信仰の心
 
   『イエス・キリストは実在したのか?』(レザー・アスラン著、白須英子訳)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41568314.html
   楽山のブログ記事。
 
 
楽山の読後感想文です。結論は出ていません。相変わらず、楽山は、史実や奇跡に興味があるようですが、心に受け取ることがなければ、いくら本を読み、聖書を読んでも、信仰を受け取ったり理解することはないのです。
 
もともと信じる気のない楽山が受け取るのは知識だけのようです。求める心がなく、ただ興味本位で扱っているからでしょう。
 

本書はこれまでは何度かチラ見しただけだったけども、今回ようやく通読できたのでその内容と感想をメモしておきたい。
まずタイトルについて書くと、訳者あとがきによれば、本書の原題は「革命家 ナザレのイエスの生涯とその時代」ということになるらしい。この点、邦題はおかしなものになっている。本書はイエスは実在したかどうかを検証するものではなく、イエスは実際はどんな人物だったのかを探るものなので。
次に内容について書くと、本書は三部構成になっている。まず第一部では、イエスの生れたエルサレムの状況について説明されている。ローマによるユダヤ支配の方法、ローマと祭司の癒着、当時のユダヤ人の暮らしぶり、ユダヤの解放、独立、ダビデの王国の再建を試みる人々など。


第二部ではイエスの実像について語っている。その中で印象的だったのは、当時の識字率、イエスの職業などから、イエスは読み書きはできなかったろうと推測していること。洗礼者ヨハネについて、かなり大きな存在として描いているのも印象的である。

 
聖書の中のキリストの心を受け取らないで、史実の中の人間イエスに興味を示すのは、自分が自分の視野の中で肯定する事実以外何も受け取らないのと同じですから、自分の外に真実の可能性を望み求める信仰には、逆行する心の向きなのです。興味本位で、キリスト関連の本を何冊読んでも、楽山が受け取って満悦することは、信仰とは何の関係もないことになるでしょう。
 
心を揺さぶる霊感が、神からのものであるかどうか、それは、人間には分からないものですが、心が揺さぶられたことは、そのときの個人的な真実であり、それが新しい経験によって、修正されるまで、真実としての重みを持つものです。
 
楽山が、それを、知識として、一気に受け取ろうとしている間、真実にならない知識が無駄に増えてゆくだけだろうと思います。
 

著者はここで、福音書と史実との食い違いを多く指摘しつつも、福音書作者は、自らの信仰と、イエスの本質を書き記そうとしたのであって、実際の歴史を綴ろうとしたのではなかったとしているのも印象的である。福音書作者と史実を探る自身との立場や視点の違いを強調しているのには、福音書作者への配慮がうかがえる。

 
聖書から、知識だけを求めて、自分の視野で真偽を処理することは、辻褄合わせで謎解きの興味の範囲を超えることはなく、聖書が伝える真実に一歩も近づきません。その選択において既に自尊が勝っていて高慢のベースが元々ある人のすることで、むしろ、真実を拒否して無感動な平板のゲームに興じているに過ぎません。
 
一方、聖書から、心を揺さぶられる経験をしたら、聖書の史実、つまり、二千年以上前の史実にこだわる必要はありませんし、そのような考え方ではいられなくなります。
 
私たち一人一人の人生において、心を揺さぶるものだけが、命を生かし心を動かすことになるからです。何故なら、心を揺さぶるものは、過ぎ去ることがなく、新しく揺さぶられるまで、そこから、学びが生まれてくるからです。
 
楽山は、学校で勉強するのと大して変わらない学習をしているわけで、そういう知識であるかぎり、人生は、負から正には、死から命には、絶望から希望には、変わりようがありません。
 

またイエスの行った奇跡について、それが神による奇跡であるか、魔術であるかの議論はあっても、奇跡それ自体があったかどうかを疑う文書はないとしてるのも印象的である。当時の人々にとって、何による奇跡かは問題になっても、奇跡が事実かどうかは問われなかったらしい。

