楽山の無理の路3
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、だらだらと長い記事を書いています。内容は、殆ど空疎であります。自慢に過ぎないと指摘しても、執拗に、飾りのように貼りつけて、文脈から浮いている謙虚芝居のトホホ言語と、整わない理路と、鈍麻した高等感情の有り様を見ることになります。
 
 
*シルバー・バーチの霊訓
最近、スピ系のツイートを見るようになったせいか、にわかにその方面への興味が復活してきたので、
 
以前から、楽山は、霊が分かるっぽい自覚だけの人です。超常の辻褄だけをデタラメにあげつらって、人間について考え学ぶことを疎かにすると、人間離れ、現実離れして、楽山のようになるのでしょう。
 
 
『シルバー・バーチの霊訓(一)』を読んでみた。ものの考え方だとか、人はいかに生きるべきかという話には、思わずハッとさせられる箇所があって面白い。
 
「人はいかに生きるべきか」ということを、霊訓?から学んで「思わずハッとさせられる」のだそうです。自分で考えることはできないのでしょうか。一気に分かったことにしたい自己顕示の霊能への欲望が表れています。
 
スピリチュアル、即ち、霊から得たものだから悦んで信頼して、人からの言葉は信頼できないのでしょう。人に対しては嘘と詭弁で騙すことしか考えないようです。人間の世界の怪しさのランキングが逆になっています。
 
恐らく、楽山は、自分も霊能者という自覚があり、教祖願望があり、霊が分かるっぽいから、霊でないと信じない、になっているのかもしれません。努力をしたくない怠慢と、人間嫌いで人間離れしたがる傾向が、楽山をそうさせてきたのでしょう。
 
 
年を取って感性が鈍ったせいもあってか、
 
元は感性が鋭かったかのような書き方です。
 
 
今はもう霊がどうしたこうしたという話にはさほどリアリティは感じなくなったのだが、
 
昔は、霊にリアリティを感じていたのでしょうか。感じなくなったのに霊の話をするのでしょうか。良心的なスピリチュアルは、人間を見ることを忘れないでしょうに、霊にばかりこだわってきた楽山には、良心も良識もあるとは思われず、人間らしい感性の名残すらも見られないのです。
 
 
人生論だとか、価値観の話には今でも心を動かされるというのはうれしい。
そんなわけで、今回の読書でハッとさせられた部分について書いておきたい。
 
楽山は、人生論と価値観とスピリチュアルが、同質になっているようです。怖いことです。楽山にとって、心霊の話は、楽をして、お山に登りたい欲望だと思います。実際には幼稚な興味だけで、楽山が「ハッとさせられ」ることは、恐らく、一度もなかったのではないかと思います。
 
 
*ものごとには時期があるということ
まず本書では、霊的な思想を他人に押し付けてはいけないということが繰り返されているの印象的だ。
真理は魂がそれを悟る準備の出来た時に初めて学べるのです。霊的な受け入れ態勢が出来るまでは決して真理に目覚めることはありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(一)』アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳、潮文社、平成3年、p.55)
無理して植えても不毛の土地には決して根づきません。根づくところには時が来れば必ず根づきます。
(同上、p.35)
 」
実をいえば、以前の自分はこのことが全然分かっておらず、とある新興宗教の影響を受けて、真理を受け入れない人がいると、下根だとみなしていたのだった。
 
「以前の自分はこのことが全然分かっておらず」・・今は分かっているような口ぶりです。楽山は、人間にとって大切なことが何も分かっていないと思います。だから、発言の信用度はゼロです。
 
(ネットより)
げ‐こん【下根】 の解説
《「根」は本来の性質の意》仏語。教えを受ける性質・能力が生まれつき劣っていること。仏道を修行する力の乏しいこと。また、その者。下機 (げき) 。下機根。→上根 →中根
 
楽山は、しっかりした思想を持っておらず、もっと邪悪な妄想や先入観のほうを選んで、自らの思想を詭弁によって執拗に刷り込もうとしてきたのです。私のブログに、いっぱい楽山の妄念が引用として表れています。ここもそうです。下根とかは知りませんが、楽山は下劣です。
 
