妄想詭弁全開3
 
 私の記事「無知と無恥」コメント欄
 シャローム(シャロム、shalom、あなた、彼)のコメント
   を改めて批判。
 
 
約10年間、批判対象となっている偽牧師の反キリスト、シャロームshalom のコメントを、もう一度、書いておきます。良心と常識の欠如が表れています。改めて読んでみると、書き足りないことが多々あり、加筆しておきます。似たようなことは、楽山にも言えるでしょう。
 
楽山とシャローム、そして、荒らしの易坊については、一人による成りすましを疑って、"楽山やシャロームなどの易坊類" と呼ぶこともあります。宗教と信仰を、妄想的に訂正不能に、勘違いして、先入観として固定している者たちです。
 
またしても、執拗に、言いがかりを書いてくるシャロームからのコメントです。
相変わらず、私の言ったことを、まるで受け取らないで、妄想を語るシャロームです。
崩壊が進んでいます。これでキリスト教のつもりか・・ってことを書いてきました。
 
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月15日 09:12
「キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。」
st5402さんは誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、
完全ではないということが人間の罪の性質と考えておられるのですか?
そんなこと聖書のどこに書いてありますか?
 
神の性質との比較です。神は、全知全能・絶対完全・永遠不変・・、人は違う。聖書全体が、そのように書かれているわけですが、シャロームは、否定するのでしょうか。「聖書のどこに」?・・呆れます。聖書から人間の不完全を読み取っていない偽牧師だということを自分で表しています。
 
聖書を読んで、聖書の言葉から、現実を考え、自分の人生に広げてゆくのが聖書を読むことだと思っています。今までのことから、シャロームは、聖書の言葉だけで完結して、考えることをせず、意味や意義を実感に広げられず、言葉の合致だけで、超常神秘を語ったつもりになるカルト性です。
 
今さら、そんなことを聞くなんて、おかしいわけです。聖書から、何も考えないなら、聖書を読んだことにはなりません。シャロームは、いつ神相当の知性を得て、考えなくて済むようになったのでしょう。そう思っているなら、空想~妄想~誇大妄想だけが残るでしょう。
 
言葉だけ受け取って、込められた心を思わない者の、哀れな結末が、シャロームに表れています。だから、空っぽに満たされているシャロームです。しかも、それで、聖書を読んだつもりになって「どこに書いてありますか?」などと聞いてくるとは、呆れます。
 
神は全知全能として信じるということです。人との違いです。それを「どこに書いてありますか?」と聞いてくることが、シャロームが聖書を読んでいない証拠です。まず、聖書から、直観的に理解できないというのが、偽牧師で偽信仰者である証拠です。
 
聖書を通じて、神は全知全能の存在として表されています。そのことは、全知でも全能でもない人間にとっては、神が、人による分析や評価の対象とならないことを意味しています。聖書から読み取るべきは、神の詳細ではなく、人間の現実と真実であります。
 
私たち人間が、全知でも全能でもないことは、現実の経験から分かると思いますが、それを認識できない人がいるようです。シャロームも楽山も、信仰において必要な最低限の理解力が、信仰において致命的に欠損している証拠になります。
 
そういうことなら、あなたシャロームの妄想が、どんどん明らかになっていることも分からないでしょうね。恐ろしい人間離れの異常性です。シャロームのカルト性は明らかです。
 
あなたシャロームが、自分の言動を、神に結ぶ付けるのは、そういうところにあったのでしょうか。だとすれば、あなたシャロームは、われは神なり、と言っているようなものです。人間離れの神がかり妄想であることが、あなたシャロームによって証明されるわけです。
 
推測し予想したとおり、あなたシャロームは、頭も、心も、脳も、どんどん崩れてゆきますね。これで、まだ、聖書と信仰を教えるつもりでいるなら、説明しても分からないでしょう。こちらが言ってきたことを、まるで受け取っていないシャロームは、もはや、人間であることをやめているのでしょう。
 
問いつめだけ書いてくるのは、何の説明も説得力もない証拠です。
かといって、
あなたシャロームが説明すれば、恐らく全部、妄想をだらだら書くことになるのです。
とても醜いです。
 
 
聖書の冒頭の創世記1~3章すらよく読まれていないのではありませんか?
ほんとうに人間の罪の性質、その罪の共感から
本当に謙虚、謙遜、敬虔が生まれるのですか?
その共感をもとに信仰の道に入るのですか?
ほんとうですか?
 
