楽山の感性鈍麻2
 
 「鬼滅の刃」と「幸福の科学」(5)信者の反応3
 2020年10月31日 楽山日記(LD)
 (一部省略)
 
 
楽山は「鬼滅の刃」が、よっぽど好きなのでしょう。この映画をHSが批判していることで、矛先をHSに向けて、楽山自身の問題からどんどん話を逸らそうとしているようです。HSの、この映画への評価に関心はありません。このようなやり方で、楽山が、自身の問題から目を背けることを批判します。
 
 
*ダメ出し
 今日は、ツイッターで、遠江秀年氏の動画が流れて来たので見てみた。
・「鬼滅の刃」の黒鬼と、草津赤鬼の対決【大川隆法霊査】 - YouTube
 」
遠江氏は、ずいぶんボカした言い方をしているけれども、それでも幸福の科学(HS)では、「鬼滅の刃」にダメ出ししていることは十分に分かる。
そのためだろう。コメント欄では、信者らしき人たちが、「鬼滅の刃」をおとしめる発言を連発している。そのなかには、単なる感想ではすまされそうにないものもある。たとえば、これだ。
2020-10-31-06_40_36 女性の新人の作家にしては
 」
気持ち悪い、グロいというのは、個人の感想であろうけれども、女性にしては…みたいな言い方は、差別、名誉棄損とみなされ、糾弾されても文句はいえなかろう。
 
気持ち悪いのは、そして、宗教を駄目にするのは、楽山です。悪口をHSに向けて、安心して好きなように、いじっています。問題は、楽山が、宗教、特にキリスト教をおとしめて、今も平気でいることなのです。楽山は、無反省であるために修正と学習機能が働きません。ゆえに、成長がないのです。
 
つまり、楽山が、批判されても全く弁明できないのに、後悔もせず、反省もせず、ゆえに、修正することもなく、学習することもなく、何事もなかったかのように、無責任な発言を、今も平気で出来ることこそ、人間として異常であることの証拠になっています。
 
楽山の、自らの置かれた状況を弁えない精神こそ、ほぼ恒常的で体質的な高等感情の鈍麻であり、誰よりもグロテスクなホラーなのです。楽山に、他者のことを言う資格はありません。どうか、楽山の言うことを真に受けないでください。どうか、楽山を相手にしないでください。
 
 
*右向け右
それにしても、こういう信者たちを見ると、大川隆法の言葉(および霊言)によって、信者はみんな一斉に同じ方を向くというのがよく分かるなあ。そうではない信者もいるのだろうけど、それはあくまで少数派であり、稀な存在にすぎないだろう。
 
まるで、自分が批判されていることの腹いせのように、HSを責めています。楽山は、自分と同じ方向を向かないもの、例えば、キリスト教を、おとしめたり、また、逆に持ち上げる芝居をしたり、実に、いい加減なやり方で、批判したつもりになる人です。本気というものが存在しない楽山です。
 
「鬼滅の刃」という鬼退治のヒーローものの映画を、ホラー的要素で感想を書き、そのいちばん大切な人間的な共感を全く受け取っていないことが明らかであり、楽山の感受性が、超常・魔術・ホラーを楽しむ趣味にしか向いていないことを露呈してきました。楽山は、泣けない人なのでしょう。
 
 
以前、宏洋氏は、HSでは何でも大川隆法の言う通りにしなければならない、大川隆法が誰それがかわいいと言ったら、そのように思わないといけない、「いいえ、自分はそうは思わない、××の方がかわいいと思う」と反対するのは許されないという主旨の発言をしていたけれども、今回の件を見れば、これは当たらずとも遠からずということは言えそうだ。
 
こういう「言う通りにしなければならない」「反対するのは許されない」といった、きわめて単純な言い方の批判しか出来ないのは、楽山自身が、無反省や無責任、反社会であり、不感不応、冷淡であるために、人間性に関することについて、まるで、感受性がないからなのです。
 