楽山は、今までの経過から、他者を下根と見なしていたが、自らに、下根を当てはめる、罪や偽善を当てはめる、ということがないようです。評論家気取りの文章で、他者を見下ろす姿勢は、今も変わりません。訂正不能の自己中の表れであります。
 
 
でもさすがに今はもういい年なので、
 
反省は、いい年だからする、というものではありません。若いときからの積み重ねであることが、全く分かっていないようで、相変わらず、いい加減なことしか言わない楽山です。書けば書くほど、いたるところに、自己愛、慢心、いい加減さが、漏れ出てくる楽山です。
 
 
そんなことは思わず、シルバー・バーチと同じ考え方になってきている。霊的なことを受け入れない人がいたとしたら、その人にとってその時期が来ていないか、はたまたその人の個性に応じて他の方面での役割があるということなのだ。下根だとか、上根だとかとは別のことだ。
 
「シルバー・バーチと同じ考え方になって」・・これが、高ぶりの霊能者気取りを表していることが分からない楽山です。詭弁を弄してきたことに、何の反省もないほどに悪質な楽山です。しかも、責任逃れに、教訓的でもある霊言を引用→悪用しています。
 
「時期が来ていない」「個性に応じて」という言い方は、思いついた体のいいことを書いただけだと思います。楽山は、恐らく、真摯に反省して考えることさえできない人だろうと思います。「下根だとか、上根だとかとは別」・・上根ということなら、批判に答えられるはずです。
 
 
*真理の独占?
これは耳に痛い言葉だ。
人間はとかく自分のかかわった組織や団体にのみ霊力が顕現されているかに錯覚しがちですが、霊力というものは何ものによっても独占されるものではありません。
(同上、p.79)
 」
いつも書いている如く、かつて自分はとある新興宗教の信者だったのだが、その教団ではまるで自分たちが真理を専有しているかのように主張していたのだった。
 
楽山が、今、霊力を専有しているつもりがないなら、本当に謙虚であったなら、批判を無視することはなかったはずです。偽牧師シャロームshalomに無条件賛同もしなかったでしょう。またしても、邪悪な作為です。過去がどんどん追いかけてきて、無反省の楽山を斬っているのです。
 
つまり、楽山の、昔は専有、今は違う、という嘘です。楽山の今までの発言が、否定しています。言論の履歴によって、今の言論の嘘が表れてくる例なのです。真理を占有することを批判している楽山こそが、今までの経過から、訂正不能の自己中だということが明らかになっています。
 
 
教団の創成期のうちは、他にも真理にかなった教団はあるとして、他教団にも一定の敬意を払っていたのではあるが、じきに当教団の教えは最高、最大、最強であって、天上界の高級諸神霊も当教団に集結しているとして、まるで自分たちだけが真理を独占しているかのような主張をするようになり、自分はそういう教祖、教団の主張を信じて、他宗教を低く見ていたわけである。これは今となっては実に恥ずかしいし、自分史としてはまさに黒歴史である。とほほ。
 
ならば、キリスト教への、難癖、いちゃもん、一方で、ほめ言葉、そして、今、他宗教を低く見ていた、などと言う、ばらばらの反省は、本気ではない芝居だということになります。「黒歴史」「とほほ」、これも嘘、そのまま、嘘吐きの謙虚芝居のトホホ言語と呼んでいます。楽山の詭弁の正当化です。
 
楽山の言は、粘着して収まるところがないようで、このことが、楽山の、他者を見下ろす自己愛と自己顕示の無反省による訂正不能なのです。しかも、しつこく何度も、自分を出して、グリグリと押してくるように繰り返すのは、自己愛性人格障害のサディスティックな体質の表れなのでしょう。
 
 
*善と悪
これは勇気ある発言だ。
私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。
(同上、p.83)
 」
悪を捨てて善を取れ、闇から離れて光を求めよと説くのは、ある意味、楽である。これなら多くの人々が納得できる話であろうし、余計な波風も経たず、面倒がなくてよい。
 
善人となることは、それほど楽ではありません。完全な善人は、一人もいません。楽山は、納得できないことが多く、波風が寄せてきて、面倒なことの多い、この地上の世界を、すべて無視して言っているということを覚えてください。幼稚な短絡なのです。
 