このように、弁明せずに、問い詰めてゆくのは、荒らしやカルトや詭弁家の特徴です。聖書の創世記を読んで、シャロームは、罪の性質を理解せず、かえって、今まで現れてきたところの、訂正不能の、何でも赦される自己中信仰?を受け取ったのでしょうか。読解力がないようです。
 
罪を認めないあなたシャロームは、何も理解しておらず、何も受け取っていないということです。信仰は、パーティーでも、お祭り騒ぎでも、おまじないでも、大売り出しでもありません。シャロームの超常話の、共感など何もないところに、人間が信じられる良きものは、何もないです。
 
罪の認識からしか、信仰者の敬虔は生まれません。共感は、神と人、キリストと人、人と人の関係を結ぶためにあります。何の共感も必要としないところには、先ず、関係が生まれていないのです。
 
あなたシャロームは、人間離れのペーパーか墓標みたいになって、
書類の偽造のように、契約を捏造しているのです。
シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。
 
 
st5402さんの実体験からの言葉でしょうが、
あなたの考えは自分を正当化しやすいための合理化ではありませんか?
そういう考えが際限のない自家撞着の原因ではありませんか?
shalom!
 
自己正当化の権化であるシャロームは、自分が言われそうなことを、こちらに向けて書いてきます。これは、シャロームがよくやることです。「自分を正当化しやすいための合理化」?・・それで、何らかの正当性の担保になるでしょうか、全く否です。私は、神の前に、折に触れて、罪を告白しています。
 
罪の自覚は、自己正当化をしない方向にあり、ゆえに、反省を促します。あなたシャロームの醜い自己正当化を見ると、正反対なのが、よく分かります。
 
私は、愚にもつかないあなたシャロームの意見を、今はもう、まともに受け取ることはないですが、まだ、あなたの正体を知らない人が、影響を受けないことを祈るばかり。あなたは、悲惨な病原となっています。
 
天地と人間の創造の話を、思慮も良心もないために、「はなはだ良かった」と言う神の言葉にしがみついて、自分も良かったのだと、悪いところはないのだと、有頂天気分となり、人間の罪を、全部サタンのせいにして、聖書の教えとは真逆の無罪妄想に仕立てるつもりでしょうか。
 
そんなこと信じたらどういう人間になってしまうかも考えず、また、皆がそう信じたらどうなるかも考えず、自己正当化で悦に入るゆえに、学習も成長もなく、堕落し崩壊して、サタンのしもべに限りなく近づきつつある妄想の自家製の臓物が、あなたシャロームの偽信仰です。
 
これだけ言っても分からないでしょうけど、分からないなら人間として最小限の常識もないということです。まだ、撞着と書いてます。私の書いたこと、まるで読んでいない証拠です。問い詰めるが、問い詰めた対象の意見を読まない聞かない、これがピュアな疲労物質のあり方です。
 
どう‐ちゃく【×撞着】 の解説
[名](スル)
1 つきあたること。ぶつかること。
「忌諱すべき事に―することも」〈鴎外・渋江抽斎〉
2 つじつまが合わないこと。矛盾。「話の前後が―する」「自家―」
類語:矛盾(むじゅん)
 
楽山やシャロームなどの易坊類によく見られるのは、わざわざ難しい熟語や用語を、説明なしに書いてくることです。こんなに知っているんだアピールでしょうか、逆効果です。理解してもらおうという気持ちがないことの証拠になります。
 
人の言うことを聞かず、教えようとするだけなのは、シャロームが、他者をモノ化して、蔑んでいる表れです。他者を人間でない者として扱うことは、結局、そういう扱いをする人が非人間であることの証拠となります。議論など全くできないし、一方的な主張だけを出してくる人の特徴です。
 
