格障害の楽山には、他者を批判する資格も能力もありません。手遅れなのかもしれません。楽山には近づかないことです。
 
 
楽山やシャロームなどの易坊類に見られるような自己愛性人格障害者の中には、占いをやっている者がいるかもしれません。占いならば、多少外れても、インチキと言われることはあるでしょうが、元々の期待値が低いために、責任と取れとまで言われることは少ないからです。
 
しかし、真剣に、宗教や人生などの真実の追求をするテーマについての発言は、発言をしておきながら、責任は負わないでは済まされません。楽山は、偏見を煽って、キリスト教と信仰をおとしめてきました。
 
発言について、間違えたり、言いたいことが変わったりしたときには、丁寧に、かつ、真摯に、反省と訂正を述べたうえで、出来る限りの学習を続けることが必要です。いい加減なことを言って、無責任ならば、そういうテーマに関わってはいけないのです。
 
 
花も 実も 無い

花も 実も 無い
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年10月26日、再録+加筆)
 
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
 
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
 
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
 
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
 
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
 
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  ボールペンⅡ
 
くやしいペン
振っても振っても出てこない
はーっと息
まだ出てこない
しんを吹いてから
強く押す
また振って
もっと強い圧力
深い溝と
申し訳程度に
うすい文字が途中でかすれる
 
もう少しだったのに
喉まで出かかっていたのに
また消えた
最後には指先でおもちゃになって
くるくる回され
倒され
転がされ
トトトト
話にならない
やめた
後ろのごみ箱にポイ
捨ててやった
 
ようやく休むことができる
これで書く"もの"がいなくなった
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはいまいち理解できない話だった。
成績が良くて、異性と仲良くしてる同級生を、「いいなー」と羨むなら分かるけど、絞め殺したいくらいに呪うというのは分からん。
脚本家には、これがリアルな感情の動きなのだろうか。
2022年10月23日
 
楽山は「いいなー」で済ませて、嫉妬という感情が理解できないようです。これは、正しいことでも、望ましいことでもありません。人間ならいだくことのある嫉妬を、楽山は自覚しておらず、持たないと言っているのです。いい子ぶりっこの猿芝居です。でなければ鈍感の進行でしょう。
 
あるいは、嘘を吐いています。平気で嘘を吐いて、平気で飾ってきたゆえに、恥を知らず、このような、きれいごとが書けるのです。「絞め殺したいくらいに呪う」ことはしなくても、陰性の感情として自覚しておくべきですが、楽山は、そこを「理解できない」とまで言って、飾ってくる人です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
詫びることがない、正すことがない、嘘ばかり、保身だけで、魅力の欠片もない、失敗した、過ちを犯した、出店を畳むしかない、・・という経過を経て、まだ、何かを言えると思っているのは、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だから。
 
 
 
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