 
ここから、楽山は、奇跡にこだわり、奇跡があったというほうに傾いているのでしょうか。何による奇跡かにこだわるのでしょうか。ここで言う奇跡とは、物や肉体に起こる奇跡のことで、そういう奇跡があってもなくても、現代では、めったに起こらないのだから、すがりついても、すがりついても、神だけがそれを決めることで、人の手には負えません。奇跡は神に任せて、人間として、努めて、導きを祈る以外に何が出来ましょう。
 
物や肉体の奇跡は、神に任せるしかないものなのです。私たち人間が求めるべきは、魂の奇跡、言い換えれば、心に起こる奇跡のほうです。この奇跡は、今も、人間に、起こっており、これからも起こることです。そして、それらは、人間と人生の深みに関わってきます。ゆえに、人間は、この奇跡について、感じ取り、考えるべきであります。
 
なお、魂、心、霊、精神、などを、人間は区別できません。使い方や文脈によって、使い分けているだけです。人間の心を、霊とか霊的とか言い換えて、言い得たと満足するようにならないでほしいです。
 
人間にとって形無きもの、かつ、大事なものは、心に働きかけるものであり、心にあるものです。言葉だけ言い換えても、言い換えなくても、同じです。この心が渇いているところにのみ、信仰は必要なのです。知識を得て、知ったとか、分かったとか、結論しないでください。
 

あとは…当時は、障害者や病気の人が神殿に入ることは許されず、もしどうしても入りたければ、祭司に高額な費用を払って特別な儀式をしてもらわなければならなかったが、イエスは費用をとることなく、無料で、それらの人々を癒し、浄め、神殿に入れるようにしたのであって、これは祭司に対する強烈な批判になっていた指摘は格別印象に残った。

 
宮清めのことでしょうか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
21:12
それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
21:13
そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
 (マタイ21:12-13、新約聖書)
 

第三部では、イエスの死後の弟子たちの動きについて書かれている。イエスの死後、弟子たちのリーダーになったのはペテロではなくて、イエスの弟ヤコブだったこと、ヤコブは教団の内外から義人ヤコブと言われるほど尊敬されていたこと、ヤコブらが主流であり、パウロはそうではなかったこと、ヤコブは殺され、ローマによってエルサレムは焼き落されるにいたってヤコブらの流れは細くなり、パウロ側の勢力が増していったことなど。

 
誰が重要で、リーダーだったかにこだわるのは、偉くなりたい者たちの自尊のゆえなのです。楽山の読み方は、自分は知っているのだと、ケチをつけるために読んでいるような読み方です。楽山は、勢力争いやゴシップにだけ目を向けていて、信仰そのものについて何も受け取っていないことが分かります。
 
人間理解について少しも受け取ろうとする気持ちがなく、興味本位だけで読む人は、謎解きや、言葉尻にこだわって、結局は、聖書も信仰も茶化すだけになるのでしょう。
 
少なくともキリスト信仰に限っては、完全無欠で、満足がいくような、つまり、信じたら完全無欠にしてくれるような信仰?に出会うことはありません。そのような超常信仰はカルトの大好物に過ぎません。どんなに聖書を熟読しても、人間の理解力が不完全だという自覚のないところに、欠点や失敗そして罪の自覚のないところに、信仰が芽生えることはないのです。
 

最後に全体の感想を書くと、本書のように宗教の起源について書いたものを読むと、宗教は神によるものであるという考えを批判し、宗教は神によるものではなく、人の中から生じるものだとする意見に対して効果的な反論を試みるのは難しくなるようである。

 
楽山は、聖書を信仰を受け取るためではなく、知ったかぶりの興味本位ですから、大切なことを受け取ることなく、勢力争いや党派に関心が向くようです。そういう読み方しかしていないのに、「宗教は神によるものではなく、人の中から生じるもの」などという分だけ、浅はかで傲慢なのです。つまり、人間が神を俯瞰しているような読み方だということです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
20:25
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
20:26
あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
20:27
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
20:28
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
 (マタイ20:25-28、新約聖書)
 