信仰は人間のためにあります。信仰?を受け取ったつもりで、人間離れするなら、そういう信仰?は、元も子もないものとなるのです。そういう人間離れが宗教と信仰だと思っている楽山やシャロームは、つまり、何も知らないことを自ら証明しているのです。
 
 
8. shalomです。 お久しぶりです。
2019年11月15日 15:23
「批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また・・・書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。」とのことですが、
早く終わりにしたければ、あなたに自由意思があれば、いつでも終わりにできるのです。終わりにするか、しないかはあなたの意志の決断にかかっているのです。
 
シャロームが、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと言って、自己中心だけの偽信条を、キリスト教として教えられてはたまりませんから、批判を続けてきました。シャロームが、キリスト信仰とは真逆のことを平気で記事に書いてくることから、私の批判は始まっています。
 
シャロームは、丁寧語とは裏腹に、信仰を、茶化しているわけです。批判を終わりにするかどうかは、私の意志によります。シャロームが、とやかく言うことではありません。それに、批判の継続は、シャロームが、納得のゆく弁明も反論も出来ないまま、嫌がらせを書いてくるから続いているのです。
 
現時点では、シャローム批判も、楽山批判も、記事が数えきれないほど多いので、もはや、資料となっています。この資料は、偽善者、異常者、詭弁家が、どういうだまし方をしてくるか、どう対処したらいいか、ということの参考資料ですから、これからも再録してゆくことはあるでしょう。
 
フォローしているブログも、信仰者のブログも、他にも多くありますが、批判しないブログがいっぱいあるのは何故か、ということを一度も考えないあなたシャロームだから、こうなっているのです。
 
しかも、批判を理解することが出来ず、執拗に、同じような超常話を書き続けるから、批判は持続するのです。あなたが、自分の異常性に気づかず、異常性をごまかして、吐き気のするような嘘の飾りの讃美言葉と言い逃れの詭弁を並べるあいだ、ずっと続くということです。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」とのことですが、8年間絶え間なく、書き続けているのはあなたでしょう。
それはあなたのブログを読めばだれでも理解できるでしょう。
私はコメントを未承認にしたり、時には削除したり、コメント欄を閉鎖したりしました。今も数多くのあなたのコメントが未承認のままミイラのように眠っています。間もなく消え去ります。
 
シャロームは、この記事の時点で、批判が8年間続いていることを、私のせいで起こっている異常事態と見なしているようですが、シャロームが、批判されるような記事を書いて、批判されて、反省も反論も弁明もできないで、なおも、嫌がらせだけを書いてくることのほうが、よっぽど異常事態なのです。
 
批判される必然を持っていて、あなたシャロームが自己満悦を書いて、いつもいつも排泄してきて、キリスト教のつもりで、福音をけがし、キリストをけがして、それが人間関係や受け答えにも出ているから、妄想は妄想だと言わなければならない必然があるわけです。
 
批判対象となる文章が無ければ、批判は生まれない、という当たり前のことが分からないとは驚きです。それで被害者意識しかないのは、自己中の訂正不能の特徴です。
 
シャロームが書き続けたので、批判対象となる文章が、今の時点で、約10年間続いてきたことが、資料化につながり、ゆえに、現時点では、批判対象記事引用+批判記事というあり方が可能になっています。ゆえに、批判のほうは、いつでも、かなり総合的にアップデートが可能となっています。
 
何も理解していないのに、何も気にしないで書いてくるのは、あなたシャロームに、反省がなく、学ぶ意志もなく、妄想だけがあるからです。それをキリスト教・キリスト信仰だと思われてはいけないのです。妄想に憑りつかれているのは、あなたなのです。今となっては、分からないでしょうけどね。
 
この人の言うことは、全部、間違っていて、正反対ですと、言わなければならない・・という私の課題が消えようもないわけです。言論の責任を負わないならば言論の自由もないのに、おかまいなしに、言葉の暴虐を尽くして、聖書も信仰もけがして平気でいられるシャロームは異常です。楽山もです。
 
