在る・祈る 3
 
 
新約聖書の中のパウロの言葉で、愛の賛歌とも呼ばれる聖句です。

 (コリント人への第一の手紙、口語訳)
13:4
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 
13:5
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 
13:6
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 
13:7
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
 
この聖句を全て反対にしてみます。
 
寛容でない。情け深くない、冷酷。妬む。高ぶる。誇る。
無作法である。自分の利益と快楽だけを求める。苛立つ。恨みをいだく。
真理を悦ばないで、不義を悦ぶ。
忍耐しない。信じない。正しさを望まない。耐えることが出来ない。
 
大方、楽山に当てはまります。
 
さらに、世の中に溢れている身勝手な愛というものの実相でもあるでしょう。
 
 
  在る・祈る
 
あの頃に戻りたい
という あの頃が
いくら探しても見当たらない
 
人生が二度あれば…?
あってたまるか
二度と生まれては来ない
としか言えない今
 
かといって
不幸体験合戦をして何になろう
不幸と言えば
ぶん殴られそうな怠(だる)い日々
 
感謝と賛美で埋め尽くさねば
気の済まない信仰もあるのだろう
そうせずにはおれない何か
事情があるのかもしれないし
 
コリント・パウロの愛の賛歌
「愛は寛容であり、…」
の肯定否定を総て逆にしてみると
自分にそして今の世に
蔓延(はびこ)り流れ落ちる愛と呼ばれるものの罪の実相が浮かび上がる
 
賛美すべき誠の愛も
そしてまた憎しみも
絶えることのない今の世にあって
戻りたいあの頃探しも
もう一度生まれる人間願望も
信仰も希望も大いなる愛も
否定も肯定もアンビバレンスも
総ては神の手の中に
祈りへ・・祈りへ・・
 
 
 
  唖然
  ↓
  怒り
  ↓
  憎しみ
  ↓
  恨み
  ↓
  怨念
  ↓
  呪い
  ↓
  病
  ↓
  鬱
  ↓
  諦め
  ↓
  悲しみ
  ↓
  感受と思考
  ↓
  祈り
  ↓
  思考
  ↓
 今できること
 (復活)
 
 
 
  弱虫
 
明るく見えても
穏やかに見えても
やさしそうに見えていても
ときおり激しさや険しさや苦悩を覗かせるのは
押し潰されそうになりながら
消え入りそうになりながら
懸命に重たいものを支えているのかもしれない
 
常にプラスの方を向いていなければ
常に前向きでいなければ生きられぬ
というほどに
 
だとすれば
暗さを暗いまま
激しさを激しいまま
腐肉を腐肉のまま押し出してしまうのは
すでに認めざるを得ないのだが 改めて
不治の弱虫だと
ある日ふるえるように 思う
 
最も悪質な弱さというのは
弱虫だということではなく
弱虫だということを認めないことだろう
 
 
 
  恋歌
 
あなたの こえが ききたくて
みみを すましてみるけれど
いまは やさしい ほほえみも
うたごえさえも とおすぎて
 
あなたの ゆめが 知りたくて
こころを こめてみるけれど
とおい おもいで 追うばかり
間(あわい) せつなく 問うものを
 
つきぬ おもいよ いまさらに
なにを もとめて たちどまる
ささげるものと 問われては
とどかぬ うたと しるゆえに
 
わたしの おもいの はかなさを
ささのは ささぶねに おりなして
この かわの もに うかべましょう
はてる さだめと しりながら
はてる さだめと 知るゆえに
 
 
 
  イエスの教え
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
イエス・キリストは、やさしかっただけではなかった。
 
戒め・律法を守っているという訂正不能の確信によって罪を認めない者には徹底して厳しかった。このことと三つの教えを考える。あの厳しい教えによってキリスト・イエスが最も言いたかったのは掟ではなく戒めを守るよう示すことでもない。
 
あの十戒よりも厳しい教えを守れないものが殆どであることは百も承知で言われている。そして教えるときにはパリサイ(ファリサイ)人や律法学者がイエスの視野の中に常に敵対してくる相手としてあったと思う。
 
イエス・キリストは、律法を守るか守らないかで罪か義かを判断しようとする当時の風潮と形式だけの信仰にここでも挑戦し敵対している。
 
律法を守っているから罪はないという考えには更に到底守れない教えを説くことによって、結局は罪のない者・罪を免れる者は一人もいないということを言われていたのだろうと思う。
 
律法学者やパリサイ人は、例外を除いて、高慢で、傲慢で、怒りやすく、人前で豪語し、威張り、教えを受け取る器がなかったゆえに、真っ向から、キリストの敵となった。この性質を持っているのが、サイコパスであり、また、楽山のような自己愛病質である。
 
 
祈りの向かうところへ

祈りの向かうところへ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
  楽山には、良心がないために、執拗な自己正当化の詭弁が止みません。
 
★こも楽山/楽山日記3さんがリツイート
闇宇宙の俳諧師・藤倉善郎
@SuspendedNyorai
カルト問題で特定の団体や加担者を批判すると「信教の自由」とか言うアホがいますが、「信教の自由」を振りかざす上祐史浩に「人を不幸にする自由はない」と毅然と言い放ったのが坂本弁護士。カルト問題における最も基本的な大前提です。
午後5:34 · 2021年11月4日
 