ただそうは言っても若干、心に引っかかるものがないでもない。例えば本書では、ユダヤ民族の独立を目指した自称メシアは大勢いたとしつつ、その中でイエスの名が残ったのは、イエスの復活を信じた人がいたからだとしているが、ではなぜイエスの復活を信じる人が現れたのか、なぜその信仰は共感をよんだのかについての答えは見当たらない。ここはちょっと不満ではある。

 
偽の神を信じる者も、偽キリストも、偽預言者も、多くの時代に、われこそは、と現れます。身近なところでは、預言者気取りの反省しない偽善者シャロームが、ぴったり当てはまります。一時的に、世辞や詭弁や刷り込みが効いて、未熟なまま信じる人や慕う人が出てきたりするから怖いのです。
 
キリストを忘れられず、キリストの復活を信じてゆくのは、キリストが、それだけのものを残していったからに他ならないでしょう。筋書きをなぞるだけの読み方では、心が砂袋のようなものになっているので、キリストが残した大切なものを受け取る器にならないのです。
 

「どのようにして?」ならともかく、「なぜ?」という問いは、事実を問うというより、自身が納得できるかどうかを問う要素が強くなりすぎて、あまりよろしくないとは思うのだけども、でもやっぱりここは気になるところではある。これについては宗教や進化心理学の本を読み漁ることになるのだろうけれども、とりあえずは今後も自分のできる範囲で調べてみるとしよう…。

 
このように、事実のみを問うて、個人的な納得を軽視する楽山のような向きは、いくら進化心理学などと難しそうな学問の種類をあげて気取ってみても、たとえ、それらを読んだとしても、今までと同じように、信仰者を惑わし、信仰を妨げるだけでしょう。人間として、聖書に表されたキリストを知ろうとするのに必要な動機と求める本気の心がないからです。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
19:1
さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
19:2-4
ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
19:5
イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6
そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
19:7
人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8
ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
19:9
イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10
人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
 (ルカ19:1-10、新約聖書)
 
ザアカイは、金持ちだったが、取税人だったので、さげすまれていました。救いなど、とんでもないと言われていたのでしょう。そこで、キリストの噂を聞いて、木に登ってでも見ようとしました。キリストを求める心があり、キリストは、ザアカイの救いを求める姿勢に気づいておられたということです。
 
10節が、最も、そのことを表しています。ザアカイのような、失われたもの、そういう人が、キリストの救いに与(あずか)ります。文句を言わずに信じろと言うのはカルトです。キリストは、誰がご自身を必要としているかを知っておられました。
 
楽山の姿勢は、ザアカイとは異なっています。知識を仕入れて、実在したかどうかを云々し、奇跡は実際あったのかにこだわる姿勢は、何よりも、知識で矛盾のないことが真実だと思い込んで、それらが、全部クリアされたら、信じてやろう、という、自らを高みに置いた姿勢です。
 
このような高慢な位置にいる者の心には、その位置が変わらない間、分かっているさと、いくら信仰芝居を書いてみても、本当のキリストが表れても気づかないでしょう。そして、キリストについて、いちゃもんのような文句ばかり言うことになるでしょう。
 
知識があってもなくても、自らを恥じる心を持つ人は、ザアカイの心に共感できるでしょう。さらに、キリストが歩んだ絶望的に孤独な生き方と死に方が、無駄ではなく、二千年の時を超えて、心に響くことを受け取れる時が来るだろうという希望もいだいているから、私は書き続けています。
 
信仰は、意味と言葉尻を合わせる辻褄合わせではありません。
 
聖書から、
理屈を覚えるのではなく、良いことだけを覚えるのでもなく、
神と人、キリストと人、人と人、心と心を合わせるのが信仰です。
その答え合わせは、この地上では確定しないのだから、
祈りと赦しが必要なのです。
 
 
(2019年08月22日) 
 
 
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