あなたシャロームの、レコーダーのような、以前とまるで変わらない、反論にも弁明にもならない不平の集積されたゴミ置き場のようなコメント欄を見るのは、極めて不快ですが、シャロームの言ってることが妄想で、偽善だ、というアピールをしなければならないのです。最初からあなたが原因だからです。
 
無反省の偽善者は、批判を、促進するということです。批判のはじめから今に至るまで変わらない背教と、とんでもない妄想教理を、あなたは、示してきたわけだから、その責任を問われるのは、もはや宿命なのでしょう。
 
 
「また・・・書いてくるので、また、批判せざるをえない状況です」と
他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのものです。
 
「他の人の責任」というのは、言うまでもなく、シャロームの責任ということです。シャロームは、おかしなことを書き続けている自分に対しては、全くの無反省であることが、偽善者、自己中、病的ナルシスト、サイコパスの特徴を表してきたのということです。
 
この引用部分の「他の人の責任にしているのです。アダムとエバが神に対して罪を犯した後の姿そのもの」が自己中と無反省の典型です。それは、無反省と自己正当化の、シャロームのほうです。しかも、平気で、神と聖書を悪用して、責任転嫁をしているのです。
 
根拠のない決めつけが、シャロームのお家芸として続いています。私は、シャロームと楽山を批判しています。神ではありません。アダムとエバの話は、人間一般の罪人の姿を表します。あなたは、また、間違えました。それが、修正不能になった偽善者の悲惨な経過です。
 
あなたシャロームは、いつもいつも偽善の典型だけを示してきました。今日のコメントは、妄想に憑りつかれて訂正不能になっている者の典型的な発言です。神は、あなたシャロームのような、不平ばかり言うような横暴な者の味方にならないことを、カインの話が示しているのです。
 
 
あなたの自由意思は罪の鎖につながれたまま支配されているのです。
イエスさまは私はあなたがたに自由を与えると約束されましたが、
あなたはその自由をイエスさまから受け取ってはいないのです。
 
自由意志を、自由ではなく、罪の鎖だと、逆説を言いながら、解説を書けないのもシャロームの特徴です。何も説明が出来ないのだから、説教など出来る人ではありません。主イエスが与えるのは、魂の自由と解放という救いであって、シャロームが言っている修正不能の自己中の自分勝手ではありません。
 
 
9. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月15日 15:25
コメントのおしまいに
「シャロームあなたは、嫌がらせのためだけに、嫌がりそうなことを書いてきたのでしょう。」書いておられますが、
私からのst5402さんのブログ訪問やコメントは脅しであったり、嫌がらせであり、嫌がりそうなことなのですか?つまり荒しであり、
あなたの私のブログ訪問や無数のコメントも脅し、嫌がらせの類だった、荒らしだったのですか?私はそう判断しましたので、未承認にしたり、削除したり、コメント欄を閉鎖しましたが、あなたの意思に従うのではなく、それが私の意思による決断でした。
 
シャロームは「私の意思による決断」と書いて、また、正当であるかのように見せかけていますが、実際は、批判に何も答えられないまま、シャロームのブログを、まともなブログに見せかけるための、都合の悪いコメントを不可視化~削除する隠蔽操作なのです。
 
また自分が言われることを、こちらに向けています。この後、シャロームは、私のライブドアブログに、"名無しの猫" などという荒らしらしいHNで、似たような荒らしコメントを書いてきました。シャロームは、通らない文句を何度も言う荒らしです。荒らしの易坊と息が合うわけです。
 
そういうふうに、批判を受け取らず、未承認~削除という対応しかできないことが、あなたシャロームが、反論、弁明、説明が、全くできないということを明確に表してきました。反論も弁明も出来なくて言うだけは言う、という言論のやり方は、ありえません。
 
だから、あなたシャロームの意志も文章も異常です。何か言われて、答えることのできない者が、特徴的に、安易にとってしまう不許可による隠蔽という強制力は、言葉の操作上の暴力であり、自尊の過大な妄想が固定観念になったものです。その典型が、シャロームと楽山です。同一成りすましかもしれない。
 
 
あなたに荒らしだと指摘をされた人はかなりおられましたね。
そういう人にもあなたは荒らしだと逆レッテルを張り、成りすましだと邪推し、決めつけられましたので、皆さん離れて行かれましたが、
そうだったためしがありません。
 