楽山は自らを省みることがありません。念のため書いておきますが、楽山の言ってきた言論の自由や、以前の記事のテーマ「自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?」も大前提に対する、あからさまの違反です。曖昧な格言や一般論で、個別の自分を正当化することは出来ません。
 
「人を不幸にする自由はない」・・ならば、人に迷惑をかけてはいけない。言うだけで責任を負わないという自由はないわけです。楽山のように他者を無視し、学習しない言論はあり得ないのです。言論における「最も基本的な大前提」です。楽山という自己愛性人格障害者に欠けているものです。
 
無反省、無責任、無視の、一方的な言は、言論ではなく、いちゃもん、嫌がらせ、貶め、悪口、誘導、刷り込み、印象操作、侮辱の類であり、常識的ルールの無視であり、成立しません。しかも、楽山のように、自分の不祥事を人のせいにするに至っては、到底、人間とは思えない所業であります。
 
 
★こも楽山/楽山日記3さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
誠実さを貫けば、決して多くの友は得られないだろう。でもいつだって、正しい友を得ることが出来る。―ジョン・レノン
午後2:52 · 2021年11月4日
 
誠実さを欠けば、多くの友は得られず、正しい友も得ることが出来なくなります。楽山は、誠実を知らず、嘘と詭弁と刷り込みばかりしています。だから、悪の仲間がいたとしても、誠実な友がいませんし、正しい友を得ることも出来ません。有名人の言葉で自己正当化しても無駄です。
 
 
(楽山と思われる)raku がリツイート
セルピー
@self_pararevo2
·10月27日
【秩序ある状態にするには】
世界の秩序に於いても、
国や社会の秩序に於いても、
会社や家庭の秩序に於いても、
いかに、
不快な感情による「感情損失」を減少させていくのかが最も優先すべき重要なことです。
(引用:ZEROの法則/宇場稔著/幻冬舎)
 」
午前9:07 · 2021年10月27日
 
いかにも、楽山が、このツイートを引用しそうなのは、楽山においては、不快な感情の原因を無視する自己中が最優先になるということです。その通りに、楽山は、不快、不都合を、受けることはもちろん、与えたことも無視します。それを正当化するため、曲解に走り、いっそう、醜さを増してゆくのです。
 
このように、楽山は、他者の言も曲げて、自己正当化の具材として悪用します。楽山には、基本的な理解の客観性がないので、自分に有利に見える意味を暗示できそうだと思ったら、エサに飛びつくように、一般的な意味など考えもせずに、引用してしまう短絡的な衝動に走るのでしょう。
 
自分だけでなく他者のためにも「不快な感情による「感情損失」を減少させていく」協調性が、一般的に大切です。楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDらしく自分の快楽しか考えていないので、自己中の視点だけで誤読し曲解して引用し、むしろ自ら、病質から墓穴を掘ってゆくのです。
 
「不快な感情による「感情損失」を減少させていくのかが最も優先」・・最優先なんだぞ、オレはそれをやっているんだ、という、殆ど、本能のような楽山の、みじめな曲解の言い逃れです。引用部分を、自己中心的にしか受け取れないところの、精神の貧困が明らかです。
 
都合が悪いことは無条件に無視してよいなどとは、どこにも書いてありません。楽山は、企んで、あるいは、体質によって、注意深く言葉の本質を掘り下げることが出来ません。それは、まるで、ケーキや玩具の前に、子供が、我を忘れる姿に似ています。人格の低格化です。
 
無反省無責任の自己中について、良識があるなら、楽山の場合には病識があるなら、上のツイートを無条件で引用することはしないでしょう。少なくとも、良心に基づく説明と反省を書くはずです。それをしないのは、今まで、ずっと我欲だけの自己中を続けてきた体質的欠陥があるからです。
 
私は、過去に、楽山にだまされていた数か月があります。一見、中立な立場の人だろうと思っていたのです。しかし、偽牧師シャロームの、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、という妄言に、楽山が無条件同意したことが気づくきっかけになって、以後は批判を続けています。
 
楽山は、ブログとツイッターで、複数の、恐らく、たくさんの、HNを使っていると思います。シャロームも、楽山の成りすましではないかとさえ疑っています。真偽はいまだ不明ですが、嘘と芝居が大好きな楽山は、丁寧語を使いますが、性根は、荒らしだと思います。だまされないでください。
 
ヤフーブログ時代の、楽山ではないかと疑われるHNは、shalom、楽山(=自由)、易坊・・以外には、駅坊、tensoba、こうさん、変心忍者荒らし、pci*****、A、α、ルシフェル、アルファ、まほろば、htakabo、rut*****、関西人、・・などです。スクショが残っていました。楽山の信頼度はゼロです。
 
 
 
楽山は、ツイッターでは、前と同じように、自己正当化に都合のよい文言を漁(あさ)っては載せてきます。楽山日記コメント欄の再録です。削除しないのは、コメント者が、親族だからでしょうか。それとも、教師、または、そのような立場の人でしょうか。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。体質的なものなので、一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
 
 
 
(2021年)
(2022年11月08日、再録+加筆)
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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