ゆえに、楽山らしい「当たらずとも遠からず」などという遠回しのボンヤリ言語の言い方で、責任回避が表れてくるわけわけです。自己批判の内省ができない楽山に、誰かを批判する資格はありません。
 
 
*過去
ちなみに自分は、会員だったころは、上の信者たちと大して変わらなかった。たとえば、ずいぶん古い話ではあるけれど、フライデー騒動のときに、支部で、「フライデーはけしからん。講談社の本は読んでいかん。現代の悪魔は、活字から入ってくる。だから講談社の出版物は読んではいかん」という話を聞けば、自分はそれに従っていた。
 
楽山は、元々の欠陥から、主体性も自立性もなくて、カルトにも、世評にも、ひょろひょろ乗ってしまうくせに、そのことを、全く自覚せずに、他者を批判するわけですから、書けば書くほど、自己中心で他者を責めるだけの病質が明らかとなって積み重なってゆくわけです。
 
批判というのは、ある種、恥を覚悟で、真実と正義を追求することですが、楽山が違うのは、最初から、おのれを悪の範囲外において、真実と正義が既に確保された気分から物を言っていることです。そこは、恥を知らない、実に、おぞましいところなのです。
 
 
だから、本を買うときは、必ずどこの出版社かを確認し、もし講談社のものであれば買うのは断念した。どうしても読みたい本であれば、講談社のものでも買ってしまったけれども、そういう時は辺りを見回して、誰からも見られていないことを確認した上で、後ろめたさを感じつつ買ったのだった。
 
批判が単純なら、その行為も単純になります。その結果、盗人のように、こそこそと、動く、というより、だんだん、虫のように、這うように、目立たないことを確認しながら、じめじめと、蠢(うごめ)くしかなくなってゆきます。
 
 
あとは、当時のHSでは、ロックは地獄的なものとされていたので、ロックを聴いたり、バンドをやるのにはうしろめたさがあり、早くこういうことは止めなければ…という思いを常に抱えていたのだった。
こういうことは、今にして思えば、じつにバカバカしいことではあるが、信者、会員でいるうちは切実な悩みであったのだ。
 
うしろめたさを、どう考えているのでしょう。あの頃は・・で、振り返ることができるのは、後悔している人です。楽山には、あの頃のせいにして、HSのせいにして、何でもかんでも他者のせいにして、本当の悔いとか反省とかを知らない態度と姿勢が、書く文章に表れてしまいます。
 
楽山は、妄想さえも信じ込む人なのでしょう。そして、今は、自分が、妄想して、柔らかさに見せかけたボンヤリ言語やトホホ言語で、信じ込ませようとしているのです。中身は、浅く、自己正当化に過ぎないものです。しかも、楽山は、当たり前のはずの、責任感がありません。
 
 
というわけで自分は、もともとは「鬼滅の刃」ファンだったにもかかわらず、教団の方針によって、それを嫌いにならなければならない状況に陥っている信者がいるとしたら、本当に気の毒に思う。
 
このように、悪いことは人のせいにして、反省せず、上から見下ろして、信者を哀れむ態度のみが表れています。楽山は、自分が、上にいて、何事か教え、憐れむ主体である前提でしか、物が言えなくなっているようです。真実追求とは、真逆であります。
 
 
まだ未確認ながら、ツイッターでは、信者同士がフェイスブック上で「鬼滅の刃」のことで喧嘩したという話がながれてるけど、もし今回の鬼の霊言が原因でそういうことが起きたとしたら、これも気の毒であるし、残念なことだと思う。
 
こういう人は、自分は正義の立場にいる、という前提で、他者を、気の毒、残念、などと言うことになります。ボクは大丈夫だけどね・・という高慢な楽山が見えているのです。これからも、楽山から、偽善の臭い憐れみを向けられる人々が増えてくるでしょう。
 
一見、同情しているように見えて、病質者というのは、心の真実の豊かさが育っておらず、弁えも節操もないために、物を言えば、高慢、傲慢、自慢、というのが、表れてくるのでしょう。愛と同情と共感に見せかけていますが、これは、実に陰湿な、そして婉曲的な、軽蔑、侮辱の類なのです。
 