私の批判対象となったのは、シャローム、易坊、楽山、そして、カルトと見なした自称ヨシュア、自称マグダラマリア、などですが、皆、批判されると、怒るか、嫌がらせを書くかしか出来ないことをもって、似たような一方的な自己正当化の者たちでした。
 
離れていったのではなく、最初から、つながりはなかったのです。キリスト教のつもりで、妄想を書いていたのです。人間としての身の程を弁えず、信じて神のように完全になる、という、とんでもない冒涜が信条なのです。
 
私について、どこでも荒らす者という印象を吹き込みたいようです。批判と荒らしは違います。それに、私は、たぶん大丈夫と思う150くらいのブログをお気に入りに入れています。シャロームとは全然違うブログの世界です。楽山、シャローム、などの、ブログは、独特のカルト臭があります。
 
批判を受け取らず、悪口と同様に、荒らしだから削除することをやっていたのは、あなたシャロームです。言い返せないのに、相手にせいにするのは、カルトの特徴です。
 
シャロームは、批判コメントがあると都合が悪いから、隠蔽・削除するわけです。つまり、シャロームは、見かけだけを保とうとするような、自己中の、それこそ、見掛け倒しなのです。
 
私は、根拠を、何度も何度も示してきました。あなたシャロームは、言論というものを全く理解できないから、あなたの発言に、その度に、批判を当ててゆくしかないということです。
 
こういうことは、前にも、何度も書いてきましたが、また、同じことを書いてくるあなたシャロームは、被害者を気取っても、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい・・という暴言を吐き、内省不能の、自覚のない惨劇とでも言うしかありません。毎日、罪を食べて生きているのでしょう。
 
 
いつでも遅いということはありません。
今は恵みの時、救いの日であるという言葉が聖書にはあります。
きっと、ご存知でしょう。
shalom!
 
恵みの時、救いの日を、ずっと拒否し続けているのが、あなたシャロームです。恵みはいただいたつもりの妄想屋が、何も責任を果たさず、何も捧げず、弁えもない、という固まり方の厚顔無恥が、シャロームと楽山であります。議論というものが、何も分かっていないエゴの病なのです。
 
遅いも早いもなく、批判の必然は、あなたシャロームにあります。私は、キリスト者ですから、あなたシャロームが、詭弁をいくら重ねても、同じことを何度言っても、その都度、卑怯で汚いあなたシャロームに、改めて新しい批判を書く動機が生まれるだけです。
 
シャロームと楽山は、物品やその仕組みを理解するように、神と信仰を扱って、理解したつもりでいます。その決定的な不全を、シャロームは妄想的讃美で、楽山は曖昧ボンヤリ言語で、ごまかして、柔和を装う者であり、その口には、真実がありません。
 
しかし、一方で、批判対象とすることで、シャロームや楽山の言から、信仰者が、決して陥ってはならないところの、誤解、曲解、妄想、自己正当化、無反省、無責任、訂正不能、とは、どんなものか、ということを学ぶことが可能です。闇を見ることで、光を知ることもあります。
 
悪を認める罪人は信仰によって救われる可能性と希望を与えられますが、悪を善に見せかける偽善は、赦されることがありません。何故なら、善に見せかけることは、悪を認めておらず、罪を赦されることを自ら拒んでいるからです。卑怯が何を考えても、さらに卑怯になるという成り行きです。
 
 
偽牧師と反キリストの崩れ方

偽牧師+反キリストの崩れ方
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年12月02日、再録+加筆)
 
 
 
 (抜粋)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁から澱までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
(灰汁(あく)、澱(おり)、益々(ますます)、
 貶める(おとしめる)、晒す(さらす)、
 鬼哭啾啾(きこくしゅうしゅう):
  = 霊魂がしくしくと泣くさま。鬼気迫って恐ろしい気配の漂うさま。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省が大事なことだと分かっていないから反省しないのでしょう。そういう機能が、楽山の自我には、無い、あるいは、あってはならないことなのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。都合の悪いことはインプットされないのだろうと思います。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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