善だけでなく、悪にも神の存在が宿る、と楽山は、言いたいようです。楽山には、神と悪魔の区別がつかないことが分かります。どちらも目に見えない存在ですが、目に見えて、楽山は、自らの悪の正当化を、こともあろうに「神」という言葉によって企んでいるのです。
 
神が悪に宿るというのは、悪も救われるかのような、誤解を招きやすい言い方です。早速、楽山に利用されています。神が、悔い改めない悪に及ぼすことは、結局、裁きしかないのです。どうして、訂正不能の悪を救う神?がいるでしょうか。どうして、そういう神?が信じられるでしょうか。
 
楽山に、神が宿っていたら、楽山が、悪そして偽善者でなかったら、善または偽悪者であったなら、今までのような嘘と詭弁の経過はなかったはずです。楽山に宿っているのは、一時的な悪以上の、嘘と詭弁の偽善の最悪でしかないのです。罪悪感がなく反省しないことが証拠です。
 
 
でも、善と悪、光と闇、神の絶対性などについて思案すれば、ことはそう単純でないことはすぐわかるし、上のような考えに行き着くのも道理ではある。
こういうところは、シルバー・バーチの霊言は、単純な二元論を語るそこいらの新興宗教よりも、よほど思想的である。
 
善を勧め、悪を離れよ、というだけの説教は、言うだけなら誰にでもできる、という、はっきり言って、何も言っていないのと同じです。そこに、人間の闇の部分を考察しなければ、空疎で幼稚な説教であります。その典型的な幼稚さが、楽山を通して、霊言の解釈にも、表れています。
 
楽山は、妄想的であって、思想的ではありません。ゆえに、楽山は、単純な言葉では表せないところを、一度も説明できたことがありません。逆説的な香りに、興味本位の原始反応を加えて、自己顕示欲から、強迫的に繰り返し言っているだけなのです。
 
それが、楽山のような、自己愛からの自己顕示欲という、反省できない者の宿命なのです。そして、楽山が、実質の深さも示すことのないまま、資格も能力もなく、霊言を褒め讃えているのは、個人でありながら、有害なカルト性を示していることにしかならないのです。
 
善と悪には、二元論以前に、既に、良識からの直観的な区別があります。楽山は、そこに欠陥があり、「二元論」などと、知ってるふうを装いますが、実際には、自分を正当化し、結果として、悪だけを勧める者でしかありません。良心のない者、心ない者は、こういうことしか言えないのです。
 
 
無理な詭弁に生きる災いと不幸

無理な詭弁に生きる災いと不幸
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年11月12日、再録+加筆)
 
 
 
  やさしい人
 
線香花火は
線香に変われるだろうか
風前の灯火(ともしび)は
蝋燭(ろうそく)に変われるだろうか
また来る春には
土壌の妖気となり
また来る夏には
壺(つぼ)を出て飛び回り
また来る秋には
小舟に乗せられサヨナラ
また来る冬には
まだ生きていたりして
燃えたかった風前の線香花火は
くずれゆく鬼の面相で
きれいに巻かれた煙草を
灰に変える
ぽろぽろ落ちる灰の熱では
無理な注文だろうか
やさしい人よ
やさしかった人に変われるだろうか
 
 
  委ねるとき
 
たとえば癒しの御言葉
「思い煩うな」が
ときに無理強いの「してはならない」に
否定の「べき」になってはいないか
自分で自分に強いてはいないか
 
すでに思い煩っているのだが
思い煩え
と試しに言ってみる
思い
わずらってみる
すると思い煩うこと
に耐えられない自分しか残っていない
そういう時ではないかと・・・
 
いかなる優れた言葉も
自分の持ち物のように使えば使うほど
持ち物のように磨(す)り減って
死んでゆく性質を持っているようです
そういうときには
そのたびに改めて正直に悔いて祈り
新品として頂くしかないようで・・・
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。「人間の性」のせいにしています。一般化という詭弁です。2019年だから、それほど古いコメントではありません。このコメントは、しばしば載せることになるでしょう。
 
 
 
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