「殴られるより悪いことがある(三島由紀夫)」を、私が、しばしば引用するのは、まさに、この楽山のような人がいるからです。楽山の対象は、同情されているのではなく、軽蔑されているのです。それが、楽山の快感なのです。体よく誉めることが侮辱になる・・あり得ることなのです。
 
    「殴られるより悪いことがある」
 (三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞字幕)
 
 
鈍感 無力

鈍感 無力
 
 
(2020年)
(2022年11月25日、再録+加筆)
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害の特徴
 
人より優れていると信じている
権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
業績や才能を誇張する
絶え間ない賛美と称賛を期待する
自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
人の感情や感覚を認識しそこなう
人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
人を利用する
劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
嫉妬されていると思い込む
他人を嫉妬する
多くの人間関係においてトラブルが見られる
非現実的な目標を定める
容易に傷つき、拒否されたと感じる
脆く崩れやすい自尊心を抱えている
感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
Wiki
 
 
 
  上手なサービス
 
原稿を上手に読む女性の声が
芸術作品を説明している
 
骨を上手に覆い隠す
肉の遺伝子を持っていると
イドラになれる
 
この部屋には誰もいないが
名前が上手に住んでいる箱がある
すり替えられた名前は上手だ
 
流れ弾が少年の叫びを上手に止めた
刃物が少女の日常を街角に赤く流した
 
上手に上手に
もっと上手に
坊主が上手に不毛を捏(こ)ねて
誰にも悟られないイコンを作った
 
リップサービスは上手にフリーで
幸福な未来を捏(でっ)ち上げた
 
サービスできない未熟なリップは
未だ上手も下手も知らないが
サービスと奉仕に
反比例の臭(にお)いを嗅ぎ始めている
 
 
  青春と反骨
 
青春
青い 春
これは明らかに老人臭さが
昔を懐かしむ名だ
青は未熟
春は陽気
青春は未熟に浮かれる
 
青春
青い春
これは明らかに生きる欲求に満ち溢れた
人の季節の名だ
青は新芽
春は芽吹き
青春は新しく活(い)きる
 
肉体はとっくの昔
青春の嗅覚も色も失っているが
懐(ふところ)のどこかに
欠片(かけら)のように熱(ほとぼり)のように
否(いや)だと言える尖端を欲しがっている
肉はなくても血の通う骨はありたいと
糸屑のように温もりのように
関わりの緒(いとぐち)を求めている
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは当たってる気がする。
>>引用ツイート
レイ(三浦綾子記念文学館公式キャラクター)北海道旭川市
#三浦綾子 #今日は何の日
自分のほうが悪いと思っていて喧嘩になることはない。が、自分のほうが正しいと思っている時に、延々と争いがつづく。(『聖書に見る人間の罪』)
<<
午後3:15 · 2022年11月23日
 
楽山は「自分のほうが正しいと思って」固定する、訂正不能の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。楽山の正当化は嘘と詭弁に満ちています。何でも引用して、上から、単純に評価して、歪曲して、言えた気になり、不祥事を他者のせいにしてきます。
 
「当たってる」で同意し「気がする」で曖昧にして刷り込んできます。実際には、何かを本気で考えたという実績は皆無であります。楽山は、人の言うことを受け取って考えるということが出来ないからです。出力だけで満悦したいのです。さらに、思慮深い人と思われたいのです。実際は、真逆です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
自分の欠点を認めないということは、人生において不祥事に結びついてきます。しかも、自覚がなく、反省しないために、進歩がなく、訂正不能になり、決めつけの偏見だけになり、真・善・美・信などの大切なテーマについて、何も成り立たず、迷惑なだけの、未熟な自我を形成してしまいます。
 
このコメントを見るたびに、楽山の悪性度の高さを確認します。保身だけの卑怯者です。そのために、平気で嘘を吐き、印象操作の引用をして刷り込もうとします。もはや、過去3年以上の負の実績によって、楽山の言は、汚染した灰のように、質量もなく、見苦しく虚空を舞っているだけです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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